天気の子とセカイ系
『天気の子』見てきました。感想書きます。
ネタバレありますので未視聴の方は読まないことをオススメします。
見る前のイメージ
新海誠監督の前作、『君の名は。』はそれなりに面白かったと思う。個人的には挿入歌の『なんでもないや』がめちゃくちゃ好きで、劇伴ありきで良い作品だと思った。ストーリーについては、それほど。
新作の『天気の子』もまあ、ある程度は良い作品だろうと思ってた。
ネタバレは調べなかったけど、
Twitterでちらほらと目にしてしまった感想では
「君の名は以前の新海誠っぽい」
「結末が・・・」
みたいな感じ。
正直、こういう前評判を少しでも聞いてしまうと映画を観ている最中は常にその評判が頭をよぎるので好きではない。前評判通りだったか?をずっと考えてしまう。
その評判はこのシーンを観て思った感想なのかなとか、、、
主題歌『愛にできることはまだあるかい』はもう、前作の『なんでもないや』と似た雰囲気で、これはめちゃくちゃ好き。
単純に好きな曲という感じ。口ずさんでました。観てないのに。観てないから『愛にできることはまだあるかい』を歌う権利はありません。口ずさんでいたことが天気の子警察にバレなくてよかったです。
ちなみに、『君の名は。』以前の新海誠監督の作品はたぶん好きじゃない。『言の葉の庭』は冒頭で視聴を諦めました。単純に、僕に合ってないというだけなので、良し悪しを語るほど見ることができなかった。
そのため、『天気の子』は『君の名は。』以前の新海誠監督っぽいという前評判は不安だったが・・・
結果として
まず観終わって思ったことは、『君の名は。』とそんなに違うかな?という。
ストーリーは違うかもしれない。
ただ、『君の名は。』と同じく音楽を主軸に置いた演出と、登場人物の心情描写。心が叫びたがっているんですよね、彼らは。ここさけ。
僕の中の「昔の新海誠作品」のイメージが『言の葉の庭』だけなので、『天気の子』は全然違うんじゃない?
と一緒に観に行った人に聞いたら、
「ストーリーが昔っぽいっていう話じゃない?完全にハッピーエンドじゃないし」との返答。
確かに『君の名は。』はハッピーエンドだったけど『天気の子』は完全にはハッピーエンドって言えないなあ、と妙に納得。
正直、「結末至上主義」ではないので、結末がどうとかはあまり気にしてなかった。ちゃんとカタルシスはあったし、僕的には後日譚的なものはすごい好きなので、そういうのも描かれていたし満足のいく結末だったこともあって、特に気になっていなかったけど、たしかに完全にはハッピーエンドじゃなかった。そこは『君の名は。』と違うかも。
音楽、演出、起承転結、カタルシス、そこらへんはもう、単純にクオリティ高いアニメ映画だと思うので満足。最高とは言わないけど、これを映画館に観に行って後悔することはあまり無いでしょう。
『愛にできることはまだあるかい』のための映画
これは一番大きな感想。
『愛にできることはまだあるかい』、これのための映画だと言っても過言。
過言なんだ。言い過ぎた。
でも大筋これ。この主題歌がなければこの映画はここまで面白くはならないと思う。
正直、新海誠監督もこの主題歌に大きな影響を受けていると思う。おそらく、新海誠監督が脚本をRADWINPSに渡して、それからRADWINPSがこの曲を作った。でも、新海誠監督はこの曲を聞いて脚本や演出を大きく引っ張られたと思う。勝手な妄想や。
それくらい、この主題歌はこの映画をまとめ上げているし、表現している。
「ある映画を観た感想を歌にした」、なんて話はいくらかある話だと思うけど、この主題歌は『天気の子』を観てその感想を歌にしていてはできない。
この曲ありきで、『天気の子』。
そう考えた理由は後述。
セカイ系
セカイ系と言えば、「僕たちが世界を救うんだ」みたいな話。
語弊があるわ。
詳しいセカイ系の意味はググってもらうとして、小さなコミュニティである「主人公とその仲間たち」が街・国・世界といった広いコミュニティに影響を与えるような話をセカイ系って言ったりする(そうだよね?)。
天気の子はセカイ系だよね。
ヒナが東京を天災から救うかどうか、という選択の話。
でも、天気の子の主人公のホダカは何の能力も持たない。
ヒナが東京を救うのか、それとも自分の存在を現世に留めることを優先するのか、という選択について悩む話。
ヒナは人に依頼されて天気を晴れにすることで、たくさんの人達に感謝される。自分が人々に求められていること、自分にしかできない存在価値を強く認識する。だから、きっかけを与えてくれたホダカに感謝している。
そうやって、笑顔になって感謝してくれてた人たちがいるこの東京という都市は、自分が犠牲にならない限り異常気象でめちゃくちゃになってしまう。
でも自分の存在は消したくない、消えるのは怖い、まだ小学生の弟もいる、ホダカもいる。
その狭間で揺れていると、結局、人柱となって天災を退けようとしてしまう。
最後には、ホダカが「自分のためだけに生きてくれ」とヒナに伝えて、ヒナは天災を退けないことを選択し、東京は海に沈む。
劇中に度々出てきていた話だけど、この大豪雨の天災は、地球上の歴史上の、数多ある天変地異のたった一つに過ぎないわけで、「ヒナがいたからこうなった」わけでも、「ヒナが晴れを願ったからこうなった」わけでもない。
だから、ヒナとホダカの選択は、「世界を何も変えないことを選んだ」ということになる。
セカイ系のほとんどが破滅する世界を救う話で終わるのに対して、破滅とまではいかないまでも、世界が損害を負うことを選択するというのは珍しいと思う。
その選択はある意味、自己中心的、エゴであるという風に捉えられそうでもある。
ただ、能力を持つ者が能力を使わなかったというだけなのだ。もしヒナがこの世に存在していなくても、「大雨は東京を沈めた」という事実は変わらない。
ヒーローは能力を与えられた選ばれた者だから、それを誰かのために使わなければならない。
というのはどこかのヒーロー物で言っていたセリフ。
ここで一つめちゃくちゃチープな仮説を立てる。
ヒナは、実は何も能力を持っていないとしたらどうだろうか?
ヒナが晴れを願ったとき、異常気象の大雨が偶然止んだだけ。
それをヒナとホダカは特別な力だと思っていたというだけ。
人柱という噂話を聞いて不安に感じたヒナとホダカが、「ヒナが消えてしまう」という思い込みから幻覚を見ていただけ。
だからヒナは大雨を止ませたわけでもないし、消えそうになったわけでもないし、大雨を止ませるのを諦めたわけでもない。
当然、こんな説は全くもって薄っぺらい話で、絶対的にありえないし矛盾だらけで欠陥だらけなんだけど。
ただ、こう考えると、「世界を救わなかった」ことは何も悪くないんじゃないかって。だってこの仮説ではどうせ何もできなかったんだもの。
当然、この仮説は全くもってありえないことだけど。
でもまるで、この仮説がありえないとしたら、能力を持っていること自体が罪であるみたいだ。
選択する勇気
自分が存在すること、東京を大雨に沈めてしまうことを選択したヒナは、最初はその選択を選べなかった。本心では自分が消えてしまうことを怖れていたのに。
ホダカがその選択を後押ししたから、その選択をすることができた。
ホダカがヒナに選択する勇気を与えたからだ。
ホダカが空腹で潰れそうなときに手を差し伸べてくれた、誰かのために願って、誰かの幸せを心から喜ぶヒナの姿がまさしく
だからホダカは、ヒナは自分自身のために願っていいんだと伝えることができた。
ここまで読んで伝わってくれたら嬉しいんだけど、そういうふうに僕は感じた。
だから見終わって、エンドロールでこの曲が流れたときに唸った。
RADWINPSの野田は天才か?この映画にはこの曲があってこそなんだなーって。
「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」案件かもしれない。
最後に
少し感傷的になったので、文章もなんとなく感傷的になってしまった。
久々に感想を書くと楽しいね、映画を観終わったあと、感想を書きたくて仕方なかった。僕はこう思う!お前はどう?はやくお前の感想を言えよ!
ネタバレには気をつけろよ!誰にも見えるとこで言うんじゃない
ほな、これからは胸張って愛にできることはまだあるかい僕にできることはまだあるかいと歌えますわ
★★★★(7点)
僕好みなわかりやすく、そして大衆向けな内容。熱くなれるカタルシスもある。感傷的になれる涙もある。それでいて、考えさせる内容でもある。
多くを語らない作品だけが良いとは思わない。多くを語っていても、それでいて考えさせてくれる作品が僕は好きだ。