波間の狐。
崩壊したり変容する世界で、静かな日常が説明も少なに過ぎていく閉鎖空間を描いた作品が好きなので、当に今その作品の一部となっている自分がなんだかふわふわと現実感を喪失していくのは仕方のない事に思う。
映画の主人公がゾンビや怪異、異常気象、地球外生命と戦う様に、仕事に出なくてはならないインフラにまつわる人達が日常を維持して、多くの医療従事者が患者に対応し、政治行政の関係者が知恵を絞り、誰かの肉体がウイルスと直接的に対峙しているのだろうが、この部屋を出ない僕にとってそれはメタ情報にも似て確かならざるもののまま、仕事に出た親しい人の通話越しに聞かせる僅かな疲労や、それに伴う苛立ちが実感としてあるだけだ。
いっそこの部屋が小説で、メタフィクションの中ならばこれだけ見かけるコロナウイルスの存在は確かになるのだけれど、生憎これは現実でだからこそかえって実感無く日々が過ぎ去っていく。
やっているデジタルカードゲームが7日にアップデートされるから楽しみだな。とか、今日はジャガイモとレタスしかないけど何のスープにしようかなんて考えながら、洗濯物についた小さくて柔らかい茶色の「何か」をゴミと断じて摘む指先だけが実感として肉体に積み重ねられていく。その「何か」がなぜ発生したのか、洗濯の前から茶色だったのかなんて事は、コロナと一緒で過去に取りこぼした茫洋の中に漂っている。
昨日、札幌にいる人から「そいえばですねー思い出したんです狐の襟巻きみたいの砂川の雪解けの頃に見たこと」「雪解けの頃は手袋とか帽子とかマフラーが露わになるけどほんとの狐かマフラーかよくわかってなかったなー」と連絡。
記憶の中で同定しかね、どちらの状態であるそれは、名前をつけるとたちまち春の雪みたく消えてしまうから、僕はちっとも確かな返事ができなかった。言葉は解像度を上げるレンズでありながら、知覚を切り捨てるナイフでもある。統計上はきっとマフラーの確率が高い「何か」は狐でありマフラーでもあるまま彼女の記憶から僕の記憶に伝播した。今これを読んでいるあなたの記憶にもひっそりと住むことになるだろう。あなたがこれを誰かに話せばきっとその先にも繁茂していく。まるでコロナみたい。
部屋。飛び散らぬ様ワイヤーの入った分厚く小波の立ったガラス窓を通過して、いつもより強い日差しの空の下コロナと狐とマフラーが、茫洋の海上へ薄く広がって、波と車の走行音の綯交ぜに溶ける。ドラッグストアの包装で確認する事の方が多かったマスクの、剥き身が街に増えてきた。
コロナで経済活動が減少し工場の稼働が止まって澄んだ空を春の異常気象にへたり込みんだゾンビが桜ごしに見上げた。
言葉で世界を切り取っている僕らにとって風景はいつだってメタだ。僕らは僕らの外に一歩も出られやしないから、実感を喪失したまま罹患して、ハグした誰かを殺してしまうかもしれない。
書きかけの小説は記憶の遺体を抱え、森で立ち往生。腕からインフラが溢れてポロポロ。
中西商店街のパチンコ屋の廂の影で地球外生命体がかき氷を食べているのを、誰かと見ている。机の上にテキサスの州旗の入った青いマグカップと、12冊の南米マジックリアリズム、まとめた裏紙を画板に挟んだノートに書かれた小説は世界に拭き荒ぶコロナやウガンダで向けられた銃口の様に現実感がない。
剥いたジャガイモを一口大に切って鍋で炒める。戸棚にひよこ豆の缶詰があったっけ、変容した日常は、それでも日常のまま。
#小説 #エッセイ #日記
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