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【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 最終話

【最終話 神秘と運命】

 
 通されたのは、板張りの、薄暗い部屋だった。障子越しの淡い外光だけでは光源がとても足りなくて、部屋の隅のほうはよく見えない。
 初めて座る紫のどっしりした座布団は、分厚くて座り心地が良く、とても美しい作りをしていた。何人もの人がここに通されたのだろう。多くの人に踏みしめられた床板は黒く艷やかで、しっとりと光を放っている。
 すらっ、と正面の障子が開いた。人影が、その奥に座っている。蘭さんだった。おそらくは託宣用の正装なのだろう。見たことのない格好をしていた。
 きらり、と額の上で冠が光っている。冠の端から淡紫と銀白の房が胸元まで長く垂れかかり、結わえた金髪と入り混じって複雑な色合いを見せていた。
 蘭さんは美しい文様の袴を履いて、深い紫の、唐衣のようなものを着ている。ただその上には袈裟のような衣装がかかっていて、おまけに手に持っているのは易占で使う筮竹だ。どうにも宗教様式が伺い知れない。
 この〝相談〟は紺洋さんが勝手に始めたことだ、という言葉を思い出した。どうやら、特定の宗教に属することなく、本当に個人が好き勝手にやっている儀式らしい。紺洋さんのことだ、道具や衣装、ひとつひとつにきちんと由縁を付けているだろう。でもきっと、どれも箔付けの作り話に違いない。
 蘭さんは座ったまま、額を床につけて深いお辞儀をした。ゆっくりと顔を上げると、しずしず室内に入ってくる。そっと障子を閉めると、こちらに歩み寄った。私の目の前にある低い机案に、筮竹をぱらりと並べる。そして再び立ち上がると、あちこちの蝋燭に火を入れた。ぼうっ、と辺りが明るくなり、神秘的な空間が立ち現れる。
 一通り明かりを付けてまわると、蘭さんはその手に、大きな飾り箱を持って戻ってきた。上質な漆塗りの上に、螺鈿や蒔絵で精緻な意匠が施されている。絵柄は蘭の花だった。
 机案を挟んで向かい合う。蘭さんは丁寧な手付きで箱を開け、中から色々な道具を取り出した。印の刻まれた白い小石や、方角の描かれた円盤。サイコロに似た水晶、結ばれた複数の紙。
 ひとつずつ道具を並べる白い指先が、かすかに震えていた。私はそっと口を開く。
「……こわいですか」
 蘭さんが、ぐっ、とくちびるを引き結んだ。小さなうなずき。それはそうだろう、と思った。
 〝相談役〟は、他人の中に神秘を機能させて、これが運命だと納得させて、追い詰められたぎりぎりの選択を勝手に決めて、その先を歩かせる。
 他人の運命に介入するのは怖いだろう。不幸になるかもしれない、破滅するかもしれない。本当は他に、もっといい方法があったかもしれない。けれどその迷いも後悔も、彼女はいっさい口にできないのだ。それが責任だから。
 覚悟を決めたいと蘭さんは言った。紺洋さんはずっとそれができていたから、とも。
 目の前で、蘭さんの手が小さく震えていた。指の端が引っかかって、ぱら、と筮竹が散らばる。さっとそれを整え直すと、蘭さんは私の正面で姿勢を正した。硬い表情だった。
「あまり気負わないでください」
「……無茶、言うな」
 ほうじ茶か煎茶か選んでんじゃねえんだぞ、と蘭さんが言う。思わず苦笑がにじんだ。
「似たようなものですよ」
「どういうこった」
「ほうじ茶だろうが煎茶だろうが、お茶はお茶です、ってこと」
「……意味わかんねぇよ」
 すぐにわかります。私が言うと、蘭さんは痛みをこらえるように顔をしかめた。ふ、と笑って、私はすっと伏せた紙を差し出す。依頼状です、と言うと、蘭さんはわかった、と静かにそれを引き寄せた。
「じゃあ……始めんぞ」
「はい」
 蘭さんが両手を翻す。ふわり、と紫の袖が空に舞った。白い指先が依頼状をひらりとめくる。薄い色の瞳が伏せられて、文字を読み取るため上下に動く。けれどその目はすぐに、はっ、と見開かれた。ゆるゆると顔が持ち上がる。
「……なんだよ、これ」
「言ったでしょう。どっちだってお茶はお茶だって」
「な――っ」
 はら、と蘭さんの手から紙が落ちる。ひらひらと左右に揺れた白い紙は、机案の上を少し滑って、蝋燭台にぶつかって止まった。そこには、私の二択が書かれていた。

 ――飛び降りるか首を吊るか、どっちがいいと思いますか。

「っ……」
「お願いします」
 真剣な顔で見つめ返す。蘭さんは、絶望的な顔で私を見つめていた。瞳孔がいっぱいに開かれて、あの薄いくちびるが、呆然と開かれている。
「あなたが選んでくれた方法なら、怖くないかもしれないじゃないですか。きっと安らかに逝けると思うんです」
 ねえ蘭さん、と呼びかける。ひくっ、と引き痙ったような呼吸音が聞こえた。まだ愕然としているのだろう、蘭さんは絶句して、中途半端に手を浮かせたままだ。
 ひどいことを言っているな、という自覚はあった。傷付けたいわけじゃない。それでも、もういやだ、という気持ちの方が強かった。
 静かに頭を下げる。お願いしますとつぶやく。
「これで最後にするから……我儘を聞いてください」
「っ――……」
 蘭さんが、ひときわはっきりと息を呑んで、口をつぐんだ。
 長い、長い沈黙だった。私は膝頭の上で握った手を見下ろして、じっと頭を下げたまま、蘭さんを待っていた。
 薄暗い室内の空気は動かない。ぢりっ、と蝋燭の芯が燃える小さな音。障子越し、あまりにも淡すぎる陽光と、炎の明るさが入り混じって、ゆらゆらと机案の上が明滅する。そっと顔を上げれば、並んだ占い道具の黒い影が、不安定に揺れていた。
 何分経っただろう。とてつもなく長い静けさのあと、蘭さんが、ゆっくりと面を上げた。きらっ、と冠が輝いて、色の薄い瞳、その滑らかな表面に、蝋燭の光がいくつも瞬いている。
 とても真摯な眼差しが、まっすぐに私を射抜いていた。すう、と小さく息を吸う音。薄いくちびるが動く。

「――選択肢を間違えるな」

 きっぱりした声だった。私はきゅっと口を引き結んで、蘭さんを見返した。意志の強い視線が私を見つめて、はっきりした声が言う。
「てめぇが選ぶべきは、どうやって死ぬかじゃない。どうやって生きるかだ」
「――やめて」
 蘭さんなら、きっとそう言うだろうと思っていた。それでも、どうしても、うなずくことなんてできなかった。
 ゆるゆると首を振って、お願いです、と懇願する。
「もう、人生と戦うのに疲れたんです。これ以上、みんなのためになんかなれない。責任を放棄させてください。もう――私を楽にして」
「雨宮」
 蘭さんが、まっすぐに私を見つめている。私のいちばん深いところまで、ぜんぶ見逃すまいとするような、ひどく真摯で懸命な、深い情を宿した眼差し。それを見ているのがつらくて、目を背けた。いいの、と小さな声で言う。
「もういいの。どうせこうなる運命だった」
「ッ……」
 蘭さんが、今度こそはっきりと息を呑んだ。ああ傷付けたな、と思って、だったら一発くらい殴ってくれるだろうか、なんて身勝手なことを考えて、そのとき――

 ――ガンッ、とものすごい音がした。

 えっ、と顔を上げる。ばらばらっ、と音を立て、儀式の道具が勢いよく飛び散っていく。すぐ目の前に、白い足袋が見えた。
 蘭さんが――机案の上に踵落としをかけた音だった。
 事態を把握するより前に、ガッ、と胸ぐらを掴み上げられる。すごい力でずるりと引きずりあげられて、ほとんど机案に乗り上げる体勢になって、
「うるッせえよ‼︎ くだらねぇ運命サマに納得してんじゃねえッ‼︎」
 蘭さんが吼えるように怒鳴った。ものすごい剣幕だった。あまりの勢いに言葉が出なくて、私はただ口を半端に開く。
「運命? そんなモン意味付け次第だろうが。運命なんざねじ曲げろ、てめぇが納得したい選択を、自分で決めるんだよ!」
 怒鳴り声が耳をつんざく。目の前で歪んでいる蘭さんの瞳が、興奮のあまり、こらえきれなかった涙で濡れていた。
 でも、とバカみたいに呆然とした声が出る。
「そんな、私なんかが好き勝手ふるまって、それで納得なんて、できるわけ――」
 言いかけた言葉は、あァ⁉ とドスにまみれた声で遮られた。
「てめぇができねえっつうなら、どんな拡大解釈だってあたしがしてやるよ。こちとら理屈こねるのだけは大得意なんだ」
 胸ぐらを掴む蘭さんの手がぶるぶると震えて、ぎりぎりと、襟元が締め上げられる。息が苦しい。
 だけど蘭さんは、私よりずっと苦しそうな顔をしていた。顔を真っ赤にして、あふれそうな涙をこらえて、あらん限りの感情を振り絞るような声で、言えよ、と低い声が私を呼ぶ。指先がぎりっ、と食い込んで、

「――おらッ、どんな運命がお望みだ⁉ 覚悟を決めろ、雨宮藤乃ッ‼」

(っ――……)
 その、全身全霊でぶつかってくるような叫びを聞いた瞬間。
 胸のいちばん深い部分、魂の底が、じいん、と震えたような気がした。

「――蘭さん」
 気が付けば手が伸びていた。目の前の頬を両手で挟んで、興奮で熱くなったそこを引き寄せる。勢いよくくちびるを寄せた瞬間、がつっ、と歯が当たってにぶい音を立てた。じわっ、と血の味がする。
 子供じみた、みっともない、下手くそすぎるキスだった。血なまぐさくて痛くて沁みて、絶対に、死ぬまで忘れられないような。
(……ああ、)
 なんて美しい人だろう、と思った。胸の底が震える。水のように澄んだ透明な感情が、私のずっと奥の場所から、こんこんと湧いてくる。清潔なものが私を満たす。
 そっとくちびるを離すと、口の端から血を流した蘭さんが、呆然と私を見つめていた。微笑みかける。
「相談はもういいです」
 はっきりとそうささやくと、蘭さんの瞳から、ぼろっ、と涙が一粒、こぼれ落ちた。くしゃ、と目の前の表情が歪んで、バカ野郎、と震え声。
「選ぶ覚悟はできたかよ」
 黙って微笑む。そっと手を伸ばして、蘭さんの目元をぬぐった。くすぐったそうに目を細める蘭さん。その笑顔がきらきら光って見えて、きれいだな、と思った。
(……このひとの、こういうところを好きになった)
 強くて綺麗でまっすぐで、子供みたいなくせにやっぱり大人で、いつだってきらきらしていて。このひとは私の中に光を灯す。星みたいに道行きを照らしてくれる。
 蘭さんの笑みに重なって、紺洋さんの笑顔が、あのあたたかい痩せた手の感触が、じんわりと記憶の縁から蘇る。運命ってなんですか、あのときの問いかけが、目の前で金色の光を放って、生きた人間として存在していた。
 もういい、と思った。充足が胸を満たした。言葉が、自然とこみ上げてくる。

 ――運命のその先へ行こう。
 ――もうなにひとつ後悔はない。

 ずっとくすぶっていた疑問の答え。それがはっきりとした輪郭を得て、きらきらと光っている。まばたきのたびにきらめく紫と金色。
 目の前の人の存在まるごと吸い込むように息を吸って、私は蘭さんをそっと抱きしめた。ゆっくりと背に回った蘭さんの手が、ぎゅっ、と私を抱き返す。鼻先に、ふわりとメンソールと書物のにおい。私のいちばん好きな匂いだった。
 この匂いを忘れないでいようと強く思って、ぎゅうと強く蘭さんを抱きしめて。私は静かに目を閉じた。澄み切った多幸感が胸を満たした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 さらさらと風が吹いている。気持ちよかった。空は快晴。薄青い透明の中を、地平線のそば、淡い雲が細くたなびいている。
 誰もいないビルの屋上で、私はそっと靴を脱いだ。左右をきちんと揃えて、その中に白い封筒を差し入れる。風で飛んでしまわないよう、重石代わりにスマホを入れる。
 頬に当たる風が心地いい。指先に挟んだものをくちびるに押し当てて、すうっ、と息を吸う。じん、としびれるような感覚が胸に広がった。
 電子ではないメンソール。生まれて初めての煙草を一本だけ吸う。蘭さんはまずいと言ったけれど、なかなかどうして悪くない。口元に笑みが浮かんだ。
 ふーっ、と煙を吐き出す。細い煙は澄んだ風に吹かれて、すぐにふわりと散っていった。目を閉じる。前髪がさらさら揺れて、額に涼しい風が当たった。ものすごく気持ちがいい。
(ああ、終わらせるには最高の日だ)
 蘭さんのことが思い出された。あの人はきっと怒るだろう。子供みたいに泣いたりするかもしれない。それでも。
 すっと目を開く。透明な空が飛び込んでくる。太陽の光がまつげに乱反射して、きらきらっ、と光を放つ。まるで蘭さんの髪みたいに。静かな笑みが浮かんだ。
(――蘭さん)

 覚悟なら決まった。
 いま私の中で、神秘が機能している。
 あのひとが私の運命だ。

「ありがとう、蘭さん。……さよなら」

 指先から、メンソールの煙草を投げ捨てる。火の付いた先端が地面に落ちるより先に、屋上に、ひときわ強い風が吹き抜けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 ―――――― ※ ――――――
 
 
 四年後。東京の片隅、とある弁当屋。
 昼時のピークを過ぎた店内に、自動ドアの開く音と共に、荒々しい足音が響き渡った。
 乱暴極まりない闖入者はぜえぜえと肩を上下させると、だんっ、とカウンターの上を殴り付ける。今すぐに数人くらいは殺せそうな鋭い眼光が、ぎろり、とこちらを睨み付けてきた。
「……っ」
 ぽかん、と口が開く。目の前で瀕死の呼吸を繰り返している女性の姿は、四年前とほとんど変わらなかった。強いて言えば服装が、ちょっとだけ露出が減ったくらいだろうか。ただ私の背が伸びたぶん、目線の高さだけは、昔よりずいぶん近くなっていた。
「……ッ……なん、とか、言え……っ」
 ぜは、ぜは、と息も絶え絶えの声がする。私は呆然としたまま、いやその、とバカみたいな声が出るのを止められなかった。
「どうやってここ、突き止めたんですか……」
 絶対に無理だろうと思っていたのに。心底驚いている私をよそに、闖入者――蘭さんは、べしょっ、とカウンターに崩れ落ちた。スカジャンの背中がせわしなく上下する。突っ伏した金色のつむじから、へろへろの声がした。
「知見寺家の、叡智を、舐めんな……ッ」
「え」
 知見寺の叡智って、なにをしたのかこの人は。というか、それでなんとかなったのか。思わず、いや、と声がこぼれ落ちた。
「そんな無茶な……」
 呆然と言うと、がば、と蘭さんが顔を持ち上げる。全力疾走してきたのだろう、頬は真っ赤で額は汗ばみ、苦しそうな口元が歪んでいた。
「はッ、こちとらてめぇのせいで悪事のフルマラソンだわ」
 何人脅したと思ってる。とんでもなく物騒な言葉が聞こえて、私はぎょっと目を剥いた。だからなにをしたのかこの人は。
 私の唖然など気にも留めず、蘭さんははあっ、と大きく息を吐いた。ふーっ、とてのひらで額を拭うと、きっと顔を上げる。
「とりあえず唐揚げ&野菜おかず弁当と、ほうじ茶よこせ」
 腹減った、干からびて死にそう、と言われ、私はとりあえず頷く。から野菜イチお願いします、と背後のキッチンに声をかけると、冷蔵ケースからほうじ茶のペットボトルを取り出した。
 蘭さんは財布から黒いクレジットカードをトレイに投げ出すと、勝手にペットボトルを開けている。白い喉がさらされて、ごくごくと勢いの良い音がした。
「あの。揚げ物、もうちょっとかかるんで……」
「おう」
 ふは、と飲み終えた蘭さんがきゅっと蓋を閉じる。長い金髪を跳ね上げて、ぎろりと鋭い眼光が私を射抜いた。
 どかっ、とカウンターに肘をつくと、蘭さんが低く言う。
「はッ。やってくれたなァ雨宮藤乃……」
「物言いがお礼参りのそれなんですよ」
「うっせえ。勝手に消えやがって」
 黙って肩をすくめる。蘭さんが、チッ、と激しく舌打ちした。懐かしい仕草だった。しかめられた凶悪な目付きが、ぶつぶつと言う。
「四年前。雨宮の自社ビルの屋上から靴と遺書が発見されて、飛び降りこそしていないものの、雨宮藤乃はどっかで自殺を図った、ってことになった。おそらくは海や山に行ったと思われたが、いつまで経っても遺体は見つからないまま。どう考えても生存は絶望的だろう、って」
 なあ、ずいぶん面白ぇシナリオじゃねえか、と。まったく面白いと思っていない狂暴な顔が言う。私は小さく両手を上げると、降参です、とつぶやいた。蘭さんがため息をつく。
「てめぇ、どうやって消えた」
「どうやって、って……うちに出入りする人の中で、ちょっと私に同情的だった人がいたんですよね」
「そいつなら真っ先に洗われて、監視も付いてたはずだ」
「ああ。その人には、最初にツテを紹介してもらっただけなので」
 人脈は自分で築くに限る。最初の紹介だけは雨宮に関わる人間に頼んだが、そこからどんどん人をたどって、最終的な協力者を作るのは自力でやった。そして彼らの尽力のおかげで、私は見事〝消えて〟みせたわけだ。
 淡々と説明すると、蘭さんははーっ、と額を押さえた。
「さすが元・雨宮家の跡取り……人を使う能力はあるってわけか」
「お褒めに預かり光栄ですね」
「やり口がちっともかわいくねえ……」
「かわいくなくて結構です」
 さっとクレジットカードを通して会計を済ませる。蘭さんは、じっとりした目で「今どうしてんの」と尋ねた。
「いわゆるボロアパート住まいです。ここで働きながら、独学で勉強してます。さすがに高卒資格もない行方不明の死人が、大学進学は無理ですからね」
 言うと、蘭さんが小さく目を見開いた。
「……勉強、してんのか」
「知識は武器だって言ったのは蘭さんでしょう」
 学歴ってバフはつけられませんでしたけど、と続ける。蘭さんはきゅっとくちびるを引き結ぶと、とんっ、とカウンターにペットボトルを置いた。金髪がさらりと揺れて、蘭さんが身を乗り出してくる。ふわ、とメンソールと書物のにおいがした。懐かしいにおいだった。
「……ここに来る前に、雨宮の家には言ってある」
「え」
 家の名前を出されて、少しだけ嫌な予感がした。けれど蘭さんは、ちげぇよ、とあっさり首を振る。
「家の連中、約束してくれたよ。結婚なんかしなくていいし、大学だって好きなとこ行ける。あんたが望むなら、ずっとこの街で暮らしてもいい、って」
「え、いや……そんな訳ないでしょう」
 そんな要望がスッと通るなら、私だってみすみす消えていない。けれど蘭さんはそうなんだよ、と強い口調で言い切った。
「悪事のフルマラソンっつったろ。全部あたしがなんとかした」
「なにそれ……どんなヒーローですか」
 いや、脅しまで使ったのだ。やり口としてはむしろヴィランのそれだろう。呆れることもできず、ただただぽかんとしている私に、蘭さんがチッ、と舌を鳴らした。
「ったく、ぐだぐだうるっせえんだよ」
 そう言うや否や、カウンター越しに手が伸びてくる。熱いてのひらが、ぐっ、と私の手首を掴んだ。その手がかすかに、震えていた。まるで絶対に逃がさない、と言われているようで――胸の底がじいん、と震えるような感覚があった。
 蘭さんが、恐れをこらえるような顔で私を見る。期待と怯え、恐怖と願望が複雑に入り混じった表情から、はっきりした声がした。
「もう一度聞く。……選ぶ覚悟は決まったか」
 強い口調、でも、語尾が少しだけ震えていた。そのためらいがこのひとの情の深さを思わせて、じわじわと感情がにじんでくる。握られた手首が熱い。四年ぶりに感じた、懐かしいてのひらの感触。小さく苦笑がこぼれた。
「……運命が迎えに来ちゃいましたからね」
 お手上げです、とささやくと、ぎちぎちだった蘭さんの手から、すっと力が抜けた。こわばっていた表情が、少しだけゆるんで、なんとも言えない情をたたえた瞳が私を見る。
 ああいいなあ、好きだなあ、と思った。安っぽい蛍光灯にきらきらした金髪が輝いて、色の薄い瞳が、まだ少し不安そうに私を見つめている。もう二度と見られないと思っていたきらめきを目の前にして、言葉にできない清潔な感情が、胸の底でゆらゆらとゆらめいた。
「蘭さん」
 そっと呼びかける。蘭さんが、じっと私を見つめた。まっすぐに見つめ返す。なんの邪気もない澄んだものが静かにこみ上げてきて、肩の力が勝手に抜けて――私は、とても無垢な気持ちで、蘭さんに笑いかけた。

「来てくれてありがとう。……うれしい」

 なんの飾り気もない、ただの、素直な台詞だった。気なんて一つも利いていないし、美しい言葉でもなんでもない。それなのに蘭さんはぐっ、と言葉を詰まらせて、
「……っ」
 口元を歪めて下を向いた。なんだ、と思うより先に、ぱたぱたっ、と小さな音がする。見ればカウンターの上に数滴、透明なしずくが散っていた。
(……蘭さん)
 じわじわと、愛おしい、という気持ちがせり上がってくる。手首を握る蘭さんの手、そこに自分のそれをかぶせて、そっと握った。蘭さんが不器用に手首をひねって、ぎゅうと握り返す。汗でしめった、熱っぽい手だった。しびれるような多幸感。
「蘭さん」
「……あんだよ」
 ぐずっ、と鼻をすすって、蘭さんがそっぽを向く。私は小さく笑うと、反対の手で彼女の頬に触れ、きれいな涙を拭った。
「唐揚げ、もうすぐ揚がります」
「……情緒がねえ」
「黙って続き聞いてください。私のシフト、これで上がりなんですよ。だから――」
 うちに帰って、一緒にお弁当食べましょう。そう言って笑いかけると、蘭さんがぱちぱち、とまばたきをして。笑ってるんだか泣いてるんだかわからない顔を、くしゃりと歪めた。ずび、と鼻をすする音がする。震えた、小さな声。
「ビール飲みてぇ……」
「そんな贅沢品はありません。でも、そうですね。いちばん安い発泡酒と、コンビニの乾き物と……それから窓越しに、東京の星見酒くらいなら用意できますよ」
「っ……そりゃ、最高だな」
 蘭さんが目元を拭って、にっ、と笑った。口の端から白い八重歯がこぼれて、笑顔がきらきら、光って見える。ああ、きれいだなと思った。これ以上なく満たされた気持ちになった。

 長い間ずっと、運命は諦念の言い換えだと思っていた。でもそうじゃなかった。
 蘭さんが教えてくれた。運命とは納得のことだ。なんでもない出来事に、私たちは勝手に意味を見出す。それに心が納得したとき、運命は生まれるのだと。
 でも――きっとそれだけじゃない。紺洋さんは私になにも答えてはくれなかったけれど、彼の回答はきっとこうだ。
 運命とは覚悟のことだ、と。
 自らの手で選択を捨てるとき、そこには葛藤が生まれる。選ばれなかったものはその場で消えて、二度と戻ってはこない。
 でも、それを恐れてなにひとつ選ばないままでいたら、可能性はやってこない。未来はひらかれることなく、運命が生まれることもない。
 だからきっと、覚悟が必要なのだ。
 どうしようもない未来の出来事に対して、どうやって身を置けばいいのかわからないとき。覚悟をもってなにか一つでも選ぶことができれば、これが運命だと思うことができる。神秘がそこに機能する。
 少なくとも、私はそうだった。目の前のこの人が私の運命だと心から信じたとき、目の前がひらけて、見えなかった選択が現れた。それを掴む覚悟が決まった。
 そうして今、私の前には蘭さんがいる。私の生存を信じて、四年もかけて探し続けて、こうして会いに来てくれた。もう大丈夫だと、全部なんとかしたからと、ここまで伝えに来てくれた。なんて嬉しいことだろうと思う。

 私はもう一度手を伸ばすと、前より高さの近付いた頬に、ちょいちょい、と指の背を触れさせた。蘭さんが、ぴくっ、と肩を跳ねさせる。おずおずと視線がこちらを向くのを確認すると、にこりと笑いかけた。
「ねえ蘭さん。私もう、子供じゃないですよ。お酒も飲めるし、背だってこんなに伸びました」
「……そうだな」
「お返事を、聞かせてもらってもいいと思うんですけど」
 にこにこと問えば、蘭さんがふいと顔を背ける。そのまま下を向いて、口元から、ごにょごにょと小さな声。耳を寄せなくてもかろうじて聞こえたその言葉に、私は喜びをこらえきれずにくすくす笑った。
「……はい。私も、蘭さんが運命だと思ってますよ」
「でけぇ声で言うな、バカ」
「ふふ」
 肩を揺らす私の視界の端で、きらっ、と何かが光る。投げ出された蘭さんの財布、そのジッパーに、淡紫のお守りが結わえ付けてあった。紺洋さんの笑顔が蘇る。いい出会いになる、という言葉。本当にそうだった。
 出来上がった弁当を手渡す。できたての唐揚げは温かい。
「はい、唐揚げ&野菜おかず弁当どうぞ」
「おう」
「着替え、すぐに終わるんで。そこで待っててください」
「おう」
「帰ったら、ふたりで星見酒しましょうね」
「……おう」
 少し目元を染めて、ぶっきらぼうに答える蘭さん。私はくすりと笑って、好きだなあ、と感情を噛み締めて。ひらひらと手を振ると、スタッフルームの扉を開けた。
 早く着替えて、うちに帰ろう。唐揚げ弁当をつついて、星を見ながら発泡酒を開けよう。それからメンソールの味を教えてもらって、ピーマンは、蘭さんに食べてもらうんだ。
 喜びと期待で胸がとくとく高鳴った。高揚と充足がこみ上げて、とんでもない多幸感が私を満たす。今ならばどんなことでもできると思った。だって私の中には美しい神秘が機能していて、最高の運命が、こうして迎えに来てくれたのだから。
 慌ただしく着替えを終えて、鞄を取って、勢いよく扉を開ける。たぶん人生で一番きらきらした笑みを浮かべて、私は彼女の名を呼んだ。金色の髪が翻って、人影が振り返る。

 
「――一緒に帰ろう、蘭さん!」



知見寺家の蔵には運命が眠っている ── 完 ──


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