【創作大賞2024 恋愛小説部門】知見寺家の蔵には運命が眠っている 第9話
【第九話 顛落】
いつもなら静かな知見寺屋敷は、今日ばかりはにぎやかだった。近しい親族や分家の方たちが入り乱れて、語り合いながら法要の時を待っている。ざわざわとした人たちに混じって、私は壁際にぽつんと立っていた。お客さまへのお茶は、さっき出し終わったところだった。
そっ、とお守りを握りしめる。淡紫の守り袋は、まだ少し湿っぽかった。そろりと蘭さんの方を窺う。
蘭さんは、忙しく動き回っていた。あちこちの人と挨拶を交わして、お坊さんが何時に来るとか、お供えの場所がどうとか、面倒くさそうながらもきっちり法要の場を切り回している。
ぼんやりと蘭さんを見つめていると、ふと、視線がぶつかりそうになった。とっさに下を向いてしまう。握ったままのお守りが目に入って、ため息をついた。
喪中アルバイトは今日で終わりだ。最後に、このお守りを蘭さんに返さなければならない。でも、どうしても、なにかの踏ん切りがつかなかった。
小さな足音が聞こえて、ふと、目の前が暗くなる。顔を上げると、長身の人影が目の前に立っていた。蘭さん。珍しくきっちりと喪服を着込んでいる。
気まずさに顔をしかめる私をよそに、蘭さんは静かな、落ち着いた顔をしていた。その表情が、私を見てかすかにしかめられる。
屈みこんだ蘭さんに、そっと覗き込まれた。びく、と肩が跳ねる。すぐ目の前の、色の薄い瞳が、怪訝そうな色を宿す。
「てめぇ、ちっと顔色悪くねえか」
「……完徹明けです。丸一日半寝てないんです」
こわばった表情で言うと、蘭さんはたちまち困ったような顔になった。きっと、蘭さんのせいで私が眠れぬ夜を過ごしたと思ったのだろう。ふ、と小さな息の気配。
「……ガキが夜更かしすんな。背ぇ伸びねえぞ」
ぽん、と頭をやさしく叩かれる。胸がかすかに痛んだ。あんな衝突をして、クビだなんて言われた翌日なのに。蘭さんはやっぱり大人だ。
うまく返事ができなくて、黙ってうなずく。蘭さんは小さく笑うと、そのまま身を翻した。法要の時間は、目前に迫っていた。
知見寺屋敷で行われた四十九日法要ののち、私たちは貸切バスで菩提寺の墓所に移動した。知見寺家の墓は大きくてそれは立派で、明るい日差しのもと、古い墓石が堂々と立っていた。
白い陽光にきらきら光る蘭さんの髪を見つめながら、喪主である彼女の挨拶を聞く。蘭さんは静かな目で、集まった親族の皆さまに感謝を述べていた。
順番に焼香を済ませて、石屋さんが納骨室を開けてくれる。骨壷を持った蘭さんの背中が地下階段に消えていくのを、私はじっと見守っていた。
(これで……本当にお別れ)
紺洋さんが亡くなって、もう一ヶ月以上経つ。それでも、こうしてお骨を納めてしまえば、紺洋さんは二度と戻ってはこないのだ、本当に亡くなったのだ、という不思議な実感があった。
ぎゅっ、とお守りを握りしめる。しめった布越しに硬い感触が手に伝わって、私はかすかにくちびるを噛み締めた。
蘭さんが地下から戻ってくる。最後にお坊さんの読経があって、蘭さんが簡単に終わりの挨拶をして、納骨式は滞りなく終わった。
お寺の一角で休憩する親族の方をよそに、私と蘭さんは一足先にタクシーで屋敷に帰った。会食の下準備をするためだ。
車中での会話はほとんどなかった。蘭さんはいつも通りに話しかけてきたけれど、私がうまい応答をできなかったのだ。ぽつぽつと噛み合わない返事ばかり口にする私に、蘭さんは少しだけ黙って、ぽん、と一度やさしく頭を叩いて、それだけだった。
言葉少ななまま、私たちはタクシーを降りて、二人で屋敷に入った。仏間と向こう二間の襖をすべて取り去って、会食用のスペースはすでに作ってあった。あとは仕出し屋さんを入れて、細々した準備をするだけだ。
事務的な打ち合わせを交わしながら縁側を歩いていると、唐突に蘭さんの足が止まった。前をゆく背中にぶつかりそうになる。慌てて立ち止まった。
「な――なんですか、急に」
「……雨宮、あれ」
蘭さんの横顔が、ひどく険しくなっている。その視線を追いかけて外に目をやって、えっ、と小さな声が漏れた。
「蔵の扉が、開いてる……」
「……雨宮、てめぇ今日入ったか?」
首を振る。今日は朝からお客さまの応対やお手伝いばかりで、蔵どころか庭にも出ていない。
私の答えに、蘭さんはますます表情を険しくした。チッ、と小さな舌打ちの音。
「今朝出るとき、あの扉はたしかに閉めた。間違いねえ」
「じゃ、じゃあご親族や分家のかたが」
「バスに乗るまでのあいだ、全員の動向はずっと把握してた。庭に下りたやつは一人もいない」
「留守番は――」
「いねぇの知ってるだろ。納骨式には全員出た」
「……じゃあ……」
そろそろと視線を投げる。いつも蘭さんが過ごしていた蔵の扉はぽっかりと開いていて、中は暗くてよく見えなかった。ぞくっ、とした。
蘭さんが、ぱっと縁の下から突っかけを取り出す。いつもの、キャラクターの健康サンダル。色の薄い目がきっ、と蔵の方を睨んだ。横顔から鋭い声がする。
「見てくる」
「待って、私も――」
「てめぇはここにいろ。絶対に動くな」
ぴしゃりと言い放つと、蘭さんは私を置いて庭に下りていった。喪服の背が、大股で蔵に向かっていく。
「……っ」
迷った時間は短かった。私は靴も履かず、ストッキングのまま地面に下りた。小走りに蘭さんを追いかける。待って、と肩を掴んだ瞬間、ぱしっと腕を振りほどかれた。
「すっこんでろ。座敷上がって、警察呼べ」
「嫌です。だったら蘭さんも――」
「あたしはいいんだよ」
「良くありません! 無謀です、なにやってるんですか!」
聡明な蘭さんらしくない行動だった。いつもの蘭さんなら、家の中に不審者が入り込んだ時点でまっさきに安全を確保して、すぐに警察を呼んだはずだ。
「蘭さん、戻りましょう、ねえ」
肩を掴む私を無視して、薄いくちびるから低い声が聞こえる。
「あたしには――ジイさんの場所を守る義務がある」
「っ……」
思い詰めたようなその言葉に、思い浮かんだのは星空だった。音の鳴りそうな満天の星の下、少しだけぬるい夜のもと、いつもより頼りなさげな蘭さんとふたりで過ごした。あのときの、少し震えたかぼそい声。
『ジイさんの言葉……あと一度でいい、あの文机の前に座りたかったなあ、って――』
それでわかった。蘭さんの無茶の理由。あの悔恨を、二者択一の運命に、納得してしまった記憶のことを、この人はまだ忘れられないでいるのだ。
なにも言えなくなる私を置いて、蘭さんはどんどん庭を進んでいった。こわばった顔で、蔵の前で仁王立ちになる。
その足が敷居を越えようとする、すぐ横を――私は足早にさっとすり抜けた。蘭さんがはっ、とする。
「てめぇ、なにやって」
「蘭さんは私の後ろから来てください」
どうせなにを言っても行くんでしょう。そう言うと、蘭さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。白い手が伸びてきて、ぐい、と私の肩を引っ張る。
「ガキが粋がってんじゃねえよ。てめぇはクビだっつったろ」
「でも――」
続きの言葉は出なかった。蘭さんが、ぎゅっ、と私の手を握り締めたからだ。
えっ、と顔を上げる。蘭さんはこちらを見ないまま、少し黙って。
「わかってる……悪ぃのはあたしだ」
そう小さく謝った。真剣な横顔が蔵の中を見据えて、諦めたようなため息に、静かな声が続く。
「あたしの後ろからなら、付いてきていい。……無茶はすんなよ」
握られた手は緊張にか冷えていて、少しだけ汗でしめっていた。私はくちびるを噛みしめると、
「……わかりました」
小さくつぶやいて、蘭さんと二人、薄暗い扉の向こうへと入っていった。
蔵の中は暗かった。窓を閉め切っている。蘭さんはあたりを見回すと、うっすら目を細めた。扉からの淡い光だけを頼りに、ぴっ、と指先が床をさす。息だけのささやきが、ひそひそと投げかけられた。
「足跡が……奥のほうに向かってる」
黙ってうなずく。蘭さんが足音を殺して歩きはじめた。ふたり手を繋いだまま、点々とついた足跡を、静かに追いかけていく。足跡は二階へ上る階段へと続いていた。
「上、ですね」
蘭さんがうなずいた。私が先に階段をのぼろうとすると、蘭さんが焦ったようにぐいと手を引っ張った。ぎろっ、と睨まれる。
「下がってろっつったろ」
「……すみません」
ここの階段は狭い。なにかあっても、咄嗟に前に出られない。だから先に行ってしまおうと思ったのだが、見抜かれてしまったらしい。相変わらず、このひとは肝心なところで大人だ。嫌になるほど。
私の思惑をよそに、蘭さんは繋いだ手をほどくと、私をぐいと後ろに押しのけた。健康サンダルの足先が、音を立てないよう、階段をそろそろのぼっていく。
仕方なく後ろに続いた。靴を履いていないので、木の板のざらついた感触がストッキング越しに伝わってくる。できるだけ軋みを立てないよう、細心の注意を払った。
ようやく二階に辿り着く。その瞬間、蘭さんがぴくっ、と動きを止めた。蘭さんの肩越しに、そろりと奥を覗く。並ぶ棚の向こうで、かすかな衣擦れのような、人が動いている気配がした。
(たぶん――一人だ)
闇の奥に目を凝らす。どうやら明かりを持っているらしい、棚の奥で、淡い光がちらりと揺れた。ごそごそ、と家探しのような音。
蘭さんが、こくりと喉を鳴らした。白い手をぐっ、と握りしめると、サンダルの足を一歩踏み出す。ぎし、と音が鳴って、途端に棚の向こうでばさばさっ、と書物の落ちる音がした。
「てめぇ、人んちでなにしてる!」
蘭さんが、威嚇のように低く怒鳴った。返事はない。物音もしない。棚の向こうは不自然に静まり返っている。心臓の音ばかりが場違いなほどうるさくて、私は浅くなった息を制御しようと試みた。
べったりとした、痛いほど長い沈黙。一秒一秒が信じられないほど間延びして感じて、緊張で心臓の底が痛くなる。それがたっぷり一分ほど続いて、耐えられなくなったのだろう、蘭さんがチッ、と小さく舌打ちした、そのとき。
――どっ、と人影が飛び出してきた。
見たことのある男だった。深くかぶった帽子と、不自然に色のついた眼鏡。振りかぶったごつい手に、なにか大きな文鎮みたいなシルエット。それが目に入った瞬間、
「蘭さんッ」
とっさに、蘭さんを突き飛ばしていた。
ひっ、と引きつった声を上げ、蘭さんがもつれるように床に倒れる。気が付けば私は、倒れた身体と男のあいだに飛び出していた。なにも考えていなかった。ただ頭が真っ白になって、ほとんど必死で蘭さんを背に庇って、振り下ろす先を違えた文鎮が、視界の端で翻って――
ガッ、とこめかみに鈍い感触。痛いとかいう感覚より、重いものがぶつかった、という感じが強かった。足元がぐらりと揺れる。蘭さんの悲鳴が聞こえた。
立っていられなくてたたらを踏んだ瞬間、すとん、と足の裏の感覚がなくなる。そうだ階段、と思ったときには遅かった。重力に引きずられるように、身体が下へと吸い込まれていく。
「あまみ――」
「ふ、藤乃お嬢様……ッ⁉」
文鎮を投げ捨てる音と同時に、呆然とした男の声が最後に聞こえて、
(ああ、やっぱり――)
――やっぱり、雨宮家(うち)の人間だった。
その苦いような確信を抱いたまま、一瞬で階段に全身を叩きつけられて――私は意識を失った。
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