夜桜にトける 少女.
最後の記憶は、冷りとした細い腕だった。
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とある病院に、生まれた時から入院生活を送る少女が居た。
少女は名前を、アイと言った。
アイと僕は、院内学級で知り合った。
僕がとある病気の為入院していた2年間のうちに、アイと、もう一人の女の子と仲良くなった。
アイは体の成長が遅く、身長は120cmくらいで、とてもか弱く華奢だった。
生まれつき赤血球の働きが弱く、外に出ることも出来ずに11年間、病院の中で過ごした。
僕ともう一人、ノゾという仲の良い女の子と、退院してからもアイに会いに行った。
その世界での僕は15かそれくらいで、ノゾはひとつ年上だった。
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ある時、アイから突然、
「残り1ヶ月も生きられないかもしれない」
と告げられた。
それから周りの大人や医師たちは、アイを生かすために様々な治療法を提案した。
その中で、まだ日本では認められていないという、新たな治療法として、とある手術の話になった。
アイを治す為に医者になると決意し、日々勉強をしていたノゾは、その説明を一緒に聞くと言った。
見舞いに来ていた僕も、何故かその場に同行することになり、一緒に説明を聞いた。
しかし蓋を開けてみれば、その手術はまだ日本では一度も成功したことがなく、どころか、その手術法の考案者であるアメリカの病院でも、数回しか成功の事例がないという。
遠回しだったが、どうやら医者は、「成功する可能性より失敗する可能性の方が高い」と言っているようなものだった。
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説明を終え、アイ専用の個室に戻ると直ぐにノゾは文句を言い、怒りをあらわにした。
僕も、「成功する可能性がほとんどないなんて危険すぎる」と冷静に見解を述べた。
僕らがその後も様々な可能性やリスクなど、意見を交換し合う中、アイは黙ったままだった。
気がかりに思い僕は、
「アイ?さっきから黙ってどうした?」
と声を掛けた。
ノゾも気付いて、心配そうに名前を呼んだ。
それには答えず、アイは窓の外を眺めた。
少しの沈黙のあと、アイはようやく口を開いて、
「もう、……いいかなって」
と呟いた。
戸惑う僕らに、アイはこちらを見ることなく続ける。
「生まれた時から、沢山お世話になったよ。
ずっと独りだと思ってたら、こんなに大事な友達が2人もできた。5歳まで生きられないかもしれないって言われてたわたしが、
11年……11年もだよ?」
小さくため息をついてからアイは僕らを見て、寂しそうに笑った。
「もう充分生きたから。いいかなって」
その表情に2人共、言葉に詰まった。
「でもそんなの…!」と言いかけたノゾの言葉を敢えて遮り、僕は口を開く。
「─────アイが、そう決めたのなら」
窓の外で、咲きかけの桜木が風に揺れていた。
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当然、周りは酷く反対した。
それこそアイの親御さんや、看護婦さんに、生まれた時からアイの専属医だった人。
最初はノゾも、反対していた。
けれど僕は、アイが決して『生きることを諦めた訳では無い』ことを説得した。
アイも、
「この人生を無理に引き伸ばすより、次の人生で、思い切り外の空気を吸いたいんだ」
と笑っていた。
その思いを尊重しよう、と僕が説得を続けるうち、ノゾも賛成をしてくれた。
普段は論理的で、根拠の無い話など殆どしないノゾが珍しく非現実的なことを口にして、
「生まれ変わったらまた友達になること」
という条件付きで、アイの思いに納得した。
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アイはそれから、治療を一切辞めた。
薬も飲むフリで、なるべく健康体の人間のような生活をしてみたいと言った。
時々吐いてしまったけれど、アイが夢見た外の食べ物も、ノゾと二人でこっそり持ち込んだ。
アイスクリームに、クッキーに、ドーナツに、プリンに、ポテトチップスに。
匂いが強く残ってしまうジャンクフード等は、あまり持ち込めなかったけれど。
生まれた時から病院食で育ったアイには全てが未知の世界で、とても楽しそうだった。
キラキラとした笑顔の反面、身体はみるみるうちに、やせ細っていった。
笑う度に頬の骨が浮き出ることも、指の関節が飛び出そうなくらい細いことも、肩や鎖骨が服の上からでも分かるくらい目立つことも。
心配や憐れみの気持ちが顔に出ないよう、ぐっと堪えて、アイの前では笑って見せた。
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その日、深夜に突然、アイから電話があった。
こっそり病院に来て欲しい、ということだった。
ノゾも呼び出されていて、僕らは入院生活時代に何度も使った秘密の抜け道から入って、アイの病室に忍び込んだ。
薄暗い病室の中、月明かりに照らされたアイは、僕らを見て嬉しそうに笑った。
「お願いがあるの!」
いつに増して元気なアイはそう言うと、布団から出て立ち上がった。
「今夜だけ、この病室から…この病院から抜け出して、桜を見に行きたいの!」
「────手伝って!!」
肩まで真っ直ぐ伸びた細い糸のような黒髪が、さらりと揺れた。
僕はこの世界の、アイの終わりを悟った。
そうして考える間もなく直ぐに、
「いいよ、行こうか」
と笑った。
ノゾはとても驚いて、当然反対した。
「は、何考えてんの!?後で絶対叱られるでしょ!!それにアイの─────」
けれど、僕の顔を見て、何故だかさらに驚いた顔をしたあと、
「……仕方ない、行きましょうか」
と呆れ顔で笑った。
アイは「やったー!!」と小声で喜びながら、よろよろと僕らに駆け寄ってきた。
部屋の手すりを使ったリハビリや、看護師さんが毎週のマッサージはしているものの、アイはほとんど歩けなかった。
自力で歩けても2、3歩くらいだった。
そんなアイが、唐突に、医者の許可もなく、深夜に外に出たいと言った。
その事で僕は既に、"異変"に気づいてしまっていた。
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「こんな抜け道、よく知ってるね!」
声を潜めながらもワクワクしながらはしゃぐアイを、僕らは両側からしっかりと支えた。
僕はアイの右腕を、ノゾはアイの左腕をしっかりとすくい上げるようにして。
アイの腕は、足は、身体は、本当に細くて、力を入れすぎたら折れてしまいそうで、まるで全部が手首みたいに…青白く細かった。
10分くらいすると、段々アイの力が弱くなってきているのを感じた。
もうほとんど自力では歩けず、僕らが持ち上げながら、アイの足を左右交互にゆっくりと、一歩ずつ一歩ずつ、進んだ。
「月だけなのに明るい!」
とアイは息切れしながらもはしゃいでいた。
歩けば5分もかからない桜の木まで、15分かけて辿り着いた。
心地よい春風が、三人の周りをいたずらに吹き抜けて行く。
桜は、いつの間にか満開だった。
「すごい…花びらが…こんなに…!!」
小さな小さな声でも、アイの嬉しそうな気持ちが伝わってきた。
ただ三人、月の下、舞い踊る夜桜に見とれた。
「…ほんとに…ありがとね。…二人とも」
「わたし、こんなに幸せで、うれしい…」
アイの力が、時間が、もう僅かであることを二人、支える"重さ"で感じていた。
「こちらこそ、友達になってくれてありがとう。アイ」
僕はなるべくいつも通りに、と、桜を見上げながら微笑んだ。
「アイ…大好きだよ!また、遊びに来るから、明日も、明後日も…!!」
ノゾも何かを察して、でもそれを受け入れたくないのか、無理な約束をして、笑って。
「うん……うん、ありがとう」
「本当に、ありがとう……」
「ふたりとも、またね」
───そう言った瞬間、アイの魂が抜けた。
体の力がガクッと抜けたとか、息を引き取っただとか、そういう表現は、違う。
言葉通り、アイの魂はその瞬間、肉体から離れたのだ。
そう、感じた。
瞬間、ノゾはビクッとして、アイの名を必死に呼んだり、身体を揺すったりした。
けれど僕は、アイがもうここには居ないことを分かっていて、身体をそっと、草の上に寝かせた。
「──────アイはもう、逝ったよ」
そう言いながら、ぼんやりと月明かりが映る黒い髪を、優しく撫でた。
「いや、嫌だ!!こんな、最期だなんて……アイ…!!!!」
ノゾは悲しみと怒りでそう叫んで、恐らく、泣いていた。
どれくらい泣いていたのかは分からない。
僕の視界は、次第にぼやけて見えなくなっていく。
ノゾの泣き声が、遠くなっていく。
つい先程まで熱を帯びていたアイの身体が、すうっと冷たくなるのを感じながら。
僕は目を閉じ、
「またね─────────」
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呟くと、そこはいつもの寝室(せかい)だった。
ああ願わくば、アイが無事に何処かで、
生まれ変わっていますように。