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肉体は大地の一形態に過ぎない。ある鯨骨生物群集
君よ。先ず無があり、世界は一頭の鯨だった。 鯨が泳ぐ為に海が産まれ、鯨の腹を満たす為、海にはオキアミが溢れた。 世界の始まりから何も食べていなかった鯨は、周囲のオキアミを大きな口で根こそぎ飲み 込むと、より多くのオキアミが集まるところを探して泳ぐ。 海は、鯨の泳ぐところまで広がっていた。
君はもう海を見たか?君の思い返す海は何色だろう。 私達が持つ海は光を受けて変化する。
幼子の手で掬った海水が無色に透き通り、水深 1000 メートルをこえて鯨の潜る海が濃 い勝色であるのは、光のスペクトルに含まれる青の短波が空間へ拡散しその厚みで色調 を変える為だ。暗い藍を表す勝色は分類される青より、むしろ闇へ近い。
神よ。あなたは海を泳ぐ原初の鯨より作られた。 私も、君も、鯨から産まれた人々の末裔であり、世界の全ては原初の鯨の夢の中にあ り、私たちが鯨を語り継ぐことであなたも生きてきた。 鯨の祖先であるパキケトゥスも、鯨の存在なしに語られることはない。 神よ。あなたは信仰上の遠い祖先であり、私たちの思考の直接の子どもである。
原初の鯨がいつ死んだのかはわからない。 巨体に絶命を見出せる浅海生物もまだ存在していなかった。 鯨の背が短波で染められて、遠く暗い海底へ緩やかに落ちていく。
有機物は捕食と排泄、生と死を繰り返し多種多様な生き物に変化していくが、一方、内臓 で吸収されたアミノ酸は極小の輪郭から巨大な輪郭へ移動しただけで何も変化していな い。 人間が地中の鉱石を採掘し文明の至る所へ行き届かせたように、光合成に依拠した浅 海生態系の頂点へ君臨する鯨は、遍く海を巡り極小のオキアミを取り込み体内バクテリ アで分解して糞として吐き出す事で海の有機物を攪拌する。 鯨とは、それら役割の束へつけられた暫時的名詞に過ぎない。 神よ。あなたは細部に宿る。
鯨には無数のあなたがいる。 有機物の塊は沈降し、海底へ向けて潮を作り出す。 巨大な肉体は、遠くなった海の表層に含まれる陽光を浴びて一層青い。
スリップストリームに吸い込まれた魚達は、不本意な葬儀参列を強いられる。潮に揉まれ て光へ腹晒す度わずかばかりに煌めいて、海の涙の一雫みたい。 今や目の光も消え巨大な塊となった鯨が、臭いにたかるサメに貪られ 1000m の漸深層 へ辿り着く頃。太陽の恵みの一切は霧消して、勝色が暗暗の墨へと変化する。 サメと漸深層の墨色の天頂は、角砂糖を飲み込む珈琲みたく鯨の輪郭を侵蝕してゆく。
闇。
世界は見えるところまでしかない人類にとって、これより先、光の届かぬ 1000m 以深、視 覚に頼らぬ環世界の生き物しか生息しない漸深層は無だ。 潜水艇が生まれ深海に到達するまで、人に由来する感情も、神も、そこには存在しなかっ た。
鯨がサメの生息深度を抜けていく。肺に溜まった大気のバラストが鯨を仰向けにする。水 圧とそれに押し出される形で泡となった酸素が皮を裂く。泡沫は空を目指す途中に海水 へ取り込まれる。裂け目から流れる血はもうサメを呼びはしない。 背が海底へ触れ、堆積層の砂が跳ね上がり流雲の如く潮に乗る。 轟音と共にやってくる重力が肉へのしかかり、肋骨が腐り始めた肉を圧し切る。 深層の異変に気付いたコンゴウアナゴ、ヌタウナギ、幾種もの深海のサメが寄ってきて、 裂かれて食べやすくなった肉を貪る。
彼らは腹に蓄えた鯨を七つの海へ届ける。 その間に、何千、何万という物語が始まり、忘れ去られていく。
なぁ君よ。全ての神を受け入れる君の国に、私たちの信仰を持って帰ってくれないか?
腐肉食期と呼ばれる数ヶ月から数年の間、コンゴウアナゴ、ヌタウナギ、深海のサメ達に より骨が露出するのに並行して、鯨骨へ柔らかい根を張るホネクイハナムシが現れる。 彼らに共生する細菌が骨に残った脂質の分解を始めると、イガイやシロウリガイの体を 乗り物にして化学合成細菌がやってくる。 硫黄酸化細菌や、メタン酸化細菌は脂肪分解で発生した硫化水素やメタンから生成した エネルギーをイガイやシロウリガイヘ供給する。 鯨の骨を世界の土台に、ホネクイハナムシを基礎生産者とし、硫化水素をエネルギー源 とする生態系は鯨骨生命群集と呼ばれている。 彼らは光合成を必要としない鯨だけの子供だ。 光届かず酸素のない水に住む彼らを、まるっきり私達とは違う命の形だと思うかい?それ とも遠く離れた島国の君は、自分を投影するだろうか?
鯨の有機物が全て使われると、骨は単なる構造物として生き物の棲家となっていく。この 懸濁物食期は、しかし確認されたことがない未だ人だけのものだ。もしかしたら生き物の 全ては有機体の消失と共に元いたところに散るのかもしれないし、新たな鯨や熱水噴出 孔のメタンを求めて旅に出るのかもしれない。鯨の肉を食い有機物を届けるアナゴやウ ナギやサメの泳ぎのように、人類発祥の地から始まったグレートジャーニーのように、 またしても、何千、何万という物語が始まり、忘れ去られていく。
生きて表層の生態網を支えた鯨は、死して深海に沈んだ後、深海生態系の基礎生産者 となり生物群集を支える。川の上流域に有機物を運ぶサケ・マスが川と海をつなぐ生物で あるなら、鯨は 「浅海と深海をつなぐ生物」である。
私たちは何をつなぐ生き物だろう。 骨伝導で音を聞く鯨の最後まで残す骨に、私達の祈りの歌は聴こえているだろうか?
君よ。歌を聴いてくれ。全てを持ち帰ろうとしなくて良い。
海は巨大な輪郭を持つあなた。 神よ。あなたは鯨から作られた。あなたは今、私たちに使役されている。 鯨がいつ死ぬのかはわからない。あなたがいつ生まれるのか、私たちは知らない。