お伽の棺|朗読劇

幾つもの場面で幸せに生きてほしいと、
結末が変わればいいと、願い、
理不尽な世の中を恨みたくなった。
だって誰のことも責められないから。

けれど… 恩を忘れ欲に目が眩まなければ、
息子を自分だけのものにしようとしなければ。
わからないものに怯え排除することでしか
村は守ることはできなかったのか?

果たして、本当に世の中が違っていたら哀しみは生まれないだろうか。


しかし、たづの視点から物語をみたとき、それは大きく印象が変わる。

たづは初めて布が売れたあと「異国へふたりで逃げよう」と言われたかったのではないだろうか。
(たとえそれが叶わぬことだったとしても、その言葉さえあれば最悪の結末は免れたのではないだろうか。)
しかし「逃げよう」ではなく「逃げろ!!」と叫ぶ声に、諦めた(力尽きた)のだろうと私は思う。

罪に苛まれ自己犠牲を願った者と、
自分をも偽り生きることを諦めなかった者。

その物語はただひとつの救いもなく、
淡々と最悪の結末にむかっていた。

否、最後の『布が鳥になり窓から飛んでいく』という哀しみのあまり視えた幻想だけは唯一幸せなものだっただろう。
とすると、もしかするとあの瞬間たづは満たされたのかもしれない。常に保身的だった彼が身を擲って自分を助けようとしてくれたことに。
ふたりともあまりにも哀しい救済だ…

弱さにつけこむ私欲に塗れた影がうすいことで、
怒りより哀しみの濃い物語だった。
(こうやって呪いは生まれるね)


空気がビリビリ震動するような叫びには正直驚いた。たぶん彼を軽んじてたのだろう。
同時に 罪を背負いきれなくとも愛しいひとへの想いの強さに心も震えました。
そして、現実と演技が交差することは、魂を削る行為だろうなと推しの潤んだ瞳をみて思った。

本当に素晴らしい体験をありがとうございます。
次も必ず行きます。たくさんDVD買います。

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