教養人になりたい人へ。
一般に教養人と呼ばれている人の特徴とはなんだろうか?自分なりに考えてみた。
とりえあえず、いつも通り辞書で調べてみる。
これだけ。情報量少な。定義は自分で考えてねってことだ。
しかしだ!雑に知識を集めて「これが教養だ!」と主張してもそれは通らないだろう。
どういうものが一般的に教養と呼ばれているか
条件はだいたい以下の3つがあるような気がする。
正しそうである(必須)
「ムー大陸は存在した」という知識は信じている人はいないことはないが正しくない。これは教養ではなくおとぎ話だ。
現代において「正しそう」というのは本来「正しい推論により導かれている」という意味だ。偉い哲学者が言ったからとかそんなことはどうでもいい。
役にたつ(選択)
科学が役にたつのは言うまでもないが、哲学なども人生について考えるいとなみにおいて非常に有用である。
一方で、「おれの今日の朝食は餅」という知識は一般的には教養と見なされていないようである。ムダだからである。
おもしろい(選択)
「王貞治の血液型は王(おー)だけにO型」のようなちょっとおもろい知識は、学問としては認められなくてもたくさん知っていると教養人とみなされる傾向があるように感じる。テレビのクイズ王が教養人扱いされるのもそれだ。
「正しい」というのは必須条件で、あとは「役にたつ」か「面白い」のどちらかがあるものが教養だ。
教養人とみなされるには知識の統合が必要
雑学をちょっと知っているだけでは教養人とは呼ばれないだろう。周りから教養人とみなされるには知識の統合が必要だ。
たとえば、数学の定理をたくさん知っているだけではだめで、それぞれの証明ができなければいけない。
哲学者をたくさん知っているだけではだめで、それぞれがどんな主張をして思想的に誰が誰にどのような影響を与えているかを知っていなければならない。
クイズ王は、ある芥川賞受賞者がいたら受賞年と作品と書き出しを覚えておかなければいけない。
そんな感じで、知識同士のリンクが繋がっていることが非常に重要だ。
で…だからこそ
だからこそ、世の中には学校があったり、本があったりするわけだ。最近は適当なインフルエンサーの発言を追ってるだけで教養人気取りしたり、余白の広い意識高い本を数冊読んだだけで教養人気取りしたりする人がいる。
そもそも文章を読んだり議論をしたりする基礎体力をつける練習をしていないのに勉強会を開いて勉強した気になってる人たちがいる。
むろん、先に断片的に知識を頭に入れていって後から統合していくのであればよいだろう。しかし、その作業を怠っているくせに教養人気取りしているのは…
客観的にみてダサいぞ。
とりあえず、中学高校の教科書を復習するところからはじめてみたらどうだろう。教科書では教養的知識が有機的に繋がっている。