【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第7話
【第七話 メンソールの残滓】
それから、五月はしだいに過ぎていった。知見寺屋敷の捜索は地道に進み、蔵の整理はほとんど終わり、母屋もだいたい探し終わった。それでもなお、紺洋さんの日記は見つからなかった。
進捗のまるで芳しくないまま、もう五月も最終週にさしかかる。途方に暮れた私たちは、とうとう作戦会議をすることになった。
いつもの定位置、あの文机の前に二人で座る。すっかり使い慣れた座布団の上に正座して、私は膝の上に両手をそろえた。蘭さんはといえば、あぐらに腕組みで難しい顔をしている。
蘭さんの視線が動いて、文机に広げている紙を見た。知見寺家の見取り図だ。こうして見ると本当に広い。唯一の救いは、母家も離れも一階のみの平家だったこと、くらいだ。
「探す場所、なくなっちゃいましたね」
「あー……こうして書き出しても、ほとんど残ってねぇな……」
すでに探した部屋には印がつけてある。ほぼ全ての部屋に印がついており、中には二つ以上印がついている部屋さえあった。
蘭さんがくちびるを尖らせて、むむ、と考え込む。
「残ってんのは客間とか厠とかだろ? さすがに、不特定多数が使う場所にはねぇと思ってたんだが……」
んー、と小さな声。そのとき、私はふと気がついた。
(あ。髪、埃ついてる)
きらきらした金髪の端に、小さな埃のかたまり。その上、相変わらず櫛も通していないらしい。長い金色はもつれてからまっていた。
(……もったいないな)
せっかく綺麗なのに。口の中だけでつぶやく。ぶつぶつ考えている蘭さんをよそに、私はそっと身を乗り出した。膝をつき、手を伸ばす。指先で埃をつまみとった瞬間、蘭さんがびくっ、と固まった。
三白眼が、ぎろりとこちらを睨む。私は真顔のまま、今つまみあげたものを掲げてみせた。
「埃です」
「……あっ、そう……」
さっ、とゴミ箱に埃を捨てる。蘭さんがそれに気を取られた隙に、私はふたたび手を伸ばした。もつれた金髪を指で梳いて、乱れた髪を整えてやる。おまけでちょいちょい、と指の背で頬を撫でるように触れると、蘭さんがものすごい顔をした。
はあーっ、とため息をつき、蘭さんが額に手を当てる。
「……もうしねぇんじゃねえのかよ……」
「押し倒すのはしません」
「いや、こういうのもすんなよ……」
沈黙する。なにがいけないのかわからない。
あれ以来、蘭さんが本気で嫌がることはしていない。どんなに軽い接触だろうと、少しでも強めの拒絶があればすぐに身を引くことにしている。この上なく尊重していると言えるはずだ。それなのに、なぜそんな反応をするのかわからない。
真顔で率直にそう告げると、蘭さんは絶句して、さらにすごい顔をした。
「いや。……いや、いや……そうじゃねえだろ」
「説明になってません。聡明な蘭さんらしくないです」
「って言いながら近付くな、身を乗り出すな、髪に触るな、こら待て!」
大人しく身を引いて、ちっ、と舌打ちする。蘭さんがああもう、と悲壮な顔になった。
「舌打ち……あれだけお行儀の良かった雨宮が……あたしの教育ミスか……」
「黙っててください、情緒のない」
「この状況でいるかそんなもん!」
もう一度舌打ちをしようとして、さすがにやめた。蘭さんの真似も良いけれど、あまりこれを乱発するのは美しくない。代わりにため息をひとつついておいた。
「ため息つきてぇのはあたしだっつの……」
あー、とへろへろの声をあげ、蘭さんが髪をかきむしる。せっかく綺麗にしてあげたのに。けれど私がなにか言うより先に、恨めしげな視線がじろりとこちらを睨んできた。
「普通さあ、もうちょっとこう、気まずそうにするとか、距離置くとか、ぎこちなくなるとか、あんだろ。なんで開き直ってんだ……」
「どうしてだと思いますか」
まっすぐに言い放つと、蘭さんはぐっ、と黙り込み、頭を抱えてすごい声でうめいた。てめぇ最近ちょっと怖ぇよ、と何度か聞いた文言が聞こえて、
「なんでこうなっちまった……」
ほとんど独り言、みたいな声がする。ぴくっ、と指先が動いた。
(なんで、って、そんなのは決まってる)
このひとが私を拒むのは自由だ。でも、私の気持ちは誰にも触らせない。否定なんてさせない。どうせ運命なら、私はただ、好きな人を好きでいたい。望むのはそれだけだ。そこに他人の介入する余地はひとつもない。
視界の隅、壁に吊られたカレンダーが目に入った。五月の最終日に、『四十九日法要・納骨式』と書かれている。少しだけ目が細くなった。わずかに息が苦しくなる。
紺洋さんとの契約は納骨式までだ。四十九日はもう近い。蘭さんと契約した日記だって、いつまでも見つからない、なんてことはない。おしまいはいずれ来る。
(だから――せめて、後悔したくない)
たとえ拒まれても、鬱陶しがられても、関係ない。私の気持ちは触らせない。いずれこのバイトも終わる。それまでは、私は自分の『好き』は、それだけは、絶対に偽らないことに決めたのだ。
ようやく頭をかきむしり終わった蘭さんは、チッ、と盛大な舌打ちをした。ばっ、と文机の上から電子タバコをむしり取る。
なめらかな手つきで電源を入れ、煙草をセット。薄いくちびるの間に電子タバコが突っ込まれる。すうっ、と息を吸う音とともに、漂うメンソールの匂い。
その一挙手一投足をじっと見つめていると、私の視線に気付いたらしい。蘭さんがふと目を持ち上げて、ん、と小さな声をあげた。
「あんだよ、じっと見て。吸ってみてぇのか?」
「興味はあります」
本当は、ただその手を見ていたかっただけなのだけれど。とはいえ、事あるごとに蘭さんが咥えているのだ。どんなものなのか、興味くらいは一応湧く。
けれど蘭さんは思い切り顔をしかめて、はっ、と吐き捨てた。
「やめとけこんなもん。まずいぞ」
「まずいなら誰も吸わないでしょう」
ごくまっとうな反論に、しかし蘭さんは強い口調で「まずいんだよ」と断言する。思わず首を傾げた。ふーっ、と天井に向けて煙のない息を吐いて、色の薄い瞳がじろりとこちらを睨んだ。蘭さんがふん、と鼻を鳴らす。
「ガキのうちからまずいって思っとけば、手出しせずに済むからな。てめぇは知らなくていい、こんなの」
「……そうやってまた大人ぶる」
「実際大人なんだよ。……とにかく」
口元から電子タバコを離すと、蘭さんは空気を切り替えるみたいに文机に目をやった。とんとん、と指先が見取り図を叩く。はっきりと、話題がスイッチする気配。
「こんだけ探して見つかんねえ、となるとだ。おそらくジイさんの日記は――」
「しまわれているのではなく、『隠されている』ということですか」
「……たぶん、な」
そこまで言って、蘭さんは見取り図の端から端まで視線を走らせた。私も同じようにする。そして、ほとんど同時に、ふたり重ねてため息をついた。
「あー……クッソめんどくせえ……」
「たしかに……この敷地面積で隠されると、致命的ですね……」
揃ってがくりと項垂れる。それでも、諦めるという選択肢はないらしい。蘭さんは舌打ちして、がしがし頭をかきむしると、きっと顔を上げた。
「雨宮。悪ぃがもう一度、屋敷中洗い直すぞ」
「これも仕事ですから。お付き合いします」
ただ、と私が続けると、蘭さんが無言で続きを促す。私はちらと見取り図を見ると、少しだけ息を詰めた。意を決して、ぴん、と指を立てる。
「ここからは、手分けして探しませんか。私も知見寺屋敷の構造はだいたい覚えましたし、二手に別れた方が効率的です」
私の言葉に、蘭さんが腕組みをして俯いた。色の薄い瞳が、んー、と見取り図をしばらく眺める。少しの間を置いて、蘭さんがぱっと顔を上げた。
「りょーかい。ただし」
「ただし?」
蘭さんが、少しいたずらっぽく笑った。肩をすくめて、笑みの端に八重歯がこぼれる。
「……隠れてイタズラすんなよ?」
言うに事欠いてそれか。私は思い切りため息をついた。眉間に指を当てて、寄ってしまったシワをぐりぐり伸ばす。渋い顔でつぶやいた。
「……したくないですよ、そんなの」
「ならよし。じゃ、今日の作業はじめっか」
ぱん、と蘭さんが両手を打ち鳴らす。そして、私たちは簡単な打ち合わせのあと、めいめい作業に移ったのだった。
※
当然のように収穫はなかった。あれだけ探して見つからなかったうえ、おそらくは紺洋さんが本気で隠したものなのだ。一日ですぐ見つかるはずもなかった。
私たちは最後に進捗を確認し合い、ため息交じりに『やっぱり』という顔を作った。その顔のまま明日の分担を相談して、私は帰り支度をする。
埃の散った喪服にブラシをかけていると、蘭さんが文机の前で難しい顔をしていた。珍しく、ノートパソコンなんて開いている。
知見寺屋敷は、一見時代に取り残されたような旧家だが、実際の中身は案外近代化している。水回りはすべてリフォーム済みだし、この地下牢もしっかり電気が通っている。なんでも、夏や冬はポータブルエアコンまで出すらしい。ネットも当然通っていて、このパソコンに至っては、紺洋さんの遺品だというから驚きだ。
そのノートパソコンをじっと見つめ、蘭さんはおい、と言った。画面を見たままの手招きがひらりと私を呼ぶ。誘われるまま隣に腰を下ろせば、画面にはメーラーが表示されていた。
「町内会のメールマガジンが来てる」
首をかしげる。だからなんだと言うのだろう。別に私はこの町に住んでいるわけではない。特に関係ないはずだが。
しかし蘭さんは、ますます表情を険しくした。
「このへん、ジイさんバアさんが多いから。普段は回覧板なんだよ。メルマガなんか、緊急連絡でもなきゃ使わねえ」
緊急。その言葉に私は、かすかに口を引き結んだ。蘭さんがかち、とマウスを操作してメールを開く。色の薄い瞳が左右に動いて、文面をざっとさらっていった。あー、と低い声。
「……不審者情報だと」
ぴく、と指先が動いた。そっと身を乗り出し、画面を覗き込む。そこには、一週間前から何度も不審者が目撃されている、警戒のすえ必要とあれば警察を呼ぶこと、と書いてあった。
「添付ファイルがある」
蘭さんがさっとそれを開いた。町内地図だ。不審者の出没地点に赤い点が散らばっている。ますます蘭さんが顔をしかめた。
「げ。うちの近くじゃねえか」
「それは……物騒ですね」
淡々と言う私に、蘭さんがあのなあ、と苦い声を出す。
「他人事みたいに言うな。帰り道、暗くなることもあんだぞ」
「そうですけど」
「いいか。よくよく気をつけろよ。防犯ブザー持ってるか? なんだったら今日はあたしが送って――」
「いりません」
ぴしりと言い放つと、蘭さんが目を丸くした。私はかすかに顔を背けると、もう一度いりません、と繰り返す。
「女ひとりから二人になったからって、なんになるんです。蘭さん、私よりよっぽど非力でしょう。足手まといが増えるだけです」
「てめぇなあ……」
なすすべなく押し倒された記憶が蘇ったのか、蘭さんは自分の手首をそっとさすった。そういうことです、と私は言う。
「私なら大丈夫です」
「あたしは大丈夫じゃなかったときのことを」
「最低限の護身術くらい知ってますから」
「あー……」
さらっ、と言ってやると、蘭さんはだからか、と小さく呟いた。たぶんあの足払いのことを言っているのだろう。ご明察だ。
しかし蘭さんはまだ納得がいかないのか、眉を寄せたまま私を覗き込んできた。
「あのな。あんま自分を過信しねぇほうがいいぞ」
「過信なんてしてません」
「してんだよ。大丈夫ってなんだ。いくらてめぇが合気道だの柔術だの知ってても、相手がでけぇ男で、武器持ってたらどうする」
蘭さんの心配はまっとうで、正しくて、とてもやさしい。それがますます私に引っかき傷を残していく。胸の底になにか重いものが溜まっていく気配がして、ますます顔を背けた。
「そのときはすぐ逃げます。こう見えて、足も早いので」
「バカ。相手がもっと早かったら、バイクや車だったら、どうすんだ」
「……っ、本当、ああ言えばこう言いますね」
「当たり前だ。ここでふざけてられるほど、あたしは世間知らずのガキじゃねえんだよ」
なあ、と手首を掴まれた。思わず顔を戻せば、ものすごく真剣な表情と視線がぶつかった。なんのためらいもない、まっすぐで誠実な気遣いを込めた眼差しが、深い情をたたえて私を見つめている。
「大人ぶられんのが気に食わねえのはわかる。けどな、ここは黙って守られとけ。今からタクシー呼ぶ」
「……大丈夫、です」
「意地んなって根拠のねぇ大丈夫を連呼すんな。そういうとこがガキだっつってんだよ。あんたにもしものことがあったら――」
「――大丈夫だ、って言ってるんです!」
ばっ、と掴まれた手首を振り払う。蘭さんが弾かれたようにびくりとして、小さく息を呑んだ。
中途半端に浮いたままの細い手を見つめて、私はぐしゃりと顔をしかめる。胸の底がかきむしられたように苦しくて、それをこらえて息をする。抑えたような声が出た。
「そういうの……やめたほうがいいですよ」
「なんだよ、そういうのって……」
「気を持たせるようなこと言わないでください、ってこと」
「はァ⁉ バカ、今はそういう話じゃ」
「ご心配はありがたく受け取っておきます。この話は以上です」
「雨宮!」
むしゃくしゃした気持ちで、私はさっきから放り出されたままの電子タバコを手に取る。やけくそみたいに口に突っ込もうとした瞬間、ばしっ、と叩くみたいに奪い取られた。
「なにしてんだバカ!」
「蘭さんが私を子供扱いするので」
「そういうのがガキだっつってんだろ! 成長期の体にタバコは毒だ。将来苦労すんのはてめぇなんだぞ」
「……っ」
ぎっ、と蘭さんを睨んだ。それ以上に激しく睨み返される。私はふん、と顔を背けると、灰皿に捨ててある吸い殻を拾った。
電子用の短い吸い殻をつまんで、蘭さんをじっと見つめる。困惑と戸惑いに満ちた目が私を見た。見つめ返す。一瞬も逸らさないまま、私はゆっくりと吸い殻の端をくちびるで挟んだ。
「なに……やってんだよ」
蘭さんの疑問はもっともだ。火のない吸い殻にタバコとしての機能はない。ニコチンもタールも存在しない。
けれど私は蘭さんをじいっと見据えたまま、吸い殻の端を少しだけちろりと舐めた。おそらくは蘭さんが咥えていたほうの端を。
「直接は、駄目みたいなので」
それだけ言うと、わざとらしく音を立て、吸い殻の端にキスをする。ようやく意味がわかったらしい、蘭さんがさっ、と目元を染めた。
「ば、バカかてめぇは!」
思い切り吸い殻をむしり取られる。さっきから『バカ』ばっかりだ。どうやら蘭さんは焦ると語彙力が落ちるらしい。
ちっ、と舌打ちの音。蘭さんが呆れたようなため息をついた。
「色気付いてんじゃねえ。そういう遊びは未来にとっとけ」
「……未来」
また、そういうことを言う。未来だとか、将来だとか、このひとはいつもそればかりだ。私のことを子供だと言って、自分は大人だという顔をして、気遣うふりばかりして、拒絶して。
かすかに歯を食いしばった。視界の端、カレンダーが目に入って、四十九日の文字が飛び込んでくる。思わず下を向くと、パソコンにはまだ、不審者情報のメールが表示してあった。
(私は、ただ――)
ただ好きな人を好きでいたい、それだけなのに。
「……私の未来を振りかざして、好意を跳ねのけて、満足ですか」
じっと下を向いたまま、小さな声が勝手にこぼれ落ちた。ものすごく呆れたような、低いため息が聞こえる。あのなあ、と子供をなだめるような声。
「そういう言い方すんな。だからてめぇはガキなんだよ」
「っ……」
未来、将来、大人と子供。浴びるほど聞かされた、うんざりするような言葉たち。
――だったら。
ゆっくりと顔を上げた。手を伸ばして、蘭さんの手首を掴む。あのときのことを思い出したのか、びくっ、と蘭さんの肩がこわばった。怖がっている。それでも、離せなかった。絞り出すような声が出た。
「たとえば、私には未来なんてないんです、って言ったら。蘭さんは私を受け入れてくれますか」
なんの嘘も飾りもない、ただの本気の言葉だった。それなのに蘭さんはただきょとんと不思議そうな顔をして、
「――は?」
そう言うだけだった。
蘭さんの表情に、怪訝さと戸惑いと、疑問がゆっくりと浮かんでいく。それを言葉にされるより前に、私はため息をつくと掴んでいた手首をぱっと解放した。蘭さんがそこに気を取られている隙に、さっと鞄を掴み取る。
「言ってみただけです。帰ります」
それだけ言うと、立ち上がって踵を返した。手首を見つめていた蘭さんの、焦ったような声が背後から投げかけられる。
「あ、おいタクシー!」
「自分で呼びます。……今日だけですよ」
ため息交じりに言うと、私はタクシー会社のアプリを立ち上げた。配車依頼のボタンを押して、五分以内に来るという通知を確認する。証拠とばかりに無言でスクショを送ると、蘭さんはそれ以上はなにも言わなかった。
タクシーはそれから三分でやってきた。門扉まで送る蘭さんが心配そうに見つめる中、私は開けられたドアから車中に乗り込んで、無言のまま蘭さんと別れた。
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