日記・夏の終わり
髪を切った。
くたびれたバンドマンのようなバサバサのウルフカットを稲穂のごとく豪快に刈り取り、収まりのいいショートヘア。
切り落とされた毛束は、床の上で小さめなヨークシャテリアのような形を成し、まもなくして掃除用ブラシに背中を押され、美容室の奥の方へと消えていった。
鏡に映った姿は幼い頃、母が自分に描いてくれた似顔絵と瓜二つだった。
手を繋いで歩くと、夜道に細長い影と低く少し横に膨らんだ影が手を繋いだ箇所から足元へかけて混じり合って、ひとつの塊のようになる。
それは街灯から逃れるようにしてどんどんとその背を伸ばしていく。
ふと、これをどこかで見たような感覚になり、思い出したのはM-1の優勝トロフィーだった。
地面に落とされた自分の頭の影のシルエットがあまりにも綺麗な円形であったのでつい笑ってしまった。
影の自分はどの方向を向いているかを当てるクイズを2人で帰り道にした。結果は3問中2問正解だった。
気分が落ち込んでいる。
なぜかというと3連休最終日。夜の帳おろし始め、いそいそと暇の準備を始め出しているからだ。まだ終わらないでほしい。
昨日は地元に住んでいる友達と恒例の遠隔月見会(月見商品を食べ、電話をする、非常にシンプルな内容)を開催し、彼女はその電話を繋げたまま友人達と深夜のドライブに繰り出した。
電話越しに賑やかな声が聞こえる。
車中で流れている音楽の話、あいつは結婚しているのか、子供はいるのか、今日は冷え込んで、今やっているゲームが、とか、色々な話題を繰り広げているうちに、なんだか自分も彼らとドライブをしているような感覚になった。故郷が恋しい。
北海道はもうすでに冬に向かおうとしているらしい。
Berealの中の友人は、もふもふとしたあたたかな洋服を纏っている。
対照的に自分はまだ半袖、部屋だって冷房が効いている。なんだか地球の裏側にいるような気がした。
日中、ふと惰性で流していた短い動画の中にサムギョプサルを幸せそうに頬張る映像が流れてきて、キムチを求めてスーパーに向かった。
残暑を覚悟してドアを開けたが、そこにはもう夏の面影はなかった。
いつまで居座るのか、早くぶぶ漬けを勧めてやろうかと思っていたのに。なんだか前触れもなく姿を消されると、それはそれでまた名残惜しいような。どこまでも自分はないものねだりな人間なのだと思ってしまった。
ああ、もう夏の終わりか。そろそろ日も暮れてくるしな。
そう思った瞬間、この脳内の文章を前振りに使うかの如く、手が無意識にとある音楽をかけ始める。
そう、若者のすべてだ。
今が最高の旬だと脳が判断したのだろう。
案の定、非常に味わい深く聴くことができた。本当に素晴らしい楽曲と思う。
前に何かで、
「夏の終わりごろの花火の写真と共に、ここぞとばかりに若者のすべての歌詞と曲を載せたストーリーを投稿する輩が気に食わない」
と言うような呟きを目にした事がある。
うーん、うーん。まあ、確かに。
いやでも気持ちは分かる。自分もこの時期になったら載せたくなる。たくさん聴いてしまう。
余裕のある時には初めての遊びを覚えた子供を眺めるような、そんな感覚でいられるが、したり顔でそんなことをされてしまうと、すこし眉がぴくりと動いてしまう、かも。しれないのだろうか。
ただ我々は日の本に生まれた人間。
四季の移ろいを、それを象徴する何かに触れる事で1年の流れを楽しむ民族なのである。清少納言だって枕草子を書いてたし。
今の我々も、春は桜、夏はスイカ、秋は紅葉、冬は雪景色のように、真夏のピークが去った夕方は若者のすべて、というふうにきっと体に刻み込まれているのだろうと思う。
夏から秋にかけて、その移ろいを楽しむ重要なエッセンスのひとつとして、この楽曲があるのだと思った。
今更か。申し訳ない。
結構核心に触れたとおもって意気揚々と書き出したが、結構当たり前の事だった。
ただ己の思考のみでこの結論に辿り着いたことには非常に満足している。
スーパーにたどり着くまでの道でこの結論に至り、ああ、その彼(彼女)もきっとその曲で季節の移ろいを楽しんでいるのだろうと。
そう考えたなら、なんだかその鼻につくようなストーリーもなんだか許せるような気はするけど、やっぱり目にすると本当に許せるかどうかはわからない。
きっとそこには、「フジファブリックを楽しんでいる僕/わたし」への自惚れみたいなものが、微量でも混じっているかもしれない。
元も子もない思考の旅。自分としては楽しいルートだった。
明日から憂鬱な平日がまた始まる。ゆるゆると過ごしていこうと思う。
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