Les temps morts
あなたは父として産まれたのではなかった。
あなたは、雷の夜、極東の地に、漁師の子として産まれた。
中学のない島を早くに離れ、工学部を卒業し技術者になるまで長い寮生活だったあなたが、赤道より少し南の島から同じ大学へ留学に来ていた母に恋し、いつ私の父となったのかは誰にも判らない。
これは私がいつ二人の間に発生したのか、とか、胎内に子を宿す肉体の実感が女性を母として作り替え、その母より産まれて初めて子と向き合う男性の、父としての自覚の一般論を語りたいわけではない。
私もまた私として産まれたわけではない。
高等教育を終えて出た社会に揉まれ、その社会が自らの経験が作り出したいくつもの幻想の集合体でしかないと理解したときに現れる、輪郭としての私と、その実感から記憶を遡及することで同定するしかない、連続する私。この肉体の誕生ではなく、実感のその地点で私は私に成った。あなたや母の記憶にある産声をあげた肉体は未だ私ではない。
物心のついて以来、私にとってずっと父だったあなたは、子の存在によって社会より付与された父、或いは親という役割をいつからか自分のものとして、私が実感の地点を迎え、ひとりでの生活に慣れた後もそう振る舞い続けた。父に成ったことを、あなた自身もう忘れていたのかもしれない。父と同定されたあなた。あなたの記憶、父の記憶。
母の家族が住むこの島にやってきたばかりのあなたは、母国語の他に日常的な英語を身につけていたけれど、馴染みのないこの国の言葉と訛りの強い英語に歯の立てどころが判らずに、ちっとも聞き取ることが出来なかったのだって。
けれど私を取り上げた直後の産婆から「大丈夫。きっと強い子だ」と優しい目で笑われた話を繰り返し何度もした。私が健康なのはその産婆に取り上げてもらったからだって。
私達の連続性を同定する記憶はとても不確か。
その晩、あなたが産まれた夜と同じような雷が海の上に走っていて、とてもビックリしたのだって。
あなたが産まれた夜の雷を、あなたが知っているはずはないのにね。
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