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AMCF 2022/6/16

カトゥエで娼婦の家に泊めてもらった。カトゥエはウガンダの首都カンパラ郊外に広がるスラム街だ。スラムと言っても赤土の道路脇に整然とトタンと木と赤土の煉瓦で出来たバラックが並んでいて、ドラマみたいにギャング蔓延る廃ビル群があるわけでは無い。

滞在2日目に見つけた屋上レストランは、ライフルを持った警備員が開けてくれる鉄格子の扉を抜けると、客同士の目線を遮る沢山の植栽の他には、屋根も壁も何も無い。

星の隙間で僅かばかりに存在する夜を見上げ、大通りの帰宅ラッシュへ整列する車の赤いランプを見下ろしながら、考え事をするのにピッタリの場所で、週に4日はここで瓶ビールを呑んでいた。

滞在から2週間が過ぎたあたり、カンパラからの帰りのバスで眺めるのどかなスラムが屋上から見えることへ気づいた時には、灯りも疎なカトゥエへ迷い込んでいた。

整然と見えるのは大通りから直角に抜ける小道沿いだけ。三面しか壁の無い家や、屋根のない家の立ち並ぶ辺りでは道と家と隣家の境目も判別がつかない。少し酔ってもいる。いくら星が明るくとも、知らない場所を戻るのは難しい。大人も子供も夜道に出て座っているが、余所者の話しかけられる雰囲気ではない。

少し開けた道に屋台見つけて、サモサと呼ばれる揚げ餃子みたいなものを注文する。店の人ならばとカンパラの方角を尋ねるが「ここがカンパラだよ」と、日本訛りの僕と、ウガンダ訛りの彼ではまるで話が通じない。

道に座って、隣にいた子供と買ったばかりのサモサを食べる。日本にいる、ウガンダの血が流れる姪を思い出す。

子供の母が来て、といっても旅していた頃の僕よりも随分と若い母が来て、ウガンダ訛りの母音の強い英語で「うちに泊まったら」と僕の目を見つめた「とても助かるよ」と答えて、もう息子を抱えて歩き出している彼女についていく。

家へ着くと、ベッド脇のマットレスに布を敷いて寝床を用意してくれた。ポケットに多少のお金はあるけれど、懐のパスポートの他は誰かに盗られたって構わない。第一ここは、彼女が生活していてきっと安全だし、スラムへの緊張や、歩いた疲労と、トタンの破れ目から見える星の美しさが思考を奪っていく。彼女の息子を抱いて豊かな気持ちになる。パスポートの他は、誰かに盗られたって、構わない。

彼女がそっと家を出ていくのも、だいぶ経って誰かと戻りベッドの上で仕事を済ませるのも、星を想像し、彼女の息子が立てる寝息を聞きながら、夢見心地に覚えている。

朝日が昇り人が動き出すより先に、彼女に連れられてカンパラのふちまで戻ってきた。「ありがとう」「これは大したお礼ではないんだけれど」と、渡した紙幣は突き返された。

「私はあなたを泊めただけだから」と、

理由を尋ねなかったから、僕自身すら気づかぬ僅かばかりに浮かんだ憐憫を敏感に受け取ったのか、それとも優しさがお金に変わるのが嫌だったのか、お金には頓着がないのか、そのどれでもないのかは、今もわからない。ウガンダにおいてお金は愛情表現の一種だから、あなたに愛はないのよと示されたのかもしれない。

「緩やかな共存」を思い描くたび、僕は何度もこの経験を思い出す。わからないままだから、共感や同意はそこにはない。ただわからないままだからこそ、何度も、これからも思い出し、増えた知識で問うだろう。

共感が出来ないものを見出した時に、僕たちは問いを持ち、孤独により遠くへと、思考の旅が出来るのだと思うのです。そしてその旅は個人の輪郭へとなっていく。

作品が観ている方それぞれの、自分だけの物語になることを願います。

https://amcf.amebaownd.com/posts/35253305

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