【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第1話
あらすじ
依頼人のために喪に服すバイトをしている女子高生、雨宮藤乃は仕事のために訪れた屋敷で、依頼人・知見寺紺洋氏の孫である蘭という女性に「祖父の日記探しを手伝ってくれ」と頼まれる。
蘭は元ヤン丸出しの外見で口調もガラも最悪、生活能力ゼロの子供みたいな女性だった。だが一方で彼女は、紺洋ゆずりの深い叡智と聡明さを併せ持ち、未成年を気遣うまっとうな大人でもあった。
広い知見寺屋敷で日記を探しながら日々を過ごすうち、雨宮はしだいに蘭に惹かれていく。けれど蘭はあくまでも雨宮をただの子供として扱うのだった……。
●喪中アルバイト承ります●
契約期間中、お客様のために喪に服します
・基本料金
逝去〜納骨までの49日間 …… 十五万円
正喪服、準喪服、略喪服等、場面に応じて毎日着用いたします
期間中、毎日朝晩の線香上げを行います
(スタッフ自宅にて。別途お写真をご用意ください)
・オプション
通夜参列 …… 一万円(香典料含まず)
葬儀参列 …… 一万円(香典料含まず)
ご自宅への弔問 …… 一万円(香典料含まず)
初七日(別日)参列 …… 一万円(香典料含まず)
四十九日法要参列 …… 一万円
納骨式参列 …… 一万円
喪中期間延長 …… 一日につき千円
記載のない事例にもご対応いたします
どうぞお気軽にご相談ください
雨宮 藤乃(080-4XX5-9XX7)
【第一話 特攻哲学者と喪中アルバイト】
知見寺紺洋(ちけんじこんよう)氏が亡くなったのは四月十三日のことだった。九十二歳だった。
その五日後、私は知見寺家の門を叩いた。弔問のオプションが付いていたのだ。初七日は出なくていいとのことだったから、その前日の今日を選んで足を運んだ。
知見寺家の門構えは、どこの寺かと思うほど大仰で大きかった。木造の平屋は驚くほど広く、廊下は深い色の板張りで、歩くと美しい音がした。本物の旧家というのはこういうことか、とまじまじ実感した。
仏間に通される。私は親族の皆さまに香典を渡して挨拶すると、仏壇の前に座った。隣の後飾りを見やる。紫の骨箱と、穏やかな写真を見つめた。姿勢を正す。
紺洋さんの宗派は本願寺派だ。私は数珠を手に合掌した。香炉に合わせて線香を折ると、二本まとめて火を付ける。手で扇ぎ消し、寝線香にした。火は左。おりんは鳴らさない。
目を閉じて、手を合わせる。心の中で、紺洋さんに呼びかけた。雨宮です、約束通り参りました、と。
そっと目を開ける。遺影に向かって頭を下げる。そうして、私は座布団を後にした。最後に、親族の皆さんにも一礼する。
目を丸くした親族のひとりが口を開く。
「あなた、まだとても若いのに……本当に綺麗にお線香をあげるのね。雨宮さん、でしたかしら。紺洋さんとは、どういうお付き合いで?」
「緩和ケア病棟でボランティアをしていました。紺洋さんには、そこで大変良くしていただいて……」
「ボランティア。まだ学生さんでしょう」
「はい。今月、高校生になりました」
「まあ」
いちおう、嘘はついていない。年齢も、病棟のボランティアも、そこで彼と知り合ったことも、なにもかも本当だ。それ以上の〝アルバイト〟については、話す必要はない。
あとはいくつか思い出話をして、負担にならないうちに帰ろう。私は勧められた座布団をありがたく受けると、生前の紺洋さんについて話しかける親族の方たちに応えた。
いわく、この上ない人格者だった。穏やかで聡明な紳士だった。素晴らしい、立派な方だった。知見寺家の歴史に残る人物だった。なにもかもその通りだ。
私は彼らの言葉にうなずくと、かつて紺洋さんと交わしたやり取りや、彼の思慮深い笑顔について語り合った。涙する人もいた。私も少しだけ泣いた。
あまり長居するとご遺族の負担になる。ひとしきり話をして、そろそろ帰ろう、と思ったときだ。
数珠と袱紗をしまうため鞄を開けた私の傍で、はっと息を飲む音がした。顔を上げる。そこには、こぼれそうに目を丸くした初老の男性がいた。
「きみ、それは……」
「え?」
男性の視線を追いかける。鞄の中には、淡紫のお守りが入っていた。ああ、と取り出して顔を上げる。
「これですか。生前に、紺洋さんからいただいたんです」
「っ……!」
その瞬間。辺りの空気が一気に変わった。え、と見回す。親族の皆さんの顔色が、ざあっと豹変するのが見えた。すべての視線が、私の手元に集まっている。
なに、と思うより先に、親族のひとりが動いた。転げるように歩み出て、がばっ、と頭を下げる。ほとんど土下座の勢いだった。
「え、ちょっ……なにを」
「頼む! 蘭さんを説得するのを手伝ってくれ!」
「ら――蘭、さん?」
ほとんど、畳に額をこすりつける勢いだ。途方に暮れて見回すと、他の親族たちも土下座こそしないものの、同じく縋るような目で私を見つめていた。戸惑う。
まだ頭を下げたまま、親族の男性が言った。
「紺洋さんの孫娘だ。葬儀からずっと地下にこもったまま、もう何日も出てこない」
「……お孫さん」
ぽつり、と呟いた。かつて病院の中庭で聞いた、紺洋さんの声がよみがえった。ひとり孫がいるとは聞いている。お孫さんについて話すときの彼の目は、やさしくてきれいだった。
黙ったまま胸を押さえる私に、親族の方たちが口々に言う。
「そのお守りを持っているってことは、君は紺洋さんの信頼を得たんだろう。だったら間違いない、頼むよ」
「外に出ないどころか、喪主なのに初七日もしない、跡も継がないなんて、とんでもないわ」
「彼女が跡を継がなければ、知見寺家はどうなることか」
「もう藁にも縋りたいんです、お願いします」
「あ、あの……えっと……私」
どうしよう。こんな大勢の大人が、必死で頭を下げてくる光景なんて、生まれてこのかた見たことがない。どうすればいいかわからない。
逃げるように視線をさまよわせた。ふと、紺洋さんの遺影が目に留まった。黒い額縁に縁取られた笑顔と目が合う。穏やかでやさしい、深慮に満ちたあの表情。
――少しお転婆だけど、優しい子だよ。
――良かったら、話をしてやってくれないか。
(……紺洋さん)
たのむ、お願いだ、と声がする。途方に暮れて見下ろした先、白髪交じりのつむじが見える。
私は呆然と、握りっぱなしだったお守りを見下ろした。淡紫のきれいな袋。
このお守りを見て、みんなの態度が変わった。あの紺洋さんが、私を信頼したのだという。それこそ、大の大人が何人も、身も世もなく私に頭を下げるくらいには。
信じられない気持ちだった。でも、彼らはそれを信じている。私がなにを言っても、聞いてはくれないだろう。
ぎゅっ、とお守りを握った。どうしよう。みんな困ってる。私が動けば、この人たちは助かるのだろうか。紺洋さんの信頼に応えられるのだろうか。蘭という人を連れ出して、跡継ぎをお願いできれば。
「……っ」
ふーっ、とため息をついた。あの、と小さくつぶやく。親族の男性が、ますます頭を畳に擦り付けた。
「その……頭を上げてください」
「だが」
「……やります。やりますから」
だから土下座はやめてください、困ります、と告げる。その瞬間。
「ッ、本当か……!」
ばっ、と土下座の男性が顔を上げ、どっ、と室内の空気が緩んだ。本当に、と何度も問いかけられる。こくこくと頷いた。
「よ……よかった……! 君ならきっと安心だ。さっそく頼むよ」
「はあ……」
「彼女は蔵にいる。案内させよう」
あれよあれよと話は進む。そうして私は、ほっとした顔の親族たちに見送られ、奥の蔵に案内されたのだった。
※
巨大な蔵の階段を降りた先に現れたのは、扉ではなく鉄格子だった。
(これ……)
まじまじと入り口――鉄格子を見る。どう見ても地下牢だ。鉄材の質感からして、相当古いものらしい。さすが旧家、と感心する。
見下ろした先、格子の把手には古びた錠前が下がっていた。ただし内側に、だ。蘭という人物が『閉じこもっている』というのは本当らしい。
案内のお手伝いさんは早々に引き上げて、今は私ひとりだ。格子の中を覗き込む。どうにかして外光を入れているらしく、明るさは十分あるのだが、いくつもの棚に遮られ、中の様子はわからない。
私は小さくため息をつくと、あの、と格子の向こうに声をかけた。返事はない。しばらく待って、あのう、ともう一度呼びかけた。やはり返事はない。
「ええと……あのー、すみません!」
三度目の正直とばかりに声を張り上げた瞬間、ばさっ、と奥の方から本を放るような音がした。びくりと肩が跳ねる。
人の気配。ぺたぺたと裸足が床を踏む音が、だんだんと近付いてくる。そして、
(あ――)
きらきらした金色が、目に飛び込んできた。
鉄格子の向こうに現れたのは、私より長身の女性だった。
見上げた先、さら、と翻る、明るすぎる長い金髪。その隙間からきらっ、となにかが光った。耳の軟骨に並ぶボディピアスだった。
どこで買ったんだと突っ込みたくなる派手な紫色の下着みたいなキャミワンピに、くたくたのジャージを肩から落として羽織っている。伸びた先の足は裸足だ。
まぶしすぎる金色の前髪を透かして、まばたきが何度か私を見下ろした。白い肌に薄いくちびる、鼻筋はまっすぐで、切れ長の目尻は長いまつげと共につんと上を向いている。間違いなく美人と呼ぶべき整った顔立ちを、しかし、吊り上がった眉の下のあまりにも凶悪な目つきが台無しにしていた。呆然とする。
(これが……紺洋さんの跡継ぎ?)
見たところ、いい年をした大人のようだけれど。髪の色といい格好といい、表情といい仕草といい。どこからどう見ても――元ヤンの特攻女だった。
ぽかんとしている私を、上から下までじろりと眺め回す〝不良の煮こごり〟みたいな女性。薄いくちびるから、ドスの効いた声がする。
「あんだよ」
これがガンをつけられるというやつだろうか。視線の迫力がすごい。
「あの……」
私の呼びかけを完全に無視して、彼女は盛大なため息をついた。長い指先が、がしがしと金色の髪をかきむしる。春の日差しを受けてきらきらと金が光った。
「あいつらなに考えてんだ。こんなガキよこしやがって」
(いや、ガキって……)
口の中だけで呟いたのが聞こえたらしい。特攻女が顔をしかめる。ぎろ、と三白眼が私を見据えた。
「あんたいくつ」
「あんたじゃないです。雨宮藤乃です」
「あァ? ったくめんどくせぇな……じゃあ雨宮。あんたいくつよ」
「十六です」
つい数日前に誕生日を迎えたばかりだ。私の言葉に、鋭い目付きがうわ、と細まった。
「げ、干支ひとまわり違うじゃん」
「じゃあ、知見寺さんは二十八ですか」
紺洋さんの跡継ぎということは、名字は『知見寺』でいいはずだ。しかし彼女はたちまち苦い顔になった。
「あー……その知見寺さんっての、やめろ。それはジイさんの呼び名だ。あたしのじゃねえ」
蘭だ、とふてぶてしい声が言う。
「じゃあ、蘭さん」
「あんだよ」
「私、上の人たちから、あなたを説得するよう頼まれたんです。皆さん、外に出てきてくれ、跡継ぎになってくれ、って困ってました」
「あァ? 他所モンが首突っ込んでんじゃねぇよ」
殺されそうに凶悪な目付きが飛んできた。まあ、他所者なのはその通りだけど。でも、みんな困っていて、頼まれてしまったから。
じろ、と色の薄い瞳が私を睨む。
「つか、あんたジイさんの何」
それを聞かれると――どうにも困る。ボランティアで知り合っただけの仲、という説明で、この人は納得してくれるだろうか。
私は少し考えて、蘭さんの瞳をじっと観察した。色素の薄い虹彩に、少し固い表情の私が映っている。
向けられるまっすぐな視線。蘭さんの目付きは鋭いものの、表情は思ったより素直だ。ただ純粋に、私のことを知りたいと思っている正直な顔。翻して言えば――嘘やごまかしが凄まじく嫌いそうな顔、とも言える。
たぶんこの人に嘘をつくのは得策ではない。バレた時が怖すぎる。私は小さく息を吐いた。
「あー、ええと……喪中アルバイトとその顧客、ですかね」
「――あ?」
薄い色の瞳が見開かれる。あんだそれ、と予想通りの言葉が聞こえた。
「お客様のために一定期間、喪に服すバイトです。参列や弔問も業務に含まれます」
他にも色々オプション受けますけど、と続ける。蘭さんはただ目を丸くしていた。反応がないことを幸いに、私はざっくりとバイトのことを説明する。
緩和ケア病棟のボランティアで知り合った人たちから依頼を受けて、彼らが逝ったあと喪に服すバイトをしていること。細かい片付けやお使いや伝言、心残りの解消など、相談次第でオプションを追加できること。
あれこれ細かい業務内容の説明を口にして、でも、紺洋さんの仕事を最後に引退する予定だ、ということだけは言わなかった。
説明を終える。ずっと口を挟まなかった蘭さんは、呆れきった顔をしていた。はあ、と間抜けな声が聞こえる。
「けっ……たいな仕事してんなぁ、あんた」
けったい、って。今時そう聞かない言葉の上に、たぶん方言だ。まあ、さっき上で聞こえた話が本当なら、知見寺家は公家の歴史を口伝で伝えた叡智の一族だと言うから、もとは関西の出かもしれないが。
「つか、それ上の連中に話したのかよ」
「いえ、さすがにそれは」
私の返答に、蘭さんは思い切り顔をしかめた。
「え。じゃあてめぇ、あいつらにしてみりゃただの弔問客だろ? なんでこんなとこまで来させられてんの」
「あー……たぶんこれのせいですね」
ごそ、とポケットからお守りを取り出す。淡紫の小さな袋。
それを見た瞬間、蘭さんの顔色がさっと変わった。まただ。さっきいくつも見た、信じられない、という表情。
蘭さんはうつむいて、しばらく押し黙った。さら、と金色の髪が動いて彼女の顔を隠す。あの、と呼びかけても返事がない。
「蘭さん?」
「……いいよ。入れよ」
沈黙ののちの、短い返答。ごそ、と動く気配。錠前の外れる金属音。鉄格子がきしみを上げて開かれ、そして。
「ほら。来いよ雨宮」
どことなくさみしそうな表情。少し眉を下げた蘭さんが、静かに私を招き入れた。思わずぎゅっ、とお守りを握りしめた。
※
地下牢の中は大きくて明るかった。天井近く、明かり取りのためだろう、たっぷりとした横長の虫籠窓がある。差し込んだ光に舞った埃が乱反射して、ちらちらと白っぽく輝いていた。
牢内は本棚だらけで、床にも大量の書物が積んである。あまりにも本まみれなので、歩くのも一苦労だ。古い紙と煙草の匂いがいっぱいになって、辺りをふわりと包んでいた。
(……メンソール)
こんな紙まみれのところで、煙草なんて大丈夫なのだろうか。思わずくん、と鼻を鳴らした瞬間、先導する蘭さんの声が飛んできた。
「電子タバコだから火事の心配はねぇよ。……ほら、着いた」
顔を上げる。居並ぶ本棚を進んだいちばん奥、突き当りの壁際に、人の過ごす空間があった。
小ぶりな文机。その上に積まれた書物。厚いガラス製のデスクライト。艶のある万年筆が転がっている。木製の古い置き時計に、深い色の灰皿。座り心地の良さそうな座布団と、雑に畳まれたやわらかそうな毛布。壁に貼られた新聞屋のカレンダー。
横長い窓から差し込む光がいっぱいに満ちて、その空間はほのかにあたたかかった。大切に守られた、特別な場所。そんな雰囲気があった。
まるでそうするのが当たり前みたいに、文机の前に蘭さんがどかっ、と座る。雑なあぐらをかいて、まあ座れよ、と蘭さんが私を促した。
とりあえず正座する。座布団がないので少し痛い。それを見留めた蘭さんが、無言で自分の座布団を譲った。ありがたく使わせてもらう。
「で、だ。……てめぇ、どうやってあのジイさんの信頼を勝ち取った」
「やっぱり、そういうことになりますか」
手の中でお守りを裏返す。蘭さんは凄い目でそれを睨んだ。
どうやってもなにも、と思う。ちら、と蘭さんを見る。色の薄い、まっすぐな目。たぶん嘘をつかない方がいい人の瞳。ため息をついた。
「きっかけと言えば……病棟でボランティアをしてたとき、紺洋さんに質問したんです」
「質問?」
「……もうすぐ死ぬのが決まってるってどんな感じですか、って」
「――は?」
大事な身内にそんな質問をしたのだ、ぶん殴られても文句は言えない。けれど蘭さんはただぽかんとするだけだった。気まずくなる。目を逸らして、ごにょごにょと呟いた。
「どうしても……知りたくて。その。つい」
「っ……は、はっはははは!」
「えっ」
唐突に蘭さんが爆笑した。ばしん、とあぐらの膝を叩いて、派手なキャミワンピがおかしそうに背を丸める。じろ、と上目遣いが私を見た。
「なんだてめぇ、死がなにか知りてぇのか」
「は……半分くらいは」
頷く。蘭さんはなぜか妙に機嫌を良くして、ニッ、と笑った。薄いくちびるが笑みの形を作って、白い八重歯がちらりとこぼれる。
「いーい問いかけだ。人間、いや生き物をやってく上で絶対に避けられない命題だな」
「はあ」
目を丸くするばかりの私に、蘭さんが軽く視線をさまよわせる。そうさなあ、と軽やかな声がした。
「死……ってのはまあ、ばっさり言っちまえば、情報の完全な遮断をともなう不可逆な変化だな」
「――はい?」
なんだ今、あまりにも不釣り合いな言葉がこのひとから漏れなかったか。
「死は体験できない。できるはできるが、その情報はこちら側――現実世界には絶対に持ち出せない。だから人が死を認識する時、それは必ず〝過去に起こった、または現在起きつつある他人の死〟になる。自分の死じゃない。まあ〝時系列も自他も問わない、実際には起こらない死〟もあるっちゃあるが……こりゃどっちかっつうと空想に近いから除外な」
すらすらと流れ出す言葉に、完全についていけていない。私はただバカみたいに口を半開きにして、え、とかあ、とか言うしかできなかった。
「現実世界に存在する死は、実際の死とは違う。あたしたちが認識する死は、認知の中で機能する一種の仕組みであり、実際の死から投影された幻影みたいなモンだ。要するに、死は『存在はするが直接の観測ができない』という特徴を持ってる。だから間接的に見るしかねぇ訳だが――……」
(……なに、これ)
明るすぎる金髪。殺されそうに鋭い目付き。下着みたいな紫のキャミワンピ、くたくたの派手なジャージ。そのくちびるから流れ出す、嘘みたいに滑らかな語り口。
どう見ても、元ヤンの特攻女にしか見えなかったのに。蘭さんの口ぶりは聡明で、理性的で、その言葉は深い思索と広い視野、そして膨大な知識に基づいていた。紺洋さんを思い出した。
見れば蘭さんが座る文机には、難しそうな本が大量に散らばっている。表紙に書かれたカントとかレヴィナスとかいう名前は、倫理の授業で習った覚えがあった。呆然とつぶやいた。
「蘭さんって……哲学者かなにかですか」
「あァ? んな立派なもんじゃねぇよ。ただの引きこもりだ」
いや、こんな元ヤン特攻女みたいな引きこもりがいてたまるか。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。失礼千万な内心を知りもせず、蘭さんは死、死、と呟いた。
「死ぬってどういう感じ、ねえ……。死の瞬間は苦痛を和らげるため脳内物質のシャワーが降り注ぐって話がありはするけど。それっぽいデータの観測はできても主観としての言葉がねぇからなあ。〝感じ〟の定義が何かにもよるけど、こればっかはどうアプローチしたもんか……」
難しい顔でぶつぶつ考え込んでいる。放っておくとどこまでも思考の海に沈んでいきそうで、私は慌てて蘭さんを止めた。
「ま、待ってください。そこまで真剣にならなくて大丈夫です」
「あ? そうなのかよ?」
「半分くらいは、って言ったじゃないですか」
うっすらと目をすがめ、蘭さんが私を窺う。知りたいのが半分ってどういうことだ、と言いたげな眼差しに、私はああもう、と両手を小さく上げた。
「知りたいのは死っていうより、その。『運命』についてです」
運命。すでに決まっている結末に向かって歩かなければならないことについて。運命の意味と、その先にあるものについて。
その単語を聞いた瞬間、ぴくっ、と蘭さんの指先が動いた。ゆっくりとまばたきがあって、薄い色の瞳がじっと私を見つめる。静かな声がした。
「……それ、ジイさん絡みだろ」
「わかるんですか」
「まあな。そんな言葉持ち出すのは、あのジジイしかいねえよ」
そうささやくと、蘭さんは苦いような懐かしいような、不思議な表情をした。
運命か、と小さな声。色の薄い視線が下に落ちて、深く考え込むような仕草。私は小さく息をついた。
「初対面の人の相談にここまで真剣になる、って。蘭さんもやっぱり、紺洋さんの跡継ぎなんですね」
途端、蘭さんの目が丸くなった。
「あァ? てめぇ、ジイさんが何やってたか知ってんのか」
「〝相談役〟ってお仕事ですよね。具体的に何してたかは知りませんけど。蘭さんが跡を継いでくれないから困ってる、って上の人たちが」
はッ、と蘭さんが鼻で笑う。
「跡継ぎねえ。ま、御大層な名前だけど……〝相談役〟ってのは要するに、ただの占い師だよ」
「占い師? 紺洋さんが?」
頷きが返ってくる。
「どうしても選べない、どちらを選んでも同じだけの利益と後悔がある。そんな二者択一の選択を、本人の代わりに選んでやるお仕事だ」
剥げかけたネイルの指先がひらりと振られる。薄いくちびるが苦笑した。
「上の連中、さも代々続いてるみたいな言い方したろ」
「はい」
「でもな。〝相談〟自体はジイさんが勝手に始めたことなんだ。だからあたしは二代目だな」
そう、だったのか。
蘭さんがどかりと後ろに両手をついて、天井を見上げる。埃まじりの、きらきらした光が降り注ぐ。
「仰々しい手順を踏んで、儀式を行い託宣を下して、究極の選択を決めてやる。どうせどちらの選択も同じ重さなら、神仏に委ねてしまえばいっそ禍根も残るまい、って。ジイさんいわく、そういう理屈なんだとさ」
ただし、と蘭さんは続けた。
いちど〝相談〟を頼んだ以上、依頼人は絶対に〝相談役〟が告げた選択肢を選ばなければならない。託宣を受けておきながらそれに反することをすれば、神罰がくだる。
「もう少し具体的に言やぁ、ウチを出禁になって、託宣を無視したって吹聴されるのさ。だから少しでも片方を選びたい気持ちがある場合は、絶対に〝相談〟を持ちかけてはならない、って決まってる」
知見寺家の〝相談〟は、かならずプラスの結果をもたらす。評判が評判を呼び、気が付けば紺洋さんの元を訪ねるのはお偉いさんばかりになっていたらしい。
どちらの不動産を買うか。選挙事務所をどちらに設けるか。どちらの会社と取引するか。その他諸々の重大案件。紺洋さんの〝相談〟で政財界が大きく動いたのも、一度や二度ではなかったらしい。
「ま、そういう界隈に口が効くからこそ、託宣を無視したって吹聴されるのをみんな嫌がったんだな」
それに、と蘭さんがかすかに目を細める。
「ジイさんは半ば本気で、神秘の力を持った人間と思われてた。そのジイさんが言う〝神罰〟は、そりゃあ怖がられたろうよ」
くくっ、と笑う蘭さん。私は紺洋さんを思い出した。あの浮世離れした穏やかな佇まいはたしかに、人智を超えた神秘を感じさせないでもない。
「ま、そういうこと。あのジジイ、あたしを二代目だってあちこちで吹聴してたみてぇでさ。勝手な話さ」
蘭さんが苦々しく言い捨てる。私は思わず眉をひそめた。
「じゃあ、跡は継がないんですか」
「あー……」
蘭さんの細い指が、がしがしと頭をかきむしる。きれいな金髪がもつれて絡まる。もったいないな、と思ったとき、蘭さんが小さく舌打ちした。
「だいたい、あたしのガラじゃねえんだよ」
ボヤきと共に、キャミワンピの姿が両手を広げる。肩からずり落としたジャージがてろんと広がった。
「見ろよこのナリを。上流階級の金転がしと政治屋サマの口利きに、助言なんかできると思うか?」
「……思いませんね」
「だろ」
とはいえ、ここで引き下がるわけにもいかない。私は眉を下げ、そうは言っても、と食い下がった。
「髪はともかく、服は着替えたらいいですし、所作や言葉遣いは覚えればいいんです。知性の点では問題ないじゃないですか。だったら」
「あ? てめぇには関係ねえだろ」
ぎろ、と睨まれて肩をすくめる。蘭さんがまた舌打ちした。癖なのだろうか。
「だいたい、こんなの喪中アルバイトの範疇外だろ。テキトーにお茶濁して、とっとと帰っちまえばいいじゃねえか」
「でも、皆さん困ってましたから。私にできることはしないと」
「はッ、初対面の、知りもしない〝みんなのために〟とはな。ずいぶんお行儀の良いこった」
「っ……」
ぴくっ、と握りしめた手が動いた。開きかけた口、喉の奥から、言葉がうまく出てこなくなる。
(みんなのためって、だって、私は――)
押し黙ってしまう。心臓が、かすかに痛みを訴える。
「……あー……」
ものすごいため息交じりの、重たい声がした。そろりと顔を上げる。蘭さんが、ありありと『しまった、なんか地雷踏んだか』という顔で私を見つめていた。
薄い色の瞳が、ちら、と私の手元を見下ろす。そこには握りっぱなしだった、淡紫のお守りがあった。がりがりと、髪をかきむしる仕草。
「……わーかったよ。折衷案を出そうじゃねえか」
え、と視線を持ち上げる。急にすっと静かになった瞳が、まっすぐに私を見た。薄いくちびるが開かれる。
「仕事をひとつ受けてくれ」
ぴっ、と指が立てられる。私は黙って続きを促した。
「あたしはジイさんの遺品から『探し物』をしてる。遺品整理がてら、見つけるのを手伝ってほしい」
「探し物って、なにを」
「ジイさんの日記だ」
即答だった。紺洋さんの日記。
思わず辺りを見回した。大量の本棚と書物にまみれた地下牢。おそらくは上の蔵も、その二階も、同じような作りだろう。下手をすれば母屋もだ。
(一人で探すのは……確かにキツそう)
そういうこった、と蘭さんが頷いた。
「どうしても見つけたい。もし、てめぇが日記を見つけられたら――約束だ、二代目でもなんでもしてやんよ」
「……」
考え込む。ちら、と顔を上げると、窓から差し込む光と、壁に貼られたカレンダーが目に入った。十三日に黒いバツがついている。紺洋さんの亡くなった日。
「――わかりました」
オプション追加ですね、と私は言う。おう、と蘭さんが返す。姿勢を正し、色素の薄い瞳を見つめ返した。頭を下げる。
「ご契約、ありがとうございます」
「おう。じゃ、これからよろしくな、雨宮」
蘭さんは笑ってひらりと手を振ると、無造作に電子タバコを取り出した。やわらかい光の中、ふわ、とメンソールの匂いが漂う。金色の髪がきらきら光る。
私はすん、と小さく息を吸うと、そっと視線を落とした。淡紫のお守りが、春の日差しを受けてやわらかく光っていた。
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