断片的幻想による歪み
(整理です)
誰かの日常の一部や持ち物、服、周囲の断片をみてその人のすべてが分かったような発言に悲しみを覚える。(否定や思い込みに対する自戒であるのかもしれない)
飲み干された友人のコーラのペットボトル、カーテンに寄りかかったあの人のコーヒー、日本画のアトリエにある飲みかけのジャスミン茶 、積み上がった綾鷹をみて私は安心し、それらが他人の日常の究極の一部(一部にすらなり得ないほど微かなもの)であることに葛藤する。(※1)ペットボトルの持ち主の答え合わせをすると、それはTであり、Kであり、N、Rであるのだが、それが実は思っていた本人のものでなくとも、その気配さえあれば私は満足する。日常の断片をみてそれがその人の全てだと誤認するということに置き換えれば、これは上記と同じ悲しみを孕んでいるはずなのに、その一部に満足感を覚え、結末を見出すことは恐ろしい。アトリエに残された玩具や飲みかけのペットボトル 私にはそれが作品の一部に見える。
そしてこれらの感覚は、東京にてこれまでの私のいくつかの記憶と瞬間的に結びつく。↓
1 母親が運転する車の後部座席の車窓から虹がみえ、それを彼女に伝えても母親は運転中故にその虹を見ることが出来ずそのままシーンは過ぎてゆく。
2 祖父母のマンションの9階から眺めた空に、東西2つ別の空があることを独り強く感じたこと、空が確実に壁画(小さく見える街のための)であったこと、誰もが1度は街を模型のように感じ、日常に目眩するあの感覚を、その場に立てば誰でもいつでも体感できるという事実。(祖父母はこの景色を見たか?同じ感覚を共感し合うことは出来るか?こう考えるうちに、そもそも祖父とは血縁ではないことを思い出す)
飛び交う子供のころの記憶。離婚を隠したがった大人、年上の従姉妹の拙い警告。気の許せぬ正月。
その場にいたのに目にすることのできなかった情景、その場にゆかねば死ぬまで目に映らぬ、体験出来ぬノスタルジーの数々。
永遠に腰掛けていたいような、ノンストレスの歪み(ひずみ)。
ピースが揃っていく。我々は必然的にピースを回収しながら生きている。
先日の沖縄滞在にて強く実感した。ここには私とやりとりの無い安心を与えるモチーフが多々あり、沖縄にわけもなく惹かれ続けていた自分が質感を帯びる。
────────────────────
※1 物理的ペットボトル症候群
メモ4
乗っていた観光バスの反対の席からは見えた景色
車窓から目にした景色とその場にいても見ることのできなかった景色
※2 「断片的幻想による歪み」というタイトルは友人Kによるものであり、「透明性」という言葉は友人Rの発言によるものです。
この3人で展示をします
11/26 追記
「透明性」という言葉に対しての認識が変わってきて、ようやく意図に近づいた気がする。