【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第5話
【第五話 まだやわらかい思い出について】
五月十三日。紺洋さんが亡くなってから、ちょうどひと月が経った。
私は学校が終わって知見寺屋敷を訪れると、いつものように、作業前に紺洋さんへお参りをすることにした。仏壇の前に座る。ふと、仏壇の様子が少し違うことに気が付いた。
ひと月の区切り、初月忌ということもあって、お供えはいつもよりずいぶん豪華だった。美しい季節の花が供えられ、上品な落雁や色とりどりの金平糖に、琥珀糖、ボンボンなどの入った箱が並んでいる。その隣に、紺洋さんの好物だった枇杷が、小さな籠に盛られていた。
仏壇にも、後飾りにも、汚れや乱れはひとつも見られない。自分自身には頓着せず、どれだけズボラな生活をしていても、仏壇まわりだけは蘭さんがその手できちんと整えていることを知っていた。
美しい仏壇に微笑んだ、ちょうどそのタイミングで襖が開く音がして、私は淡く目を細める。襖の方を見ないまま、言った。
「本当に、きれいにしてありますね。お仏壇」
「あー……まあな」
照れたような声がした。ぺたぺたと裸足が畳を踏みしめる音。ずるりと座布団を引きずって、どかっ、と大きな音が続く。蘭さんが座ったのだろう。相変わらずお行儀が悪い。
私は黙って線香を供えると、合掌を解いて目を開けた。
ちら、と蘭さんを見やる。あぐらのまま座卓に肘をついて、蘭さんはくぁ、とあくびを噛み殺していた。いつもと同じ格好に、目の下にはクマ。金髪もぼさぼさだ。通学前に朝食をねじ込んだ時から察していたが、どうせ昨夜も遅くまで読書に勤しんでいたのだろう。
「蘭さん」
口を開いた瞬間、蘭さんがチッ、と舌を鳴らす。眉をひそめた。
「まだ何も言ってませんよ」
「てめぇがその顔する時は、お小言って決まってんだよ」
「お察しが良くて助かりますね」
どうせ読まれているなら遠慮はいらない。いいですか、と前置きして、私は小言をスタートした。
せめて髪に櫛くらい入れてはどうか。どうせ昼食も取っていないのだろう。というか、禁止したはずのエナジードリンクの缶がさっきゴミ箱から見つかったのだが、これはどういうことか。
淡々と続ける私を右から左に聞き流して、蘭さんはあーもう、と肩を縮こまらせる。
「うるせーうるせー」
「なにがうるさいですか。子供みたいなこと言わないでください。とりあえず、隠してるエナドリ全部出す。どこです」
「……くそ」
ぼそぼそと、蘭さんが隠し場所を白状する。素直でよろしい。あとで処分しなければ、と決意していると、蘭さんがぼそりとつぶやいた。
「ったく……てめぇもつくづく律儀なこった。あんたの仕事は喪中アルバイトと日記の捜索だろ。あたしの世話焼きなんて業務外だろうに」
なんであたしに付き合うんだ、と続く。私は口を開きかけて、少しだけ黙った。蘭さんが片眉を持ち上げる。
「あんだよ」
「……いえ。これも仕事ですから」
「あ? でもあたしはそんなの――」
「紺洋さんですよ」
言うと、蘭さんがぴたりと黙った。じろ、と目付きの悪い視線が投げかけられる。私は小さく肩をすくめると、仏壇の前から座卓の方に歩み寄った。座布団を敷き、蘭さんの正面に座る。
「ご依頼の際に、オプションを頼まれたんです。孫と話をしてやってくれ、って」
「な――」
私の言葉に蘭さんはぴくりと指先を動かして、でも、それだけだった。目の前の薄いくちびるがかすかに動いて、ジイさん、と声のない形を作る。
「紺洋さん、蘭さんのことを気にされてましたよ」
「……あの、おせっかいジジイ」
いくら心配だからって、こんなガキよこしやがって。悪態をつくくちびるが、言葉に反して穏やかにゆるんだ。蘭さんがそっと遺影を見つめて、目を伏せる。長いまつげがゆっくりと、色素の薄い目を隠した。おそらくは、紺洋さんを想っているであろう表情が、静かに日に照らされる。
同じように視線を落とす。胸元で、淡紫のお守りがちらりと揺れていた。紺洋さんの大切なもの。本当なら、蘭さんに託されるべきだったもの。
まばたきの裏で、紺洋さんの笑顔が蘇った。それから、お守りを手渡されたときの、あのあたたかい乾いた枝みたいな、やさしくて大きな手のことも。
淡紫のお守りを、ゆるく握りしめる。
(――紺洋さん)
胸のうちだけでつぶやいて、私は、かつてこのお守りを渡されたときのことを思った。
※
私にとって、知見寺紺洋氏は特別な人だった。
知的で、思慮深く、穏やかで。誰に対しても分け隔てなくやさしくて、気が付けば、人の心の内側に静かに立っている。そんな雰囲気の人だった。
私が「もうすぐ死ぬってどんな風ですか」と聞いても、彼はひとつも怒ることなく、真正面から返事をしてくれた。緩和ケア病棟で、私が自分のことを話したのは、紺洋さんにだけだった。
あの病院の、静かでひそやかな中庭で。ボランティアの作業を終えたあと、樹の下のベンチに座って、紺洋さんと話した。今でも覚えている。
私がどんな話をしても、紺洋さんは「そうかい」とだけ言って、静かに話を聞いてくれた。否定も肯定もしなかった。いくら話しても、遮ったり、もうやめようとも、言わなかった。だからずいぶん長く話した。
ひとしきり話をして、沈黙がようやくやってきた。紺洋さんはあたたかい眼差しで、ただ私を見つめていた。やわらかい、やさしい表情だった。なんだかいたたまれなくなって、私は膝の上で手をぎゅっと握ると、顔を背けてその眼差しから逃れた。
「ねえ、雨宮くん」
紺洋さんの、穏やかで丁寧な呼びかけが、私の視線を引き戻す。おずおずと見上げると、老いたやさしい微笑みが、変わらず私を見つめていた。
「きみは、運命ってなんだと思う」
「……運命、ですか」
たどたどしく繰り返した。紺洋さんがうなずく。私は、一度口元を引き結ぶと、きっぱり言った。
「運命とは諦めの言い換えです」
それ以外の答えは、ひとつも思い付かなかった。けれど紺洋さんは、少しだけ眉を下げて笑うばかりだった。
「本当かな。諦めるばかりが運命かな」
「どういうことですか」
その問いに紺洋さんは答えずに、うーん、と苦笑するだけだ。曲げた指の関節を顎に押し当てて、彼は長らく考え込んだ。
沈黙が訪れる。穏やかな中庭は人が少なく、とても静かだ。紺洋さんは喋らない。木々の葉がこすれる小さな音が、なにかのさざめきのように聞こえてくる。風がかすかに耳元を撫でて、私は自分の呼吸が、静かに過ぎていくのを感じていた。
そうして、たっぷり数分は経ったのち。紺洋さんの指が、すっと立てられた。まるで乾いた枝のような、老いてなおあたたかい指先が、ひらり、と舞うように振られる。
「よし。雨宮くんに、ひとつアルバイトを紹介しよう」
「え? でも私、まだ十五――」
「うん。だから他の人には秘密だ」
ややこしくなるからね、と紺洋さんは笑う。困惑に眉を寄せ、私はなんのバイトですか、と尋ねた。
「そうだなあ……言うなれば〝喪中アルバイト〟かな」
「なんですか、それ」
いぶかしむ私に、紺洋さんは楽しそうに笑う。
「依頼人のために喪に服すお仕事さ。幸い、ここには〝お客〟がたくさんいる」
喪中アルバイト。あまりにも非常識な仕事内容に、思わず絶句した。ぽろ、と声がこぼれ落ちる。
「……不謹慎です」
けれど紺洋さんは、肩を揺らして笑うだけだった。
「そうかい? きみなら、喜ばれると思うよ。少なくとも、ぼくは嬉しいなあ」
「そういう……ものでしょうか」
「そうだとも。きっと他にも、ぼくと同じように思う人は多いよ。きみ、ここじゃ結構な人気者だから」
真面目で誠実、働き者で礼儀正しく、おまけに頭もいい。紺洋さんはそう言って、さも楽しそうに笑った。
でも、さっきの話題と、アルバイトが、どうつながるのだろうか。考える私に、紺洋さんはすべてわかっているような顔で微笑んだ。
「ねえ、雨宮くん。ここの人たちはみんな、運命――きみの言うところの〝諦め〟を受け入れた人たちだ」
「……っ」
緩和ケア病棟。その言葉の意味はわかっているつもりだった。でも、こうして、死を待つ当人からそれを伝えられると、胸の底がずしんと重いような気持ちになった。
紺洋さんが笑いかける。私をなだめるような、安心させるような、やわらかい笑みだった。
「運命とはなにか。その先がどうなっているのか。この仕事を通して、きみ自身で感じてみてはどうだい」
なにか言おうとして、でも、言葉に詰まった。ぎゅ、と膝の上で手を握る。ボランティア作業用のエプロンが、私の手でくしゃくしゃになる。
ここの人たちと話をして、あなたのために喪に服しますと約束して、いずれ彼らが去った後、日常を弔いとして過ごせば。そうすれば、なにかわかるのだろうか。
(運命の、なんたるかが――)
じっと考え込む私に、紺洋さんが声をかけた。
「なに、ただのアルバイトさ。お小遣い稼ぎと思えばいい。お金ならあるほうがいいからね」
「……でも」
私はためらう。紺洋さんが笑いかける。いくつかの問答。中庭のベンチに風が抜けて、さやさやと木々が鳴る。紺洋さんの微笑みと、戸惑う私と、隅に立つ時計台の上で、針と時間が過ぎていく。
そうして、しばらくのやりとりの末に。
「わかりました……それが、みんなのためになるのなら」
私は紺洋さんの口利きで、〝喪中アルバイト〟をすることになったのだ。
紺洋さんは約束を守った。
面倒になりそうな大人たちには伏せたまま、彼は私に〝仕事〟を斡旋して、料金体系や依頼の受け方、秘密を守ったままご遺族と顔を合わせるときの方法など、ありとあらゆることを教えてくれた。紺洋さんのおかげで、私はなんのトラブルに見舞われることもなく、今まで仕事を続けてこられた。
そしてとうとう、彼の順番がやってきた。
紺洋さんは最期のお願いとして、私に仕事を依頼した。通夜葬儀と初七日はいいから、できれば弔問をお願いしたい、と。もし問題がなければ、四十九日と納骨もお願いできるかな、とも言った。
談話室の隅、車椅子の紺洋さんは、『そのとき』が近付いてなお穏やかな声で依頼を告げた。一通りのプランを話して、そして最後に、オプションを頼みたい、と付け加えた。
「なんですか。お使いでも、お片付けでも、なんでもします」
紺洋さんの頼みなら、私は、なんだって。そう伝える声が震えた。ぐっ、と息を詰めてなにかを堪える私に、紺洋さんは笑って、そっと私の腕を撫でてくれた。
「孫と少し、話をしてやってくれないか」
「お孫さん……?」
何度か話に出たことがある。お孫さんの話をするときの紺洋さんの瞳は、いつもやさしくてきれいだった。
紺洋さんはうなずく。
「ちょっとお転婆だけどね、優しい子だよ。でも……少し優しすぎたかな」
少しだけさみしそうな目が、薄く細まった。さらさらと、紺洋さんの乾いた手が、老いて痩せた太腿をさする。その手がゆっくりと寝間着のポケットに入れられて、紺洋さんは私を見つめた。とても静かな微笑みが、穏やかに私に向けられる。
「きっといい出会いになると思うよ」
だから、孫を頼むね。そう言って、紺洋さんはポケットから手を取り出して、私の手を包むように握った。ぽたり、とてのひらに何かが落とされる。見れば、そこには淡紫のお守りがあった。
「これを見せるといい。きっとあの子も素直になる」
少し意地っ張りだからね、と笑う彼の表情は、少しだけ寂しそうで、でもやっぱりとても穏やかだった。
私はうなずくと、お守りを握りしめる。そして、ご契約ありがとうございます、とささやくと、深々と頭を下げた。
※
「……紺洋さんが亡くなったのは、私の十六の誕生日でした」
ぽつり、とつぶやく。視線を落とせば、胸元で淡紫が揺れた。差し込んだ春の日差しを受けて、まじった銀糸がきらりと光る。お守りを、そっと手のひらに乗せた。厚い布地を通して、中の感触がかすかに伝わってくる。
このお守りを受け取ったときは、これがどういうもので、どれほど大事なものなのか、私はなにも知らなかった。何気なく渡されただけのお守りを見下ろして、わずかに顔を歪める。
紺洋さんは、どういうつもりで、私にこれを託したのだろう。なぜ、私に〝喪中アルバイト〟をさせたのだろう。孫と話をしてほしいというオプションは、どういう意味があったのだろう。
あの中庭で紺洋さんと話した日からずっと、入れ代わり立ち代わり、誰かのため喪に服してきた。運命を、そしてその先を、自分の身で感じ取るために。
(でも、私はまだ――)
紺洋さんの笑顔が、まばたきのたびに蘇る。記憶の中の彼はなにも言ってはくれない。ただやわらかい笑みのまま、私を見つめるだけだ。
「……雨宮」
そっ、と呼びかける声がした。顔を上げる。
座卓に肘をついた蘭さんが、静かな目で私を見つめていた。その視線が、ゆっくりと下りていく。私の手元へと。
「あ――っ」
つられて視線を下ろしてみれば、歪むほどきつくお守りを握る手が目に入った。はっとする。慌てて手を緩めて、すみません、と謝る。
「紺洋さんと蘭さんの、大切なものなのに」
私の謝罪に、蘭さんはただ黙って苦笑した。色の薄い瞳が、じっと私を見つめている。だらしなく肘をついたまま、蘭さんの剥げたネイルの指先が、すっとお守りを指差した。
「その袋さ。ジイさんの嫁さんが縫ったんだ」
「はい。以前そう伺いました。紺洋さんの奥方ということは、蘭さんのお祖母さまですね」
私の言葉に、蘭さんが小さく笑う。
「一応、血筋の上ではそうなるんだがなぁ。ジイさんの嫁さんは、あたしの父親を産んだときに死んじまったんだ。おかげで残ってる写真やら思い出話やらは全部、若い姉ちゃんのそれだろ? ぜんぜん、バアさんって気がしねぇんだよな」
「そう……なんですか」
たしか、蘭さんはご両親も早くに亡くしている。本当に、彼女にとっては紺洋さんだけが頼りだったのだ。たった二人きりの家族。
けれど、私の思いを見抜いたように、蘭さんは笑った。
「ま、二人家族って感じは全然しなかったけどな」
やわらかい目がお守りを見つめて、蘭さんは懐かしむように微笑んだ。
「ジイさんは浴びるほど思い出話を聞かせてくれたし、家の中にはバアさんや両親の写真だの日記だの遺品だの、痕跡は死ぬほどあったしな。誕生日も命日も、生死問わず全員分、きっちり全部イベントとして扱われてたし。家族の人数が少ねぇって、感じたことはなかったな」
くす、と笑う声。蘭さんは楽しいことを思い出すみたいな顔で笑って、仏壇の上の方を見た。つられてそちらを向く。そこには、歴代の知見寺家の人間と思われる人々の写真が、ずらりと並んでいた。
蘭さんの視線の先、一人だけ、ひときわ若い女性の写真がある。おそらくこの人が、紺洋さんの奥方だ。
「特に嫁さんの話はなぁ……うんざりするほど聞かされたよ。同じ話を、そりゃあもう、何度も何度も」
「愛してらっしゃったんですね」
「それだけじゃなく、語れる話が少なすぎたってのもあるがな」
「話が、少ない……?」
蘭さんがうなずく。
「ジイさんと嫁さんは、家が決めた結婚相手でな。初めて顔を見たのは祝言の前日だったんだ」
「……」
開きかけた口をつぐんで、私はただ黙り込んだ。蘭さんは眉を下げて、そのうえ嫁さんは息子の顔も見ずに死んじまって、と続けた。
「二人は、たった三年しか一緒にいられなかった。それでも、あれだけ何度も思い出話をしてたんだ。ジイさんを見てると思うよ。結婚ってのも、悪くねぇんだろうな、って」
淡く目を細めた蘭さんは、会ったこともない祖母の写真を、まるで懐かしむように見つめている。その瞳に宿るのは純粋な憧憬と、なにか美しいものを尊ぶような色だった。
「……っ」
よくわからない気分になる。もやもやとこみ上げる、複雑な色合いが入り混じったこの感情が、なんなのかわからない。ただ目を細める蘭さんを見ているのが嫌で、私はふいと顔を背けた。
「結婚って、いわゆる人生の墓場じゃないんですか。それが勝手に決められたものなら、余計に」
蘭さんの瞳が私を捉える。ふ、と小さな笑い声が聞こえた。
「ま、ジイさんは運が良かったんだよ」
ぐずる幼子をなだめるみたいな口ぶりに、もやもやが余計につのっていく。私は子供じみているとわかりつつも、反発の声を抑えられなかった。
「誰しもが幸運とは限りません。やっぱり、墓場ですよ」
「……」
思った以上にきっぱりした断言が出てしまって、蘭さんがわずかに黙り込む。私はくちびるをかすかに噛んだ。
蘭さんは、少しだけ困ったような間を取った。かすかに視線が伏せられて、ためらうようなくちびるの動き。でもそれはすぐに、いつもの笑みに取って代わった。
「ははっ、知ったようなこと言うなあ、あんた」
「っ……別に私は――」
「ほら、そんなツラすんなって。お下がりの枇杷でも食おうぜ。剥いてやるから」
私の返答など聞きもせず、蘭さんが立ち上がる。仏壇から籠を取ってきて、彼女は雑な手付きで皮を剥きはじめた。橙色の果汁が染み出して、蘭さんの指先がひたひたと汚れる。ぱた、と座卓の上にしずくが落ちた。
「ちょっと、ティッシュくらい――んむ……⁉」
「はい、召し上がれ」
でこぼこな剥き方の枇杷を、無理やり口に押し込まれる。目を白黒させる私に、蘭さんが楽しげに笑った。
なにか言い返そうと思うのに、口の中は枇杷でいっぱいだ。むぐ、と喉が鳴った。やさしい甘さが、口の中に広がっていく。軽く噛みしめると、涼やかな感触と共にじわりと果汁が染み出した。おいしい。
「うまいだろ」
「……む」
黙ってうなずく。口の中にものが入ったままなので、声が出せなかったのだ。そんな私を見て、蘭さんはますます、やっぱお行儀がいいなあ、と笑った。
もやもやとこみ上げる、よくわからない感情にまかせて、下を向いた。蘭さんの、喉の奥で笑う声が聞こえる。複雑な気持ちが胸の中を塗りつぶす。ぎゅっと眉が寄った。
(蘭さんは――なにも言ってこない)
さっきの反応はまずかった、それくらい私でもわかる。睦まじい紺洋夫妻の話を聞いておきながら、結婚なんてと強い言葉で反発した。でも。
蘭さんだってきっと、呆れる気持ちも、言い返したいことも、たくさんあるはずなのに。蘭さんはなにも言わない。それは私が子供だからで、強く言うのは大人げないからで、彼女が私を尊重しているからだ。その事実が一層、胸のもやもやを加速させた。
(いつもそう。このひとは大人だ)
それがなんだか――とても苦しい。理由はわからない。
こくん、と枇杷をようやく飲み下して、手の中に種を吐き出して、そっと顔を上げた。蘭さんが、次の枇杷を手に待っている。
「ん。まだまだあるからな」
「蘭さんも、いただいたらどうですか」
「んー? まあ、雨宮が食い終わったらな」
蘭さんは当たり前のようにそう言った。にしし、と笑った口の端から、八重歯がこぼれて光っている。まるで邪気のない子供みたいな笑顔、でも、このひとはやっぱり大人で、それがどうしても気に入らない。
ぱし、と籠から枇杷をひとつ掴み取った。爪を立てて、皮を剥きはじめる。蘭さんが、お、と目を丸くした。
「蘭さんのぶんは私が剥きます」
「なんだそれ。ま、いいけど」
くすくすと蘭さんが笑う。もやもやが強くなる。複雑な色合いの、私にはまだ正体のわからない感情。それがなんだか妙に居心地が悪くて、むずむずする。
私は慣れない手付きで、できるだけ綺麗に枇杷を剥いた。指先が、しっとりと濡れていく。ティッシュを探して視線をさまよわせたとき、ふと紺洋さんの遺影が視界に入った。穏やかな、やさしい笑みだった。
紺洋さんが亡くなって、ちょうどひと月。蘭さんと過ごした時間も、ほぼ同じくらいだ。この一ヶ月間、自堕落でだめな大人の蘭さんを、私はずっと世話してきた。
知見寺家を訪ねたのは、他でもない紺洋さんの依頼だったから。その次、蘭さんを訪ねて地下に下りたのは、親族の皆さまが困っていたからだ。
(でも……)
最初は紺洋さんのためだった。次はみんなのためだった。
じゃあ今は、どうなんだろう。私はなんのために、どの理由のために、蘭さんと過ごしているんだろう。考えてもわからない。感情の正体は杳として知れない。
ため息をついた。近いうち、この感情がわかる日が来るのだろうか。わかったとして、私のもやもやは消えるのだろうか。わからない。どう考えても私は子供だ。胸の底がもやもやぐずぐずして、無性にもどかしい。
少しだけ息を詰めて、私はことさら丁寧に枇杷を剥いた。「そんな丁寧にしてどうすんの」と蘭さんが呆れても、それでも、指先を動かすのを止められなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?