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たまたま

週末、学区の体育会主催で地域のスポーツイベントがあった。
あくまでも主催は学校ではなく地域。でもそのお知らせの配布や出欠の提出先は学校で、振替休日はないもののイベント自体は学校から4月に配布される年間行事予定表にも書かれている。
参加率どのくらいの、どの程度の規模感の行事なのか、どのくらいの優先度に置くべき予定なのか、とても疑問である。
ちなみに、子育てをしているとこういうことはとてもよくあるように思う。

わたしはママ友が多くないタイプなのと、わからないことをわからない者同士で話しても仕方ないと思ってしまう人間なのとで、人に聞いてみるということも特にせず、娘が行きたいというのでとりあえず行ってみた。

小学生になると、基本的に保護者同伴でなければならない行事やイベントというのは、ぱったり少なくなる。運動会や発表会はもちろん親が来る前提ではあるけれど、今は親子で登校したりお昼ご飯を食べるということはない(助かる)。 児童は通常の時間通りに登校、○年生の保護者はこの時間から入れます、というかんじが多い。

今回のこのイベントは運動会ほどのしっかりした行事でもないので、基本的に子どもだけを送り出す形で問題ないんだろうけど、毎朝お友達との待ち合わせ場所まで送っていることと、仮に知っている子が誰もいなかったときに可哀想なので、一応わたしも一緒に向かった。

体育館に着いてみると、思ったよりも人が少ない。
20人いるかいないか、という程度。
ぱっと見でわたしの知っている子はいなかったので、どうする?大丈夫そう?と尋ねつつ、すぐに帰りたい様子ではなかったのでゆっくり中へと向かう。

名前を告げて簡単な受付を済ませる。
開始時刻になるまでの数分、体育館の正しい使い方であると言わんばかりの勢いであちらからこちらへ、こちらからあちらへと走り回って鬼ごっこをする子どもたち。
荷物を整えながら周囲を見渡すと、仕切っているおじさんたちのほか、子どもと一緒に来ているお母さんたちの中にも、町内会だか体育委員だかの役割があって来ている人と、わたしのように子の付き添いで来ているであろう人がいることが窺える。

そうしているうちに時間になって始まる簡単な開会式。
進行係のおじいちゃんが「では、閉会式をするので集まってください」と声をかけ、冒頭からずっこけてしまう。開会と閉会って、間違うとしたら漢字の書き問題くらいではないか。プロローグとエピローグがどっちだっけみたいになるのはなんかわからないでもないが、口頭での言葉選びで開会と閉会を間違う人って初めて見たなあウケる、と思いながら娘を送り出す。

またしても周りを見ていると、子どもの隣に立って一緒にラジオ体操をしているお母さんたちもいる。していないお母さんたちは、未就学の妹や弟を追いかけまわすのに忙しそう。
どうやら明確な意思をもってラジオ体操をしないつもりであるのは、わたしだけの様子。
そんな周りの空気に流されるような人間ではないので、壁に寄りかかりながら娘の様子を見守る。まあなんとかなっている。

ラジオ体操を含む開会式が終わり、一つ目の種目はゲートボールの簡易版のようなもの。
受付のときに割り振られた2つのチームに分かれて、コースの周りに集まる。お母さんたちも集まっている。迷う。近くで見て応援したほうがいいであろうと思う反面、多くの子は子どもだけで来ているわけで、わたしが娘の近くにいることで娘はわたしから離れなくなってしまう。そうすると、誰も娘に話しかけなくなるので、結果的に孤立したまま終わってしまう。

話は逸れるが、虎に翼の新潟パートで優実が、友達別にいらない、一人でいるのが嫌じゃないということを母・寅子に伝えるシーンがあった。
わかる。わかっている。
わたしだって友達が多いわけではないし、自分が無理をしないと一緒にいられない人と過ごすより一人で過ごす方が楽だし楽しい。
それでも親は、というか大人というものは、「友だちがいない(多くない)子ども」を必要以上に心配してしまうところがある。

今日のイベントで友だちを作らなければならないわけでもないし、友だちができなくても競技があるのだから2時間なんてあっという間だし、そもそも学年もバラバラの約20人の中で友だちができてもできなくても今後の学校生活にもさして影響はないのだ。わかってる。
わかっているけれど、わたしが傍にいることで「友達になれたかもしれない可能性」を潰すようなことはしたくない、とは思ってしまうのだ。どうしても。

というわけで、わたしは体育館の壁際に体育座りをし、“ここから見てますね”というスタンスを身をもって表現する。
列に一人で並んでいる娘に、5年生か6年生くらいの子が話しかけてくれる。すぐに打ち解けるというほどでもないものの、お互いがボールを転がすたびになにかしら言葉を交わしている様子に、ようやくわたしも一息つく。

ただ順番待ちが長いので、わたしがずっとぼーっと見ていると、呼ばれたり寄ってきたりしてしまう。
そうするとそれ以上周りの子どもたちとの交流は進まなくなってしまうと思い、持参していた本を取り出す。

体育館で、イベント中に、本を読み出す大人。
どう考えても空気が読めなさすぎるが、娘の視線があるのでぼーっとしているわけにもいかないし、大人の視線があるので仕事のメールを捌くわけにもいかない。
その点、本はちょうどいい。ちょうどよくわたしの存在を空気にしてくれる。
ぼんやりしていたら暇そう、スマホを見ていたら感じ悪い、そう思われてしまいかねないところ、本はちょっとぎょっとされるくらいで特にどのような印象も持たれずに放っておいてもらえる。大変ありがたい。

ちょうど前日の夜に数ページだけ読み始めた『世界の適切な保存 / 永井玲衣』。
2章目の『たまたま配られる』という部分を、ときどき顔を上げて娘の順番を逃さず見守りながら読んでいた。
スイミングの待合室でも思うのだけど、この「本を読んでいても娘の番がなんとなくわかる能力」というのはなかなか素晴らしい気がする。本読んでたら外暗くなってた、とか、さっき読み始めたばっかりなのにもう朝だなんてわたしは信じない、とかってことが普通にあるので集中力がないわけではないのに、集中力とは別で、集中力を本の中と娘の気配の察知に振り分ける能力があるのかもしれない。人間、意外と野生的な生き物である。

そんなわたしの生態はどうでもいいのだが、『たまたま配られる』といえば娘は「たまに」のことを「たまたま」と言う。

幼稚園のときからずっとそうで、
話を聞いていて「その子預かり保育じゃなくないっけ?」と言うと「たまたま来たりするよ」と言われるようなことがあって、預かり保育って市の利用許可をもらって、前月までに利用予定を提出する必要があるので、そんなたまたま来るとか来ないとかないんだがみたいに思ってたんだけど、娘的には「毎日利用ではないけど、たまに来るよ」という意味らしい。

まあまだいいかなと思って訂正していないので、未だに「たまに」の意味合いで「たまたま」を使うのだけど、そのうちにわたしも「たまに」と「たまたま」の違いが気になり始める。

一般的に「たまに」は「時々」の意味合いで使うし、「たまたま」は「偶然」の意味で用いられる。
でもこれ、漢字は同じで「偶に」「偶々」となり、辞書で調べるとどちらも「まれに」という意味をもっていて、「たまに」と「たまたま」って、違うけど同じなんだなあと思わされる。

子育てをしているとこういう、意図せず足元を見つめ直すような瞬間が結構あって、人間として薄情なわたしは我が子が立つとか歩くとかよりも、こういうことのほうに感動してしまう。


ところでこのnoteは、たまたま参加したイベントで(はっきり言えば)暇だったので開いた本に、たまたま『たまたま配られる』という章があって、たまたま娘が独特な「たまたま」づかいをするので、残しておこう〜と思い、書かれるに至ったわけだけれど、

子どもの世界って「たまたま」がすごく多い。
そもそも多くの小学校中学校が「このへんに住んでるタメ」という雑なくくりで同じ箱に入れられることもだけれど、たとえばいつも放課後を過ごしている児童館にいつも一緒に遊んでいるお友達が来たり来なかったりする。

お友達が来たり来なかったりするのには、体調が悪いとか用事があるとかいろいろな理由があって、子どもがみな気分で生きているからというわけではないんだけれども、そのあたりの事情を求める・説明するというところがまだぼんやりしているので、「なんかよくわかんないけど今日は来なかった」というかんじになる。
娘が新しい習い事の見学に行った先週も、あるお友達にとっては「なんかよくわかんないけど来なかった」となっているのだろう。

この日のイベントでも、最初に話しかけてくれた子と、その子と同学年らしい男の子と、娘と同じ学年かなと思ったら一つ上だったらしい2年生の子と3人で、休憩の間、汗をかく勢いで鬼ごっこをしていて、
わたしは本持ってきてよかった読んでて本当によかったと思ったわけだけれど、帰り道で話を聞いていたら、誰の名前も特にわからないらしい。

この、子ども名前覚えてこない(というか名前を知る機会がない)問題は未就学児でも結構あるあるだと思うんだけど、小学生になっても名前わからないまま遊ぶんだ…ウケる…子どもおもろ…ってかんじである。

他者とのコミュニケーションにおいて、“わからない”ことが多いと“たまたま”が多くなる。
この2つには相関があるので、こうして改めて書くと進次郎構文みたいになってしまうのだけど、普段あまりセットで考えることって多くない気がする。


そんなことを考えていると、あっという間に5つ目の最後の種目。
配られたプリントには「力を合わせて!バルーンリレー \ 大人の方の参加もあるかも?! /」と書かれており、最も恐怖だった種目。
わたしはこういうスポーツ系のイベントにおいて、基本的になにもしたくない。そしてその中でもとりわけ、「知らん人と組」んで己の身体能力が連帯責任を引き起こしかねない「リレー」だなんて、もう絶対にやりたくないのである。

本に目を落としながら視野見で進行の様子を伺っていると、どうやらお呼びはかからなさそうで心底ホッとする。

そして、自分では絶対に関わりたくないけれど、見ていると熱が入らずにはいられないのもまたリレーの特質だと思う。
うちわを片手に持った二人が、そのうちわで風船を挟んで走り、カラーコーンで一周して戻ってきて、次のペアにうちわと風船をパスするというこのゲーム。
ここまでの4種目、二勝二敗というよくできた展開だったのもあって、娘の番以外の応援にも自然と力が入ってしまう。

スピード勝負の子たちが順調かと思いきや風船を落としまくって、歩みは遅いが慎重でストップがない子たちに途中で抜かされるという場面もあったりして、本当によくできた展開すぎる。
大人だったらそうはいかない。
勝ちにいこうと思ったら、体の大きさや性格の相性、どっちが外回り側に立つか、スピードをとるか確実さをとるかなど決めてしまうので、よくできたドラマのような展開は、ドラマでしか起きない。
よくできた展開を自然発生させるのも、子どもの世界の「たまたま力」の強さだ。

そんな、たまたまによるハラハラレースの末、娘のチームが勝利!

で喜んだのも束の間、謎の2回戦があるという。なぜ最初に言わないのか。(こういう地域系のイベントはこういう謎がつきもの。)

この2回戦目で大人は招集されるのか?!と思い、再び本を開いて視野見していると、とくにそんなことはないよう。
コースを少しだけ複雑にして開始し、今度は娘のいるチームが負け。

3勝3敗になってしまった。
まったく、なんのための2回戦目だったのか至極謎である。

そして、引き分けだったときにどうするか決めていなかったらしいおじさんたちが集まって、結果をどうするか話し合いタイム。(事前に決めとけ)(or それなら2回戦をやらなければよかった話)

勝敗にそわそわしている子どもたちの輪に入れている娘を見て、改めてホッとする。
わたしが傍にいなくてよかった。こんなぐだぐだな仕切りでそわそわできる純粋な心を持った子どもたちで本当によかった、と。

話し合いがまとまったようで、司会の初っ端から閉会式おじいちゃんがマイクで一言。
「優勝を決めるために、じゃんけん大会をします」

こうして、せっかくいい勝負の末に最後のリレーで先に勝利を収めた娘のチームは、「たまたま」の権化とも言えようじゃんけんの末、負けて準優勝で幕を閉じたのでした。

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