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【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第10話

【第十話 喪中少女の事情】

 
 ふっ、と意識が浮上する。ゆっくりと目を開けると、床に投げ出された自分の手が見えた。ゆるゆると握ったり開いたりを繰り返す。動く。無事だ。
 横たわったまま眼球だけを動かして、あたりを見回した。見慣れた文机の脚が見える。いつもの地下牢。どうやら今は朝のようだ。白く澄んだ日の光が、静かな空間に満ちている。
 手で触れると、こめかみにガーゼが貼ってあった。じん、とにぶい痛みが走る。そういえば床に寝ているのに痛くないな、と思ったら、身体の下には座布団のようなものが何枚も敷かれていた。くたくたの毛布の感触が気持ちいい。
 何度かまばたきをして、ようやく視界のピントが合ってきた。文机の前、いつもの定位置に、蘭さんがあぐらで座っている。もう喪服ではなくて、いつもの紫のキャミワンピだった。
 ぼうっと視線を持ち上げる。文机の上にはノートパソコンが開いてあって、蘭さんの手元には紐が解かれ、中身の抜かれたお守りがあった。パソコンに、見覚えのあるSDカードが刺さっている。
(ああ……)
 ぼんやりと見つめていると、横顔の眼差しが、ふっとこちらを向いた。目が合う。
 蘭さんはどこか困ったような顔で笑うと、
「よぉ、お嬢サマ」
 軽い口調で呼びかけた。思わず眉根が寄った。
「……おはようございます」
 もそもそと起き上がる。はらりと毛布が膝に落ちた。枕代わりの折った座布団のとなりに、表面の少し乾いたいびつなおにぎりと、ぬるくなったほうじ茶が用意されていた。ますます表情が苦くなった。
「朝メシ。食えよ」
「……いただきます」
 手を合わせ、もそもそとおにぎりを口に運ぶ。でこぼこの不格好なおにぎりは塩が過剰に効きすぎて、具がひとつも入っていなかった。たぶん蘭さんのお手製だ、と思って、胸の奥がじんと苦しくなる。
 蘭さんはちらりと私を一瞥すると、パソコンに向き直った。かち、かち、とマウスを操作する音がする。なめらかな眼球の表面に、ずらりと並ぶ文字列を映し込んで、蘭さんが淡々とつぶやいた。
「年のわりに機械に強いジイさんだな、とは思ってたけど。こーいうのは予想してなかったわ」
「……そうですね」
 そっと目を逸らす。なにを言えばいいのかわからなかった。

 昨日、蘭さんにクビを宣告された後。私はお守りを川に落としてしまって、焦りながら中を開いた。開けて死ぬほど驚いた。
 そこには、古い護符と一緒に、びっちりと防水されたSDカードが一枚入っていた。それこそが、紺洋さんの日記だった。書物でも巻物でもなく、それはデータの形で遺されていたのだ。

「中……見たんですか」
「夜のうちにな」
 蘭さんはさらりと言う。私は下を向いて、ぐっとくちびるを噛み締めた。
 紺洋さんの〝日記〟。私も、それに気付いた夜に中身を確認した。
 日記とは名ばかりで、それは知見寺紺洋氏の、過去の〝相談〟の記録だった。いつ、誰が、どんな相談をしたか。どんな託宣を下したか。託宣に従った結果、彼らはどうなったか。アフターケアになにをしたか。その全てが、丁寧なやさしい文体で、克明に記録されていた。
 かち、と最後に一度マウスを鳴らすと、蘭さんはどかっと両手を後ろについた。横顔が、ふーっ、と長いため息をつく。
「最初に、探してんのが日記だ、っつったのは嘘だ」
「……はい」
 ま、似たようなもんだけどな。そうつぶやくと、蘭さんは静かに続けた。
「ここに書かれてるのは全部、相談記録――政財界の重鎮どもの、誰にも言えない究極の二択たちだ。その価値くらい、てめぇならわかるよな」
 黙ってうなずく。蘭さんはそういうこった、と小さく言った。
「一人で探すのに限界感じてたのは本当だ。ただいくら手伝わせるっつったって、相談記録を探してることが漏れたら、ガキのてめぇが巻き込まれるかもしんねぇだろ。だから日記ってことにしといたんだよ」
 そこまで言うと、蘭さんはちらりと私を見て、目を細めて。
「……まあ、てめぇが〝狙う側〟だとは思わなかったがな」
 とても静かに、でもどこか皮肉げに笑った。
「っ……」
 返事が、できなかった。黙りこくってしまった私に、蘭さんは静かな顔のまま電子タバコを取る。ふわ、とメンソールの香りが漂って、書物のにおいと混じり合った。私の、いちばん好きな匂いだった。
「……私は」
 ぽつり、と声が漏れた。蘭さんは促すことも止めることもせず、じっと私の言葉を聞いている。
「ここに出入りしてると知った家の人から、頼まれたんです。〝面倒なお使い〟を」
「……相談記録を掠め取れ、って?」
 うなずく。蘭さんは軽く髪をかきむしると、あー、と小さくうめいた。
「雨宮家っつったら、聞いたことはある。さほど珍しくない名前だから、てめぇん家だとは思わなかったが」
「ええ。旧家でこそないですけど、そこそこ頑張ってるおうちだと思いますよ」
「よく言う。総資産と総従業員数いくつだよ」
「具体的な数値をお求めですか」
「げ。即答できんのかよ……」
 できる。総資産も総従業員数も、子会社孫会社ひとつひとつの名称も、なんだったら十五年分の純利益の推移まで、ぜんぶ言える。
(そんなもの、なんの意味もないけれど)
 小さくため息をこぼすと、私はそういうことです、と言った。
「家の人に頼まれて、日記捜索の傍ら、ずっと記録を探してました。途中から手分けしたいって言ったのも、隠れて天井裏を漁ったのも、ぜんぶ記録を見つけて回収するためです」
 そこまで言って、自嘲じみた笑みが小さく浮かぶ。
「でも、私があまりにものんびりしてるから、家の人も痺れを切らしたんでしょうね。私とは別口で、侵入する方法を探してたみたいです」
「……あの不審者か。警察突き出しといたぞ」
 かすかに顔をしかめた。少し哀れな気がする。けれど蘭さんは、私のこめかみを見て「下手な同情かましたらキレんぞ」と低く言った。しょうがなくうなずく。
「……で。てめぇは、こいつに気付いてたのか?」
 とんとん、と指先が守り袋を叩く。私はこくりとうなずいて、気付いたのはクビになった日です、とつぶやいた。
 蘭さんが、物言いたげに私を見つめている。無言の問いかけを感じて、私はゆるゆると首を左右に振った。
「家の人には渡してません。記録は、物理じゃなくてデータだった。黙ってコピーして、何気ない顔で返せば、それで終わりです。でも……できなかった。だって」
 ――私は、蘭さんが好きだから。
 震える声でささやくと、蘭さんがかすかに目元を歪めた。ゆっくりと細い手が伸びてきて、私の頭に触れようとして、でも、すぐに引っ込められる。ずきりと胸が痛んだ。
 蘭さんは自分の手を見下ろすと、そっと目を伏せて深い息を吐いた。呼吸の最後が、かすかに震えていた。
「……見たよ。あんたの家の記録」
「っ」
 ぴくっ、と肩が跳ねる。蘭さんはじっと耐えるような顔をして、うちの客だったんだな、とつぶやいた。
「相談内容は――」
「〝二つの古い財閥の、どちらと優先的に親交を深めるか〟ですね」
「……ああ。でも、その〝親交〟ってのは」
 うなずいた。口の端を持ち上げて、笑みの形を作る。私は蘭さんを見つめ返すと、そうです、と笑った。
「……私を嫁に差し出す、ってことです」
 くすりと笑ってみせれば、蘭さんの表情がひどく歪む。私は肩をすくめると、ふ、と小さく息を吐いた。
「これでも私、三代目の跡取りとして、すごく厳しく躾けられたんですよ」
「それは……見てりゃわかるよ」
 苦々しい声に、ますます笑みが深くなった。頑張ったんですけどね、と言いかけて、でも、やめた。虚しくなるからだ。
 幼い頃、父と祖父に連れられて、巨大なビルに行ったことがある。それは自社ビルのひとつで、高くそびえた建物の前で振り返ると、父は私にこう言った。
 この中の人間とその家族の生活と人生、すべてがおまえの肩にかかっている。ここだけじゃない、同じような建物も工場も、他にもたくさんあるのだ、と。そしてこう言ったのだ。

『みんなのために、おまえは立派であらねばならない』

 私はそれに納得した。今は女だから跡を継げないなんて時代じゃない。雨宮は新しい家だから、こういうところで革新性を見せなきゃいけない。私の肩にはたくさんの人の人生が乗っている。立派でなければならない。
 そう信じて、子供じみた十数年の人生の中で、できることはすべてやってきた。だけど。
「……でもそれ、表向きの理由だったんですよね」
 ことさらに軽い口調で言うと、蘭さんはぐっ、とくちびるを引き結んだ。私は小さく肩を揺らす。ふふ、と乾いた笑みが漏れた。
「私は雨宮家にとって、生まれたときから跡取りとして育ててきた、大事な大事な長子です」
「なのに……嫁に出すのか」
「〝だから〟嫁に出すんですよ」
「っ……」
 跡取りとして育ててきた、大切な長子を嫁がせる。ただの娘じゃなく、ただの長子でもなく、他でもない跡取り本人を差し出すこと。その強烈な価値を、父と祖父は正しく知っていた。
「私は――そもそも、跡取りでもなんでもなかったんです」
 でも、そんなことは誰にも知られちゃいけない。私の価値が落ちるから。だから私自身も知らなかったのだ。私がもらった言葉はぜんぶ嘘で、受けた教育はただの箔付けで、花嫁を飾るためのアクセサリにすぎなかった、なんて。
(――ひとつも、知らなかった)
「妙に弟を作りたがるなあ、とは思ってたんですよ」
「……あの、やたら年の離れた弟か」
 そうです、とうなずく。間違いなくあの子が、私の代わりの――いや、本当の、あるべき跡取りなのだろう。今思えばいくらでも心当たりはある。むしろ、十四になるまで気付かなかったのがバカらしいほどだ。
 引きつった笑みを浮かべたまま、私は下を向いて、ぽつぽつと話した。
「小さい頃から、子供らしい我儘をずっと我慢して、立派であるため努力してきました。私が頑張れば、みんなのためになるって信じてたから」
 でも、ある日突然言われたのだ。不景気に不運が重なって、もうどうにもならない。予定よりだいぶ早いが、家を捨てて嫁に行け、と。
 予定ってなんだと思った。意味がわからなかった。ひたすら混乱した。私は家を、あの日父と祖父に連れられて見た光景を、この肩に受け継ぐつもりだったのに。
 実際のところ、なにもかもは茶番だった。最初から全ては用意されていて、私だけがそれを知らなかった。なにもかも決まっている運命だった。
「家の人たちはいつもみたいに、ううん、いつも以上に必死に〝みんなのため〟って言って。でも……いつもみたいに上手に頷くことができなかった」
 ――今どき、女性は跡継ぎになれない、なんてありえない。
 心からそう信じていたのに。結局私は、『今どき、家の都合で嫁に出されるだけの女の子』でしかなかったのだ。みじめで、バカみたいだった。
 ぎゅっ、と膝の上で手を握る。そのとき、震える声がした。
「っ……いい加減にしろよ」
 蘭さんの、ものすごく低い、押し殺した声だった。えっ、と顔を上げる。蘭さんはすごく怖い顔をして、どこか中空の一点をぎろりと睨んでいた。その瞳が、きっ、と私を射抜く。反射的にびくりと肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさ――」
「てめぇじゃねえよクソバカ雨宮」
「えっ」
 いや、だったら今の罵倒はなんだったんだ。ぽかんとする私に、蘭さんはどうしても憤りを抑えきれない、みたいな声で吐き捨てた。
「みんなのためだァ? ンなもん犬にでも食わせとけ」
「いやでも」
「はッ。なにが愛情だ、なにが恩義だ積もる不孝だ、ふッざけんな!」
 だんっ、と白い手が文机を叩く。びくん、と身体が痙攣する。私の困惑など気にもせず、色の薄い瞳がまっすぐに私を見つめた。必死な目だった。
「あのな雨宮。あんたの家の連中は、そろって大人失格だ」
「っ……」
 蘭さんなら、絶対そう言うだろう。予想通りの言葉を口にして、身を乗り出した彼女の手が、私の両肩をしっかり掴む。
「だってそうだろ。十数年しか生きてない子供に、大の大人が群がって、一体なにをさせてんだ……!」
 ぎり、と指先が肩に食い込んで、かすかな痛みを訴える。それが蘭さんの情の深さを思わせて、私は小さく笑みを浮かべた。
「……紺洋さんが生きてたら、きっと同じことを言ったんでしょうね」
 蘭さんが、ぐっ、と言葉を飲み込む。その瞳がかすかに揺らいで、そっと逸らされた。すまねえ、と消え入りそうな声がする。
「どうして、蘭さんが謝るんですか」
「だってあんたが嫁に出される家を決めたのは、ジイさんの――」
「私からすれば、どっちの家に出されたって同じですよ」
 ため息交じりに言うと、蘭さんがますますくちびるを噛んだ。私は肩に置かれた手に、そっと自分のそれを重ねる。かすかに笑って、言った。
「紺洋さんも知らなかったんですよね。あの二者択一の、本当に意味するものを」
 でもあとでそれを知り、これ以上ないほど後悔した、と記録には書いてあった。アフターケアとしてできる全てをしたけれど、雨宮藤乃が嫁がされることは止められなかった、と。
「ほんと……紺洋さんらしいな」
 あの人は特別な人だった。知的で、思慮深く、穏やかで、誰に対しても分け隔てなくやさしくて。気が付けば、人の心の内側に静かに立っている。そんな人だった。
「緩和ケア病棟で、紺洋さんが特別私に優しかったのも、……そういう理由だったのかもしれませんね」
 蘭さんが目を伏せる。私も同じようにする。きっと私たちのまぶたの裏には、同じ人の姿が浮かんでいた。
 蘭さんの手を、そっと肩から引き離す。身を離して姿勢を正すと、私はにこりと微笑んだ。
「私、十月になったら結婚するんです」
 あと半年もありません、と続けると、蘭さんはどこか痛いみたいな顔をした。視線があたりをさまよって、おそらくこの人は今、私のためにできることを全力で思考しているのだろう。それがはっきりわかるから、止めた。
「いいんですよ、蘭さん。どうせ最初から、十六になったら死ぬ気だったから」
「ッ、な――」
 思い切り目を見開いて、蘭さんが絶句した。最初で最後の親不孝です、と私は微笑む。
「この依頼が終わるまでは、って思ってましたけど。四十九日も終わったし……見つかっちゃいましたね。紺洋さんの〝日記〟」
 あ、それ以前にクビでしたっけ、と軽く冗談を飛ばすと、蘭さんはひどく沈痛な面持ちで私を見つめた。その真摯な眼差しはやっぱり、紺洋さんのそれとどことなく似ている。なんだか懐かしくなって、私はかすかに目を細めた。

 紺洋さんと親しくなったきっかけは、私が話しかけたからだった。本当は紺洋さんの方は私を知っていたようだけど、私からすれば、あの会話がすべての始まりだ。
 誰もいない、とても静かな病院の中庭で。あの日私は、樹の下のベンチに座る紺洋さんを呼びに行った。そろそろ風が冷えますよ、お部屋に戻りましょう。そう言おうと思ったのに、そのときの私は色々思いつめていて、うまい言葉が出なかった。
 紺洋さんは私の表情を見て、なにかを悟ったのだろう。座るかい、とやさしく呼びかけた。うなずいて隣に座った。
「どうしたのかな」
「……聞いたんですけど」
 下を向いたまま、私はぽつりと言う。紺洋さんは黙って私を促した。ぼそぼそと言う。
「紺洋さんって、相談に乗るお仕事をしてたんですよね」
「……そうだね」
 そのときの私は、〝相談役〟という仕事の内容なんてひとつも知らなかった。ただのカウンセラーみたいなものだと思っていた。
 今思えば、どこでもいいからすがる先が、思いの丈を吐き出す先がほしかったのだと思う。普段の私なら絶対に言わないような言葉が、ぼろっ、と口からこぼれ落ちていた。
「――もうすぐ死ぬって、どんな風ですか」
 紺洋さんが、かすかに息を呑む音がした。当たり前だ。
 ここのボランティアとして、絶対に言ってはならないことだった。今すぐ頬を叩かれて、二度とここに来られなくなっても、仕方ないような言葉だった。でも、止まらなかった。
「死ぬってどういう感じですか。それが運命なら受け入れられますか。どうしようもない未来の出来事に対して、私たちはどうやって身を置けばいいんですか」
 詰まったような早口で一気に吐き出して、肩を縮こまらせたまま、ぎゅっと手を握りしめる。理由なんてわからないのに、指先の震えが止まらなかった。
 紺洋さんは怒らなかった。ただ静かに、なにがあったんだい、とやわらかい声で尋ねてきた。じいん、と胸の底の方が震えて、私は下を向くと、静かに話をした。
 跡取りのこと、結婚のこと、十六になったら死ぬつもりだということ、すべて話した。紺洋さんはわたしが何を言っても「そうかい」とだけ言って、静かに話を聞いてくれた。いくら話しても、遮ったり、もうやめようと言ったり、しなかった。私の決意を止めることも、責めることも、しなかった。
 だからずいぶん長く話した。ひとしきり話し終えて、紺洋さんは私に、運命ってなんだと思う、と逆に尋ねてきた。諦念のことだと即答しても、彼はそうかなと笑うばかりで、彼の答えを教えてはくれなかった。
 その流れで、アルバイトをしてはどうかと勧められる。運命とはなにか、その先がどうなっているのか、私自身で感じてみてはどうか、と。
 迷いためらう私に、紺洋さんはただのアルバイト、お小遣い稼ぎさ、と言った。私は戸惑う。
「お金? どうせ死ぬのにですか」
「どうせ死ぬから、さ。先立つ不孝だ。家の人のために、葬儀代くらい用意してあげようよ。ここのみんなを喜ばせて、親不孝の尻ぬぐいもできる。万々歳じゃないかな?」
「……みんなを……」
 長く考え込んだあと、わかりました、と小さくつぶやいた。
 それが――みんなのためになるのなら。そういう理由で、私は紺洋さんの手引きのもと、喪中アルバイトを始めたのだ。

 今ならわかる。私が〝みんなのため〟と言われると断れないと知っていて、紺洋さんはああいう物言いをした。そうすることで、私にこのバイトをさせたかったのだ。
「……ジイさんが死んだとき」
「え」
 唐突に、ぽつり、と蘭さんがつぶやいた。顔を上げる。静かな横顔が、なにかを堪えるような色をたたえて、文机をじっと見下ろしていた。
「いろんな人が来たよ。それこそすげえ大物とか、めちゃくちゃ金のある奴とか、信じられないほど賢い人間とか。ジイさんの影響力はすごかったんだな、って思った」
 蘭さんがなにを言いたいかわからなくて、私はただ沈黙する。薄いくちびるが開いて、でもさ、と小さな声がした。
「葬儀が終わって、少し……疲れちまって。あたし、あの藤棚の公園に行ったんだ」
 疲れた。それはたぶん、紺洋さんが本当はずっと家に帰りたがっていたことを知ってしまったからだろう。
「ジイさんが落ちた階段に座って、長いことぼーっとしてた。そのうちちっさいガキどもと親たちが何人もやってきて、階段でグリコ遊びとか始めてさ」
 色の薄い瞳がうっすら細まる。その眼差しがかすかに、痛みみたいなもので揺れた。
「そのとき、思ったんだ。いくらジイさんがすごい人でも、偉い連中に顔が利いても、たくさんの重大事案を動かしてても。この子供たちも、その親も、それからもっと沢山の人も……ジイさんが死んだことなんてなんにも知らないで、ジイさんの人生となんの関係もないまま……普通に生きて、死んでくんだな、って」
「それは……そうでしょうね」
 蘭さんは、ぐっとくちびるを引き結ぶと、ゆっくりと口を開いた。
「それが、なんか――すげえ、こわかった」
「……」
 あぐらの膝、その上に置かれた蘭さんの手が、ぎゅうっ、ときつく握られる。指がみるみる、白くなる。
「だからせめてあたしだけは、ジイさんと関わったまま、ジイさんのことを思って生きようと思った。それなのに」
 蘭さんの眉がかすかに寄った。じっ、と感情をこらえる仕草。少しだけ震えた声が、静かに言った。
「ジイさんはもういないのに。あれから毎日、穏やかで、変わらなくて、むしろときどき、楽しくて。それが、すごく――」
 そこまで言って、蘭さんは言葉を詰まらせる。ぐっと一度深く下を向いて、ゆるゆると首を振って。
 きらきらした金髪が垂れかかる顔を、蘭さんは静かに上げた。ゆっくりと面がめぐって、視線がすがるように私を見る。
「……あんたも、いなくなんのか」
 感情を必死にこらえたような、押し殺した声。頼りない子供みたいな言葉に、胸の底がずくっ、と重くなった。くちびるが開いて、言い訳みたいな言葉が勝手に出る。
「私がいなくても、蘭さんは大丈夫ですよ」
「そうだよ」
 迷いのない即答。大丈夫だったんだよ、と噛みしめるような声がする。私を見つめる瞳がくしゃりと歪んで、
「……だからだよ」
 小さな、震える声だった。それは世界にひとり取り残されてしまったのに、なにも変わらず生きてしまった人の言葉だった。二度と立ち上がれないほど傷付いてしまいたかったのに、そうなれなかった、大人の。
(っ……)
 まっすぐな、すがるみたいな眼差しから、逃げるように顔を背ける。まばたきの裏に、紺洋さんの笑みが浮かんだ。そうか、と思った。
(やっと、わかった)
 紺洋さんが、どうして私に〝喪中アルバイト〟をさせたのか。
 あのひとは私にこの仕事をさせることで、『遺されてしまった人』の姿を見せたかったんだ。蘭さんのように、逝ってしまった人を偲び、愛して、今もまだ、心に慈しみ続ける人々の姿を。そして――

『ぼくの最期のお願いだ。孫と少し話をしてやってくれないか』
『きっと――いい出会いになるよ』

 紺洋さんは私に、蘭さんを遺したのだ。私が逝ってしまうとき、いずれ遺していく存在として。
(遺していく、人……)
 懸命な眼差しが、じっと私を見つめている。蘭さんの姿と、家の人や弟の顔が、ちらちらと何度も脳裏にまたたく。大切な人たち。
 蘭さんは、ふざけんなと、犬にでも食わせろと言ったけど。そんな風に割り切れたら、こんな役割、やってない。義理も恩義も積もる不孝も、あふれかえった愛情も、いくらでも残っている、いくらでも湧いてくる。
 私は家族が大事だった。蘭さんのことも大切だった。悲しむことはわかってる。遺していくのはつらかった。それでも。
 みんなのため。みんなのため。その言葉が何度も繰り返されて、心臓の奥がすごく痛い。胸の底にしきりに引っかき傷がついて、鼓動が鳴るたび、血が吹き出すような痛みが走る。
 みんなを悲しませたくない。ひどいことをしたくない。でも。
(紺洋さん、あなたには、どこまで見えていたんですか)
 いい出会い。本当に、そうだった。いっそ――むごたらしいほどに。
 膝を抱えた。痛いほどきつく背を丸める。膝に額を押し付けて、耐えるようにぎゅうっと縮こまる。
 大切なものは、傷付けたくなかったものは、守りたかったものは、いくらでもある。それでも、私は、もう。

「……ごめんなさい」

 押し殺した声が震えた。もういやだ、と思った。
 もういやだ。苦しくてたまらない。どうすればいいのかわからない。
(もう――戦うのに、疲れた)
 きし、と床が鳴って、蘭さんが身を乗り出してくる気配。さら、と髪を一房取られて、雨宮、と静かな声が私を呼ぶ。ゆるゆると顔を上げる。深い情を宿した瞳と、目が合った。どこか深いところがじいんと震えた。

「蘭さん」
「なに」
「お願いします。〝相談〟を――依頼していいですか」

 二者択一の運命を、あなたに選んでほしいんです。そうささやくと、蘭さんはぴくりと指をこわばらせて、
「……わかった」
 意を決したような顔で、はっきりうなずいた。

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