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山田耕筰ピアノチクルス(全6回)​vol.2  山田耕筰I

2022/03/05長野市竹風堂大門ホール
ソプラノ・深澤優希
ピアノ・星野月菜




今日は山田 耕筰チクルス全体の2回目で、山田耕筰の1回目ということになっています。ちょっとめんどくさくてすいません。前回、1月の山田耕筰チクルス第1回目に滝廉太郎のお話をして、滝廉太郎の代表作をほぼ全て聴いて頂きました。なぜそんな面倒なことをしてるかとゆーと、今年の山田耕筰チクルスは、山田耕筰を軸にして日本が西洋音楽を受け入れて定着させてゆくその歴史をしっかり語りたいからなんです。日本の西洋音楽受容史の黎明期を語るときに滝廉太郎は絶対に欠かせないので、まず滝廉太郎から始めたんです。山田耕筰からだとスタートの部分が欠けてしまう。山田耕筰は滝廉太郎の次の世代になるんです。それに、山田耕筰は滝廉太郎の編曲など関連のある作品も多いんです。滝廉太郎の音楽が好きだったんですね。


唐突ですが、まずはこの言葉を覚えておいてください。

「森鴎外や滝廉太郎と山田耕筰の意識の差は19世紀末と20世紀初頭の意識の差である」

ということを。

生い立ち

では山田耕筰のお話を始めましょう。

山田耕筰の両親は福島の出です。父親は福島藩士でした。
お父さんの山田謙造(謙三から改名)は廃藩置県で上京してきて神楽坂に住むようになります。ご存じの通り戊辰戦争で福島は負けたので、藩士を巡る状況は非常に厳しいものだったということも もちろんあったでしょう。
東京に出てきた謙造は昼は寝ていて夜になると外出して全然帰ってこない。昼間は得体の知れない若い連中が絶えず家に出入りしてる。お母さんの山田久(ひさ)は自分の夫が何の仕事をしてるのかよくわからなかったそうです。とにかくまあ、やんちゃな男でした(相場師をやってたみたいですけどね。昔の相場師ってのはほとんど博徒みたいなもので、怪しい奴が多いんです)。謙造は猛烈なエネルギーをいつも持て余してるようなギラついた男でした。めちゃくちゃに奔放な遊び人で乱暴者。DVも酷くて久は不安と恐怖のどん底で生きていました。あまりにも旦那の行動が酷いので、彼女は別居を決意して家出したりする。なかなか強いお母さんなんです。ただ耐え忍んで泣いてるだけの古くて弱いタイプの女性じゃなくて、自分の意思で決然と行動する新しいタイプの女性なんです。そして家出した久はキリスト教に救いを求めて洗礼を受けて敬虔なクリスチャンになりました(プロテスタントです)。それで、ここがすごいんですが、彼女は神の教えによって自分だけでなく、この乱暴なダメ夫のことも救おうとしていました。すごいでしょ?ただ逃げて泣いてるだけではなく、信仰の力でこのとんでもないDV夫のことも救おうとした。このお母さんのおかげで山田家はキリスト教の強い影響下に置かれるようになってゆくわけです。
そこで耕筰の誕生です。彼は次男です。上にはお兄さん一人、お姉さんが二人いました。1886年〈明治19年〉です。耕筰が2歳の頃に山田家は破産してしまいます。破産した頃には荒っぽいDV夫もそれまでの荒れた生活の疲れが出たのか病気になってだいぶ大人しくなっていたようです。父親が病気で働けないので一家の経済状態はもっと悪くなって、久が針仕事やら何やら一日中休みなく働いて家計を支えたそうです。お母さんはまさに山田家の中心でした。信仰に基づいて一家を支えた まさに太陽のような存在だったと言っていいでしょう。こーゆー環境ですから、耕筰にとって愛とは母そのもの、家庭とは母そのもでした。そうやって彼はとんでもマザコン野郎として成長していくことになるわけです。

しばらくすると謙造は一念発起して横須賀で本屋をやることにしました。本屋さんならまあまあ静かにしてられるから、病気でもやれるだろうということでしょうね。一家は6年間横須賀で暮らしました。
国際貿易や異国文化の窓口として栄えた横須賀は今も独特の異国情緒のある街ですよね。米軍キャンプもありますし。横須賀製鉄所があって、造船もしていた。もちろん山田耕作がいた頃の横須賀もそうです。今よりももっと異国的な情緒が際立っていたはずです。横須賀の軍楽隊の音楽は彼に大きな影響を与えました。横須賀は軍港があって、海軍カレーとか有名でしょ?だから軍楽ももちろん盛んでした。ハイカラなんです。そして、時代は日清戦争から日露戦争の頃ですから、軍楽・軍歌の全盛期です。瀬戸口藤吉の名曲「軍艦マーチ」が生まれたのもこの頃です。時はすでに日露戦争に向かっていました。朝鮮と満州の獲得をめぐってものすごい緊張感でロシアと対峙していた時期です。

しかし横須賀で大火事(1890)があって、一家は焼け出されてしまいました。東京に帰った一家は築地の外国人居留地に住むようになったんです。謙造は癌になってしまって、めっちゃおとなしくなりました。そして久に導かれるように熱心なクリスチャンになりました。そして外国人居留地の教会の仕事をするようになって、ついには伝道の仕事までするようになっていくのです。

ここまでで山田耕作の生涯に渡る大事なポイントが3つ出てきています。

まず、家庭がキリスト教で、周囲の状況も当然キリスト教的であったこと。もちろん自分も洗礼を受けています(滝廉太郎も洗礼を受けてます)。次に横須賀や築地の外国人居留地に居住していて、感受性の強い少年時代に西洋の文化がものすごく身近だったこと。滝廉太郎も日常的に教会のコーラスが聞こえてくるような西洋文化の影響の強い九州の街の出身です。

日常的に賛美歌を歌い、西洋の4声体のハーモニーにごく自然に親しんでいて、ピアノもオルガンも身近にあり、軍楽隊の音楽に親しんでいたこと。軍楽好きは滝廉太郎と同様です。山田耕筰の場合、お姉さんがエドワードガントレットというイギリス人と結婚して、環境がむちゃくちゃ国際的になったことが決定的で特殊です。ここが純和風で謹厳実直なサムライの家庭で育った滝廉太郎とは全く違うところです。山田は当時の日本人の中でも非常に珍しい環境に育ったんです。義兄のエドワードはオルガンも上手に弾いたそうです。耕作は姉のうちで暮らすことになりました。つまり子供の頃から外国人と一緒に暮らしてたんですな。このお家には家庭用のオルガンもあって、エドワードが弾くメンデルスゾーンやシューマン、ベートーヴェンなどに魅せられるようになって、楽譜の読み方も覚えました。エドワードは山田少年をピーターと呼んで可愛がってました。エドワードからもらったピッコロは宝物でした。軍楽隊の音楽が大好きだったから、ピッコロなんか最高ですよね。パレードの鼓笛隊の先頭はだいたいピッコロですからね。英会話の力もごく自然に身に付きました。超実践的英会話です。 エドワードからもらった音楽の本を原書で貪るように読みました。和声や対位法、楽式論など一通りのものに目を通して。暇さえあればオルガンやピアノを弾いていました。
彼は16歳で初めて作曲をします。(作品1「my true heart」です。無伴奏・アカペラの四声体の曲で 歌詞は書かれていません。 楽譜は現存しています)


そんな中でお母さんが亡くなってしまう。18歳になる年の冬のことです。 謙造がこんな調子ですから山田家はずっとお母さんが中心だったんですよね。耕作にとって母親の存在は異常に大きいものでした。それだけにショックは大きかったようです。人生最大の悲しみでした。そして彼は終生「母性憧憬の念」「母恋しの念」を非常に強く抱き続けるようになります。山田耕作のマザコンとその裏返しとも言えるむちゃくちゃな女関係は、母親への強い思い・マザコンが強く影響しているんですね。もちろん、元々どうしようもない女好きだってところは間違いないでしょうけどね。

「キリスト教的家庭、讃美歌、オルガンそれに横須賀の軍楽隊それもまた強い刺激となっている事は確かだ。(自伝若き日の狂詩曲)」

音楽学校

山田耕筰は1904年(日露戦争開戦の年)東京音楽学校予科に入学しました。当時作曲科はなかったので声楽専攻です。すごくいいバリトンだったようですよ。ちなみに滝廉太郎はピアノ専攻でしたがすごくいいテノールだったそうです。 耕筰も廉太郎も「歌う人」だったんです。ここも共通点です。

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お姉さんからの仕送りでは足りず色々バイトしながらの学生生活でした。下宿はいつも友人たちの溜まり場になっていたようで、総じて楽しい大学生活だったようです。色々といたずらもしたようですね。やんちゃで明るい男なんです。ここも滝廉太郎と似てます。明るい人気者。
東京音楽学校時代から作曲は色々としていたようです(ゲーテの英訳によるナイトソング。ガヴォットなど)
音楽学校に入ってからはヴェルクマイスターという若いチェロの先生との出会いが決定的でした。山田耕作は英語ができたので、先生とすぐ話せるようになって、すごくよくしてもらったそうです。耕筰はこの頃からどんどん作曲するようになります。弦楽四重奏曲も4つ残っています。当時の弦楽四重奏曲第2番なんか、なかなか立派な曲です。ゲーテやハイネの詞によるドイツ語歌曲の作曲にも挑戦しています。これはヴェルクマイスター先生の影響でしょうね。耕筰はこの当時学校にいたユンケル先生にも学びました。

ヴェルクマイスター先生は山田を留学させたいと思うようになり、先生は当時チェロを教えていた三菱財閥の岩崎小弥太に山田を援助してくれるように頼んだんです。

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岩崎小弥太

ドイツ留学

これがトントン拍子に進んで山田は岩崎の援助でベルリンへの留学が決まりました。財閥のお金による留学ですから、国費留学の森鴎外、夏目漱石、滝廉太郎とはかなり性質が違うんです。鴎外も廉太郎も国家を背負っているとゆー責任感・使命感が強かった。しかし、山田耕筰にはそこまでの感覚はなかったんです。ここが大きく違うところですね。耕筰の留学の感覚はどちらかとゆーと永井荷風に近いかもしれませんね。

岩崎は学校を卒業した耕筰をドイツに出発させると東京フィルハーモニックソサエティを発足させました。これは日本における西洋音楽の普及振興と前途有望な音楽家の講演を主旨しとする団体でした。岩崎は耕筰が帰国するとソサエティの中の管弦楽部を彼の手に委ねることになります。

耕筰は東京を離れる前、友人の妹の徳久泰子と密かに結婚の約束を交わしていました。初恋の女性です。しかし徳久家の事情が複雑だったため、結婚の約束は二人だけの秘密になってしまい、全く進展しないまま留学になってしまって超遠距離恋愛に突入しました。

福井県の敦賀から船でウラジオストク。そこからシベリア鉄道でモスクワに行って、ベルリンに入りました。

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今でもシベリア鉄道でウラジオストクからモスクワまで一週間かかるし、モスクワからベルリンまで電車で24時間なので、山田耕筰の留学時代ははもっと時間がかかったでしょう。今は飛行機ですが、モスクワ・ベルリンは4時間くらい。ウラジオストクからモスクワは8時間かかっちゃう。飛行機でもけっこう時間がかかります。  ロシア、やばい広い(-_-;)

1910年耕筰はベルリン王立音楽院(現・ベルリン芸術大学)を受験します

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当時の校長は巨匠マックス・ブルッフでした。ブルッフはもう高齢で、病気療養中でしたが受験に際して耕筰はブルッフと面会することができました。ブルッフは耕筰が携えてきた習作の楽譜に目を通し、温かい言葉をかけてくれたようです。優しい(*´ω`*)

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ブルッフ

山田は合格して王立音楽院に入学すると、カール・ヴォルフ教授に師事することになりました。ヴォルフ先生は優しい先生でしたが、出す課題が無茶苦茶に多くて山田は「水車のようにまはらねばならなかった」と書くほど大忙しでした。

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大忙し!


王立音楽院は名ヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムの尽力で作られた学校です。古典の学習が重視されていました。保守的と言ってもいいでしょう。でもまあ、ちゃんとした音大ってのはだいたいそーゆーものですけどね...古典大事ですから…
彼は留学中に少なくとも17曲日本語の歌曲を作曲しています。これらの過半数を占める9曲が三木露風の詩に作曲されています。ヴォルフ先生の膨大な課題の合間に息抜きのように日本語の歌曲が作られたのです。
留学で東京を発つ時に友人から餞別として贈られた書物のうちの一つに三木露風の「廃園」がありました。

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三木露風

樹立、異国


耕筰はベルリンへ向かうときシベリア鉄道の中で詩集「廃園」を耽読し、留学中も深い共感を抱いて愛読し続けました。三木露風の「廃園」は耕筰にとって非常に重要な意味を持っています。
留学すると、婚約していた徳久泰子が他家に嫁ぐことを知りました。つまり破談ですね。国内でも遠距離は難しいですが、外国だともっと難しい。今でもありがちな話ですよね。
耕筰はものすごく落ち込んでヴォルフ教授が心配して少し休むように言ったほどでした。病気みたいになっちゃった。
1910年に書いた「異国」、「嘆」などはこの失恋の痛手と密接な関係があるでしょうね。この年に書いた三木露風による日本語の歌曲が、日本歌曲の巨匠・山田耕筰の出発点になったんです。
これから聴いて頂く異国はシューマンのIn der fremde Op39-1の強い影響下にある作品です。よく似てます。山田はこうやってシューマンやシューベルトなどの歌曲を研究しながら作曲していったんですね。この年に書かれた燕(つばくらめ)はまるで鱒です。微笑ましいほどそっくりです。ちょっと弾いてもらいましょう。お願いします。

異国も元ネタのシューマンの曲と前奏をちょっと聴き比べてみましょうか。

では今度は三木露風の詞による樹立と異国を聴いてみましょう。どちらも「廃園」に入ってる詩です。どちらも留学中に書かれたもので、山田耕筰の最初期の日本語歌曲です。異国のラストの「静かなる / 海原や、 / はて遠く / 恋人もあり。」なんてところは、 耕筰も遠距離恋愛中で難しい状況だったから、心惹かれたでしょうねえ。その部分は耕筰の音楽の情感もぐっと深まっていきますのでその辺にも注意を向けながら聴いていただければと思いますね。ピアノの後奏の想いの残し方もまた絶品としか言いようがありませんのでぜひじっくり味わってみてください。
シューマン風に内省的に深く沈み込んでゆくような「異国」に対して「樹立」は伸びやかに想いがふくらんで飛翔してゆくような作品です。フランス印象派音楽のような感じで鳴きかわす鳥たちや煌めく木漏れ日がピアノで表現されます。「昨日も/ 今日も私の胸に / 曇る樹立」という部分に注目して聴いて下さい。ピアノのパートで巧みにその「曇り」「気持ちの翳り」が表現されると、そこにまた印象的な鳥の鳴き声・木漏れ日の煌めきのピアノの音形が回帰して、気持ちが伸びやかに開かれていきます。この開かれてゆく伸びやかさが絶品なんです。この感じが一層拡大されたのが後半・最後に聴いていただく「風に寄せて…」ということになるんじゃないでしょうかね。

では樹立、異国の順でお願いします。


山田耕筰はリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」の演奏を聴いて感銘を受けてシュトラウスの追っかけになります。弟子になろうとしましたが、これはかないませんでした(謝礼が法外に高すぎて無理でした)。以後耕筰はリヒャルト・シュトラウスの強い影響下に置かれることになりました。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」や「エレクトラ」は、現代の我々の耳で聴いても凄絶で衝撃的な音楽ですから、耕筰の受けた印象はもっと強烈だったでしょう。山田はこの当時初演されたばかりだったシュトラウスの「ばらの騎士」も聴いたようです。学校で古典の基礎をばっちり叩き込まれながら、当時の最先端の現代音楽に夢中になっていたわけですね。ワーグナーやドビュッシーにも夢中になりました。

主題と変奏《母に捧げる更衣曲》

1912年、留学中の耕筰は、亡き母がよく歌っていた賛美歌を主題にした主題と変奏を作曲し始めました。異国の地で亡きお母さんを思って書いたんですね。この賛美歌は病床のお母さんを慰めるためにも歌った歌だったそうです。耕筰は自伝の中で「主題が、色合いの違った衣を更える(お色直し、お召し替え)、というふうに考えて、《母に捧げる更衣曲》とした」と説明してます。Variationを「変奏曲」と訳すのもちょっと嫌だったようですね。それぞれの変奏がお母さんの性格を表しているのかもしれません。お母さんへの思いにあふれた作品です。これは帰国後の1915年に完成されました。6番(第5変奏、短調の変奏・動画👇の03m45s〜)はテーマを単に短調に置き換えただけではなく、瀧廉太郎の「荒城の月」が浮かび上がるようになっていますので注意して聴いてみてください。「荒城の月」が本当に好きだったんですねえ。山田はこの曲について次のように書いています。
「母上の好まれた歌/兄弟そろって/
母の病床をなぐさめたうた/長い眠りに入りたもうた夕/みたまの前にむせんだうた/今其追憶を辿って/母上のために」

では聴いてみましょう。


1912年12月耕筰は下宿先のシュミット家の長女ドロテアと婚約しました。下宿先の娘に手を出しちゃうとゆー よくあるパターンです。徳久泰子と破局してから猛烈に早いスピードで立ち直ってますね。こーゆー感じが「ザ・山田耕筰」です。とにかくもう、どうしようもない女好きで、元気な男なんです。

休憩

帰国


山田耕筰は学業を終えて帰国します。婚約者ドロテアに見送られてベルリンを発った山田耕筰は途中のモスクワでスクリャービンの音楽を知ってリヒャルト・シュトラウスの音楽以上の衝撃を受けました。耕筰の管弦楽曲はリヒャルト・シュトラウスの強い影響下にあるのですが、ピアノ曲は完全にスクリャービンの影響下にあります。ポエムというタイトルの小品をたくさん書いているのもスクリャービンのポエムから来てるんでしょう。

1914年、耕筰は無事日本に帰国しました。しかし山田はこの時点では、帰国はあくまでも一時的なもので、ドイツにまた戻ろうと思ってました。ドイツで書いたオペラ「堕ちたる天女」のドイツ上演が決まっていて、三木露風の詩による歌曲集のドイツでの出版も決まっていたので、ぜひドイツに戻りたかったんです。婚約者ドロテアも待っていますしね。しかし折悪しく第一次大戦が始まってしまう。ドイツは日本の敵国になってしまいます。山田は大戦の影響で戻るのは無理だったと言っていますが、どうやら無理すれば帰れないこともなかったらしい。でも帰りませんでした。

帰国後はピアノ曲を書いたりする程度の日常でしたが、まもなく東京フィルハーモニー協会のオーケストラの部長として指揮をするようになります。これは日本のオーケストラの黎明期の活動として特筆すべきものです。

迎春、スクリャービンに捧ぐる曲

この時期の山田耕筰は専らピアノ曲を書いてました。スクリャービンみたいに書きたかったんです。ベルリン留学から戻った1914年から1917年は山田耕作の「ピアノの時代」とも言える時期です。ポエムというタイトルの小品がたくさんあります。時期によってはピアノの小品を一日一曲ずつ書くなんて時もありました。1917年になると山田耕作はアメリカに渡って一年半くらい 滞在するのですが、 ちょうどそのベルリン留学ととアメリカ滞在の間の期間にあたります。前回と今回でこの「ピアノの時代」の作品を一気に聴いていただいてます。前回、滝廉太郎の時に聴いていただいた「荒城の月変奏曲」もこの時期の曲になります。ではその頃に書かれた「迎春」と「スクリャービンに捧ぐる曲」を聴いてみましょう。スクリャービンに捧ぐる曲はまさにスクリャービンの強い影響下で書かれた曲で、真似て作ったと言っても過言ではありません。真似だとしてもこれはなかなか素晴らしい作品です。二曲からなっています。夜の詩曲と忘れ難きモスコーの夜の二曲です。この作品の感覚をよく覚えておいて下さい。後半の歌曲の「夜曲」は完全にこの感覚で書かれています。
では迎春、スクリャービンに捧ぐる曲を続けてお願いします。




この時期・1915年に永井郁子という女性と結婚しましたが、結婚後すぐに耕筰が他の女性(菊尾)に手を出したので、たった4ヶ月で離婚することになってしまいます。耕筰は本当に移り気で異常に手が早い。女性関係がルーズなことには定評があります。とんでもないセクハラ親父だしね(-_-;) 離婚した後、耕作は郁子さんをストーカーのように彼女を追いかけ始めます(゚ω゚) 郁子さんは怖くて親戚の家を点々として逃げ回ったそうです。このことで東京フィルハーモニー協会のオーケストラを援助していたパトロンの岩崎小彌太が激怒して援助を打ち切ったので、このオーケストラは解散になってしまいます。ここで耕筰は莫大な負債も抱えてしまうことになるんです。パトロンの岩崎小彌太は永井郁子と山田耕作の結婚の仲人でもあったので怒り心頭だったようです。まあ、当然ですな。


東京フィルハーモニー協会は1914年に山田耕筰指揮によるコンサートを開催している。プログラムはワーグナー「ローエングリン前奏曲」、ビゼー「カルメン」よりミカエラのアリアとハバネラ(独唱・柳兼子)、自作の交響曲「かちどきと平和」、交響詩「曼陀羅の華」とゆーもの。当時としてはあり得ないような先鋭的なプログラミング。よくこんなのやったなあ。技術的には大丈夫だったんだろうか….とんでもない革命的な公演だ。特に交響詩は四管の特大編成。まず楽器と奏者を揃えるだけでも大変だっただろう。このオケは基本30人程度の室内オケだから、エキストラがめっちゃ必要だ。

それ以外のコンサートだと、やはり編成の問題があるので、自作の序曲ハイドンの交響曲11番、シューベルトの未完成。シュトラウスのワルツ、ウェーバーのアブハッサン序曲、ビゼーのアルルの女、グルックのアウリスのイフィゲニア序曲メンデルスゾーンの華麗なカプリッチョなどといった室内オケ的なものになってゆく。当然のことだ。プログラミングや楽譜準備もさぞかし大変だっただろう。
東京フィルハーモニー協会管弦楽部は6回のコンサートで解散になる。日本の環境がまだオーケストラが維持できるほどのものではなかったというのは当然だが、それ以前に山田耕筰の下半身のあまりのルーズさが一番の問題だ。この団体がもう少し続いていれば、第一次大戦中の好景気もあったし、大正デモクラシーのさまざまな芸術活動の隆盛に乗って、もっと良い活動ができていただろう….そうするとその後の日本のオーケストラの発展の具合も少し違ったものになっていたかもしれない。

「澄月集」より ゆきまよい….

その頃、彼はこの浮気相手の菊尾と早々に結婚してしまう(早っ!)。1916年です。懲りない男…(^◇^;) しかし、それで落ち着いたかと思うとこれが全然落ち着かない。今度は菊尾と結婚した頃から親しくしていた友人夫婦(寺崎渡夫妻)の奥さんと深い仲になってしまう。寺崎悦子という人です。ダブル不倫ということになりますね。無茶苦茶です。このダブル不倫は、山田耕作も友人夫婦も離婚するとゆー最悪の結果になります。これが僅か二、三年のうちに起こったことなんです。まあ、すごいエネルギーですね。女関係がルーズな音楽家はものすごく多いですけど、山田耕筰はその中でも間違いなくトップクラスのルーズさです。これまで女にだらしない作曲家についてレクチャーしてきたおれが言うんだから間違いないです。

この寺崎悦子とのダブル不倫劇の時期に書かれたのが歌曲集「澄月集」です。これは寺崎悦子の書いた短歌5首に曲をつけたものです。不倫相手との共作ですね。ものすごく不倫な曲です。非常にエロティックでやばい美しさです。「不倫は蜜の味」ってことですかね。今日は3曲めの「ゆきまよい」を聴いてみましょう。後の耕筰と違ってスクリャービンの影響がダイレクトに出ている非常に新しい和声感覚の作品です。この時期の耕筰の歌曲は「幽韻」もそうですけど、斬新でかなり挑戦的な書き方をしてるんですよね。歌曲もスクリャービンのように書こうとしていた…しかもスクリャービンの中期以降の感じで!


唄、野薔薇、夜曲

澄月集の次は、帰国してから書かれた作品です、全て三木露風の詞によるものですね

1916年に耕筰は三木露風から贈られた詩集「幻の田園」の中の「唄」という詩に作曲をしました。三木露風はこの詩のなかに唱歌の「蝶々」を織り込んでいて、山田耕筰が曲を付ける前からそもそも非常に音楽的な作品だったんです。山田耕筰も「蝶々」の部分にしっかり蝶々のメロディをそのまま織り込みました。それがこの作品の大きな特徴になってるわけです。今聴いても斬新なアイデアですよね。ピアノがこの「蝶々」の旋律をずっと変奏し続けるのが素敵です。すごくピアノの比重の高い曲なんです。この曲は山田耕筰も自信作だったようで、ここから山田耕作の「日本のシューベルト」への道が始まったと言ってもいいでしょう。次の野薔薇は1917年の作曲。三木露風が当時講師として赴任していた北海道のトラピスト修道院から送られた絵はがきに書き込まれていた詩に作曲されました。この曲の野薔薇は「ハマナス」のことらしいですね。まあ、ハマナスもバラ科の植物なので、薔薇の仲間なんですけど...

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夜曲はゆったりした舟唄と言いますか、まさにノクターンのような雰囲気の曲です。全体的にシンプルな構成の美しい曲です。スクリャービンのノクターンの感覚ですよね。前半の「夜の詩曲」の感じがそのまま歌曲にになったような感じです。そのスクリャービンな感覚に和の感覚が混在してくるのがおもしろいです。

さて、ここで三木露風と山田耕筰の共通点について触れておかなきゃいけませんね。大きく言えば二点です。二人ともクリスチャンだったこと(カトリックとプロテスタントの違いはありますが)。そして母を想う気持ちが非常に強いこと。この二点でしょう。三木露風は幼い頃に両親が離婚してしまって、祖父母に育てられたんです。母を待ち焦がれる幼い頃の思いが、三木露風の心の奥底にはいつもあったんです。こーゆー基本的なところが山田耕筰と三木露風は同じなんです。だから耕筰は三木露風の詩に惹かれたのかもしれませんね。
夜曲まで続けて聴いてみましょう。


風に寄せてうたへる春の歌

そして最後に聴いていただくのは、4曲からなる連作歌曲集「風に寄せて歌える春の歌」です。1920年の作曲。三木露風が17歳の時に書いた詩に作曲されました。作曲当時山田は兵庫県苦楽園の六甲ホテルを好んでいて、海を見晴らすこのリゾートホテルに時々滞在して休養していました。

khb595-Rokko-Kurakuen-恵ヶ池より六甲ホテルを望む-苦楽園

このホテルにはサロンがあってそこにはピアノが置かれていました。ある日このサロンの窓から彼は虹を見たそうです。この歌曲集はこういう環境の中で生まれた作品です。初版の楽譜には4曲それぞれに苦楽園、六甲にて何月何日作曲」と印刷されています。この作品の圧倒的な高揚感、どこまでも高く飛翔してゆくような、視界が広く開けていくような感覚は本当に素晴らしいものです。これほどまでの飛翔感や幸福感に満ちた広がりの感覚は山田耕筰の全作品の中でも特筆すべきものです。この幸福感と高揚感は友人の結婚祝のために書いたってこともあるでしょうね。三木露風の詩は八章からなっていますが、耕筰はそのうちの 3~6章を取り上げて曲を付けています。ピアノと歌は密接に絡み合っています。ピアノのパートも非常に緻密に書かれていて、単なる「伴奏」という感じからは大きくかけ離れています。歌との力関係は完全にフィフティ・フィフティです。場合によってはピアノの方が歌手以上に多くを語ったりする場面もあります。どうかピアノパートにも注意を向けてお聴き頂きますように。ものすごいピアノパートですからぜひ!このピアノパートがあるからこそ歌声も三木露風のテクストも高く舞い上がって羽ばたくことができるんです。

ではお願いします。全4曲です。


耕筰はこう言ってます「露風兄はこの集を”織られたものの匂ひ”といはれた。全くこの四曲は異国的な、金や象牙の細工ではない、さびた綾錦の匂ひである。そして絹のにおいと手触りとは、最もよく、それが日本のものであることを表している。この絹のかおりこそは、私の最も愛でるところのものである」(1922)


(1.青き臥床をわれ飾る 2.君がため織る綾錦 3.光に顫ひ 日に舞へる   4.たたへよ、しらべよ、歌ひつれよ)

さくらさくら

夢の桃太郎より1.夢路



余談:序曲ニ長調、交響曲「かちどきと平和」

1912年に山田は初めての管絃楽作品を書いた。序曲ニ長調。

序曲の後、卒業作品の交響曲の準備に入った。これが日本人が作曲した初の本格的な交響曲になった。ベートーヴェンの運命交響曲を下敷きにして作曲された立派な構えの堂々たる作品。1912年秋完成。編成は古典派に倣った無難なもの。室内編成のオケで十分演奏可能なので、もっと演奏されるようになればいいのになと思う。


この後で山田耕作は解き放たれたように、まるでリヒャルト・シュトラウスみたいな大編成の交響詩を二曲完成させる(巨大な編成!)。交響曲「かちどきと平和」は非常に立派な出来だが、やはり結局は「課題としての交響曲」なのだ。やはり耕筰が本当に書きたかったのは「暗い扉」と「曼荼羅の花」のような音楽だった…。「暗い扉」は直接的にはR・シュトラウスの交響詩「死と変容」のスコアを勉強したことがきっかけで書かれたらしい。当時最先端の書き方のオーケストラ音楽が日本人によって20世紀初頭に実現されていたことは驚異的だ。どちらも日本の音楽史上特筆すべき作品。伝統的な手法でかっちり書かれた序曲と交響曲と聴き比べると、そのスタイルの大きな差に驚く人も多いだろう。
1912年や1913年あたりは、春の祭典が初演されているし、ドイツはリヒャルト・シュトラウスの全盛期だったのだ….そーゆーイメージで耕筰のイメージを捉え直すとまた違った魅力を発見できるのではないかと思う。なお、「暗い扉」は三木露風の同名の詩に基づいて作曲されている。初期の山田耕作はやっぱり三木露風なんだよな...。「暗い扉」は三木露風の作品の中でも突出して異彩を放つ不気味で異様な詩…





余談:三木露風と母恋い。カトリック信仰

三木露風(本名・操みさお)は明治22年(1889)に兵庫県の龍野市に父・三木節次郎と母・カタの長男として生まれる。三木家は龍野市の名家だ。母のカタは優しくて聡明で文学好きな女性だったが、父の節次郎はとんでもない放蕩者だった。数年後には次男の勉(つとむ)も誕生した。しかし、二人の子供が生まれても、父・節次郎の放蕩は一向に止まらず、散財し酒に溺れて家に帰って来ない日々が続いた。忍耐強い母カタは子供たちのために辛抱を続ける(この状況も山田耕筰の両親にそっくりだ)。父が居ない寂しさは露風の作品にも表れてくる。見かねた祖父はカタに「三木家を離れて自由になってくれ」と告げる。8歳の露風は跡取りだからと三木家に残され、母カタは離婚してまだ乳児だった次男の勉を連れて三木家を出た。露風は祖父母から大事に育てられたが、やはり母の居ない寂しさを埋めることはできなかった。ここで露風の強い「母恋い」の心情が決定づけられる。そして露風の作品には通低音のように「母恋い」の思いが語られるようになるのだ。故郷の記憶に母恋いの思いが強く結びついてゆく。露風にとって山と桜と母は一連のイメージとして焼き付けられてゆく。

代表作の「赤とんぼ」には、「母」という単語は一切登場しないが、詩の中には明らかに「母恋い」の心情が込められている。それが山田耕筰の心情と呼応しあって傑作「赤とんぼ」に結実したのだろう。

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三木家を出たカタは看護学校に入学して看護婦の資格を取ることにしたが、看護と勉強と育児がどうしても両立せず、限界を迎えていた。結局次男の勉も泣く泣く三木家に戻すことになってしまう(三木家からの要請もあったようだが..)。その心の傷や寂しさもあってカタはキリスト教に救いを求めた(プロテスタント)。信者になったカタは三木家の二人の子供のために祈った。カタは看護学校を終えると非常に優秀な看護婦になって、患者の看護に心を尽くした。こうした自立的な女性の在り方は、やはり山田耕筰の母・久に通じるものがあろう。母がキリスト教に救いを求めた点も共通している。

三木露風は、10代後半に詩人として世に出たが、悩みをかかえ、函館近郊のトラピスト修道院を訪れた。大正4年7月を皮切りに四度にわたって北海道のトラピスト修道院を訪問。特に四度目の大正9年5月には講師として赴任し、同11年4月には受洗、一三年六月までの四年間滞在した。

受洗の理由は、幼い頃の両親の離婚とそれに伴う母との別離、そしてその母
も同じキリスト教徒であったこと。また青春時代の放蕩への悔恨。     生来の宗教的志向。トラピスト修道院での体験等。また、マラルメをはじめとするフランス象徴主義詩人の影響が考えられる

17歳で処女詩集『夏姫』を、1909年(明治42年)には20歳で代表作『廃園』を出版し、北原白秋とともに注目された。露風はフランス象徴詩の探求を通してその中に息づくカトリックの精神を「発見」し、傾倒していった。北原白秋も象徴詩から強く影響を受けている。当時の多くの詩人たちはフランス象徴詩の影響を受けているが(多くは上田敏経由で)、そこから出発して独自の個性を大きく発揮できたのが白秋と露風だったといえよう。そして詩壇は「白露時代」とまで言われるようになってゆく。
露風はカトリック信仰に激しくのめり込んで、作風を大きく変え、「宗教詩」と呼ばれる信仰の詩とキリスト教に関連する著述を精力的に発表する。しかしこのことで彼は詩壇から孤立するようになってしまうことになる。晩年は三鷹に引っ込んで孤高の存在となった。白秋は常に詩壇の先頭にあって最終的には「国家主義」にのめり込んでゆく….

余談:マックス・ブルッフの1910年頃の作品

ベルリン王立音楽院の校長を務めていたマックス・ブルッフは山田がドイツに来た1910年頃にはクラリネットとヴィオラの組み合わせの室内楽と協奏曲を立て続けに作曲していた。クラリネットとヴィオラのための協奏曲の方は1912年の初演なので、ちょうど留学中の作品。山田耕作も、もしかするとこれを聴いたかもしれない...。校長の新作だしね...
でも、1912年にはニジンスキー振り付けの「牧神」が上演され、ピカソはキュービズムのスタイルで描いていた。スクリャービンは「白ミサ」を書き、シェーンベルクは月に憑かれたピエロを発表していた。13年には「春の祭典」が初演される。それを考えてブルッフ翁のこの作品(当時としては極めて反動的な)を聴くと、けっこう感慨深い。そーゆー時代だったんだよなあ…音楽表現の変化はスイッチを切り替えるようには変わっていかない…
山田耕筰はこーゆー環境にいたのだ….


「クラリネットとヴィオラのための8つの小品」の方は同編成のモーツァルトのケーゲルシュタット・トリオシューマンのおとぎ話と組み合わせて演奏されることが多く、まあまあ演奏機会には恵まれている方でしょうね。


近年は協奏曲の方も徐々に演奏されるようになってきている。もちろんコル・ニドライヴァイオリン協奏曲第1番スコットランド幻想曲のようなわけにはいかないけれど、まあ、徐々に...


トーク動画

演奏者の終演後のトークをどうぞ

https://twitcasting.tv/_a_kato/show/

視聴には以下の合言葉が必要です

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