ダーリンはゲイ
ひいらぎ
ダーリンとの出会いは高校のクラブ活動だった。漫画・アニメーション研究会に私が3年生の時にダーリンが入部して来た。
背が高かった。高校1年生で既に180センチはあった。ただおしゃれなんかには縁が無いらしく端正な顔立ちの割にはダサい恰好をしていた。1年生の割に絵が飛び抜けて上手かったので私はすぐに目をかけてやるようになっていった。彼も私の絵の上手さに尊敬してくれた。私たちはすぐに意気投合をした。
男性に対する好きというより人間としてダーリンが好きになった。
彼はモテた。私と同学年の女生徒にはダーリンに恋する人が複数いた。彼と一緒に入部して来た小柄な1年生もモテた。友達の間では二人はいつも話題の中心にいた。私はそんな事には興味が無かった。当時結婚を前提にお付き合いしていた後の夫がいたからである。
ダーリンはいつも、学生食堂の自販機のミロを飲んでいたので、ペンネームもミロにしていた。明るくて人を小馬鹿にした態度が将来大物になるだろうという予感があった。彼は後に日本の変態達の中心人物になる「大黒堂ミロ」になった人物である。
私が1年生の時に先輩達に重宝されたようにダーリンも同じように重宝された。文化祭のチケットのデザインを美術部から奪った。頭の回転が良く口もよく回った。彼はまだカミングアウトをしていなかったので、自称ロリコンという事になっていた。
未成年の癖に私達は夜の繁華街をよくうろついていた。いつも5人くらいで梅田を中心に漫画やアニメの事を語り合った。よく始発電車で家に帰っていた。大阪環状線を二回りなんかした事もある。学校にはかろうじて通学していた。偏差値の低い学校で、近所では「極道養成学校」とまで呼ばれていた高校である。生徒がタバコを吸いながら制服姿でパチンコ屋にいても注意する大人はいなかった。
私が遊びにふけっていたのには理由があった。
実家では兄からの性的虐待。
それを知った母親からの虐待。お小遣いはたっぷり貰っていてアルバイトもしていたのでよくライブハウスで朝を迎えることもあった。
ダーリンの家庭も父親のDVで、彼は家に居場所が無かった。他にも両親が行方不明になって奨学金を受けながらアルバイトで生計を立てている友人もいた。親の離婚で後ろ髪が白髪でいっぱいの後輩もいた。単に遊びたいだけではなく皆、不幸な生い立ちを振り払うかのように遊びに夢中になっていたのである。
18歳で統合失調症を患った私を両親は邪魔だという事で高校を卒業すると家を出る事が決まっていた。費用はアルバイトのお金を貯めた。
卒業式の日に式を終えて教室に戻るとダーリンと小柄な1年生が残って待っていた。両親のいない友人の家での宴会の計画をしていた。お酒やお菓子を買って夕食は鍋にしようと準備していた。ただの鍋ではない。闇鍋だった。鍋の出汁が沸騰すると電気を消して好きなものを鍋に放り込んでいた。
遊びも私達の遊びは変わっていて、痴呆老人ごっこというのがあった。
おじいちゃん役の人は何でも我儘が言えた。アイスを食べたいと言ったら必ず誰かがアイスを買いに行った。ただ我儘がエスカレートすると
「おじいちゃん、座布団を食べちゃいけないでしょ?」
と言われたら座布団をかじらないといけないルールがあった。他にも地方から出て来た人ごっこというのがあって東北弁の訛りをしゃべりながら人に道を聞くといった遊びがあった。
私が家を出てアパートを借りた時私が料理が出来る事から私のアパートが友人達のたまり場になった。当時裏ビデオというのがあったのでみんなで集まって鑑賞していた。私のアルバイト先のレンタルビデオショップでは裏会員という制度があって会員の人にだけ裏ビデオをレンタルしていた。皆パンや卵やマーガリンなど買って私がサンドイッチを作るといった感じで助け合って楽しく暮らしていた。
私が就職したころ上司に一目惚れしてしまったので彼氏と距離を置いてしまった。それと彼の酒乱が原因だった。
私が独立した後両親のいない友人がアパートを借りてその次に父親に手切れ金を貰ったダーリンがマンションを借りて住んでいた。まだ二十歳そこそこの私達は暇さえあればいずれかの部屋に集まって遊んでいた。同人誌もやっていた。
その頃に私に思いをかけてくれた後輩と付き合う様になっていた。愛してはなかったがぬくもりが欲しかった。
ただ、ダーリンがしょっちゅう私の部屋で寝てる事に嫉妬のあまりカバンに包丁を隠し持ったりするようになってきたので別れた。殴られたというのもある。その子は板前だった。私は再び、後の夫となる人と付き合うようになった。
ダーリンは女性経験も豊富だった。が、やはり男が良いと寝物語で話してくれた。小さい頃にGIジョーを裸にして遊んでいた事や初めての男性経験も話してくれた。そんな会話をする頃はどちらかがどちらかの部屋に行って、一緒に寝ていた。もちろん肉体関係は無い。だが夫婦のような暮らしをしていた。
お正月も暇だったので夜中に賞味期限切れの商品を置いているコンビニを探し回ったりしていた。いつも手を繋いでいた。彼の大きな手は私に束の間の優しさを与えてくれた。ダーリンといつもゲラゲラ笑いながら暮らしていた。
そんな蜜月も終わりになった。
私が夫の子を妊娠したからである。
私の両親は慌てて結婚式をする費用をくれた。孫の誕生を喜んだ両親と仲良くなれるチャンスだった。
即席の結婚式だったが私は生まれて来る初めての自分と血の繋がった家族に期待をした。もう独りぼっちではなくなると思った。
結婚して東京に移り住んだ。ダーリンは絵葉書を1枚お祝いとお別れにくれた。
初孫に浮かれた両親は私と娘を大事にする様になっていった。数か月に1度関西に戻ってダーリンや友人達と遊んでいた。芸能人のような忙しさで時間単位で友人の所を回っていた。娘を連れてダーリンの家に遊びにも行っていた。外に出る時は必ず娘を抱っこしてくれた。「種パパよ。」とよく冗談を言いながら知り合いの所を巡った。
娘を大切にしてくれた母親の態度が変わったのが兄に子供が生まれた日だった。娘の事を
「もう要らない。」
と言って肩を掴んでガクガクと揺らしていた。病院の看護師さんが制止してくれた。
私は娘を背負って泣きながら家に帰った。
夫は激怒して、再び両親と縁を切ることになった。私は夫をとても深く愛していたが人間としてダーリンの事は愛していた。夫も彼がゲイということから二人の関係を許してくれた。妙な三角関係ではあったが生活は良好だった。
やがて私は夫の転勤でアメリカに住む事になった。
ニューハンプシャーの大自然は子供の頃夢中になって読んでいた絵本の世界そのままだった。森へ続く小道。キノコ・小動物。娘も大自然を気に入りおそらく私が暮らしを謳歌した僅かな数年間の一部だったのだと思う。
その頃ダーリンの生活にも変化があった。念願の漫画家になれた事だった。
私は自分の事のように喜んだ。ついでのようにバーを経営するようになったらしくお店の内装も全部ひとりでやったと声が弾んでいた。
私も高校の頃佳作を受賞した事があったので日本に戻ったら漫画家になろうと思っていた。
湾岸戦争が始まりグリーンカードを申請しない日本人には帰国命令が出た。夫は帰国を望んだ。彼は彼で作家になる夢を抱えていた。私はアメリカが良かったが帰国した。
帰国した時は丁度コメ不足の頃だったので日本での暮らしは楽ではなかった。物価が上がり、アメリカを懐かしんだ。
しかし夫が世界有数の大企業にステップアップしてくれたので収入がぐんと上がった。生活が楽になった。同時に私は妊婦あるあるの四コマ漫画で漫画家デビューした。これからが楽しくなるという矢先に夫が元のアルコール依存症から暴力を振るうようになった。(彼と距離を置いた原因でもあった)
私は他の雑誌で再び佳作を受賞し、それがそのまま連載へとなった。ダーリンは喜んでくれたが夫はあまり喜ばなかった。
夫は芥川賞を目指していた。自分の尊敬する作家達のほとんどがアルコール依存症である事から、アルコールが文学の源みたいな一種の信仰があった。アメリカではビールを主に飲んでいたので、酒乱の夫は何もしなかったが帰国すると強いお酒を浴びるように飲むまでになって来た。一人で残業をする時もウィスキー等をデスクの引き出しに隠して飲みながら仕事をこなしていた。
どんなに帰宅が遅くなっても家に帰ると食事を食べてお風呂に入ってから眠るという生活をしていた夫が変わってしまった。明け方帰宅するとお風呂に入り仮眠をして夕食を朝に食べるようになった。女の匂いがした。しかし、怖くて問い正せなかった。もし、女がいても一生嘘をついておいて欲しかった。が、彼は告白をした。私は狂ったようになってしまった。
興信所を雇って、夫の不倫相手の事を調べ彼女の夫の両親へと彼女の実母に不倫をしている旨の手紙を書いたり、集められるだけの薬品を集めてODをしたりした。絵具で自分の体をカラフルに塗ったり、全く狂っている事以外には思えなかった。
夫が居るだけで閉塞感があったので家から出る様にお願いした。その頃の体重は35キロ程まで痩せ衰えていた。
夫は渋谷にアパートを借りて暮らすようになった。離婚の文字が頭に浮かんだ。ダーリンに相談をしたが金持ちの夫を手放すと将来よくない。妻なんだから堂々としていれば良いと助言してくれたが、ダーリンの言葉さえ私の頭の中には入らなかった。医師は入院を勧めたが、漫画の連載を手放したくなかったので家にいた。無気力感から自分もお酒を飲みながら仕事をこなしていった。
自宅は横浜だったが、茫然としながら夜中に歩いて明け方渋谷に着いた。そこで屋台の準備をしていた初老の男性が私を見つけただならぬ感じを悟り、呼んでくれた。商売もののコンロでコーヒーを煎れてくれた。「事情は分からんが、家には帰ったほうがいいよ。お姉さん。」と、いう言葉に吹き上げるように私は事情を話し、お礼を言って帰宅をした。
夫の父親が元々私の事を良く思っていなかったので十分な話し合いもなく私たちは離婚をした。
関西に拠点を作ろうと部屋の整理をしていた時に、ダーリンからお祝いにもらった絵葉書が出てきた。裏返すと、とても小さな文字と似顔絵があり「勝手に結婚しちゃうなんて。」と、似顔絵が涙を流しているのを見つけた。
号泣した。
ダーリンはダーリンで私の事を人間的に愛してくれていたんだと理解した。自分の愚かさを理解した。私は馬鹿者だと、心から思った。
当時の私の唯一の楽しみがチャットとオフ会で、私はアシスタントさんに娘のことを頼み頻繁にオフ会に出かけて行った。漫画の仕事がひと段落するとパソコンを立ち上げ、チャットをしていた。
オフ会では私はモテた。3人の人から求婚されていた。そのうちの1人の人と肉体関係を持った。持ったとはいえ、私はホテルの部屋を教えただけだったので半ば無理やり関係を持った形になってしまったのだがその人が自分との結婚を考えて欲しいとわざわざ関西から横浜迄来て言ってくれていたので、私はそれを本気にして大阪に戻った。
娘が丁度、中学になる頃に引っ越しをした。
私の彼氏は製薬会社に勤めていて、贅沢に慣れ親しんだ自分には相応しい再婚相手だと思い込んでいた。
ダーリンに相談をすると「男って判らないわよ、離婚理由を知らなきゃ。」(この頃はダーリンはオネエ言葉を使っていた)とズバリ言った。
その言葉の信憑性が高くなって来たのは、本当に離婚理由が分かった時だった。彼氏はセックス依存症だったのである。彼氏の元妻が戻って来て私にストーカー行為をはじめたのも重荷だった。私たちは別れた。
元夫が最後迄メール等で復縁を求めていた事から、私は心の中のわずかな部分に復縁もあるだろうか?と考えていたのだが、そんな元夫が再婚をしてしまった。離婚して1年も経たない頃だった。
元夫からは多額の慰謝料と養育費が支払われていたが、私は世間に放り出されたような気持ちになった。ダーリンを頼ることも出来ず一人で苦悩していた。
そんな頃新宿のオフ会で私に一目惚れした今の夫が私の気を引こうと色々画策していた。ただ、今迄の男性と違った点は彼だけが娘と堂々と会い娘の事を色々と気にかけてくれた事だった。私の考えとしてもちろん娘のことを大切にしてくれる男性が良かったが先ずは経済力だった。元夫までとは言わないがただのサラリーでは贅沢に甘やかされた自分は耐えられないだろうと思っていたのである。
今の夫はお世辞にもお金持ちには見えなかった。が良い友人だとは思っていた。彼のことはダーリンに素直に相談できた。ダーリンは「案外、その人と上手く行ったりして。」と予言していた。その頃ダーリンはホームレス文化に慣れ親しんでいて私も連れて行って貰っていた。ホームレスとはいえ木材で上手く家を建てて庭にはミントを植え淀川で釣りをしたり日雇い労働で暮らしていた。タバコワンカートンで気さくに取材に応じてくれた。ダーリンはホームレスとの親交の証として淀川で釣れたウナギのかば焼きを無理やり食べさせられていた。
冬にはブルーシートを膝からかけて物売りをしているおじさんの取材をした。ブルーシートの中には野良猫がびっしりうずくまっていた。
色んな人がいた。淀川沿いに住みミナミや梅田で芸術活動をしている若者のホームレス。関心したのはホームレスは案外グルメが多かった事だった。
ある日夢を見た。ダーリンが汗を流して苦しんでいる夢だった。嫌な予感がして急いで電話をかけた。不特定多数との性行為でB型肝炎にかかり、劇症肝炎で苦しんでいたらしい。退院したばかりだった。
娘もダーリンに懐いていたので「ママ、再婚するならあの人にして。」と言っていた。しかし、私はダーリンの生活習慣を知っていたので一緒に暮らす事は無いだろうと思っていた。
そんなダーリンが結婚をした。相手はバーを営む女性だった。夜には顔をデビルマンみたいな化粧をして歩いているレズビアンだった。ペンギンズバーで披露宴があった。参加した。
大事な人を見つけたんだと心から喜んだが結婚生活は上手く行かなかった。相手の女性が妻らしいことをしだしたのである。バーが終わるとダーリンの店に行き料理を作って一緒に家に帰りたがっていた。そんな妻をダーリンは拒絶反応を示し僅か半年で離婚してしまっていた。
あくまでも変態であり、自由に出来る環境を彼は常に求めていた。
ダーリンのお店の開店記念日には必ずバラの花束を持って行っていた。「ほらよ。」と花束を投げつけた。それがお気に入りのダーリンの接し方だった。彼と一緒にいるといつも笑顔でいれた。
ダーリンと仲間たちの間で毎年パーティーがあった。仮装したり女装したりしてSMショーなんか等を開催していた。一度だけ参加した事がある。良い仮装を思いつかなかったので、あらいぐまラスカルの姿で参加した。女装をした人と仲良くなって道路に出ていると近所から苦情が出て警察官に叱られた。ダーリンにも叱られた。
漫画家として彼の仕事が増えていってアシスタントを雇う迄になっていったダーリンは高校時代は美術部だと嘘をついていた。オタクなのを周囲に知られたくなかったらしい。ダーリンの家に行ったときにアシスタント達に本当は漫画アニメ研究会だと教えてやった。「こらーっ。」と照れながら
怒っていたが、メーテルの絵葉書を置いて、「オタクじゃなかったら踏みなさい。」と命令したところ。「メーテルだけは嫌よ。」とアシスタントの前でオタクのカミングアウトをした。
漫画家とバーと他に広告代理店も経営していた。私も今の夫と付き合うようになり小さな広告代理店を手伝うようになったので仕事の相談事をよくしていた。
ダーリンは神経質で小まめだった。自分の作品のコピーを撮りファイルにきちんと閉じていた。CDもカバーを外しアルファベット順にファイルに保存していた。毎月自分の作品が載った雑誌を送ってくれた。部屋もいつも綺麗に整えてありあちこちに観葉植物を飾り、猫を飼っていたが躾をきちんとしていた。
ダーリンは仕事の拠点を新宿に移した。人気者ではあったが、お店の経営が上手く行かなくなって来たらしい。新宿2丁目にお店を構えたが、バーの経営に情熱を失いつつあった彼は漫画家を本業にする事にしたらしい。お店は週に3日ほど開ける程度になった。
そんな頃、元夫が自死した。
私はショックのあまり、人付き合いを一切やめてしまった。ダーリンとも疎遠になってしまった。
ひたすら後悔をし漫画の仕事をかろうじて続ける以外は家に閉じこもってゲームをして暮らしていた。離婚のときの様にチャットとゲームだけが生きがいになってしまった。娘は父親の死にそんなにショックを受けていないように見えたが、彼女なりに心の闇を抱えて生きるようになってしまった。
娘は遺産を1年ばかりで使い込んでしまった。あちらこちらに借金を作り、遂には窃盗罪で起訴された。私はお金を集めて娘の刑を少しでも軽くしようとした。友人に打ち明け友人たちまで疎遠になってしまった。私はひとりぼっちになってしまった。
その頃、飼っていた猫がガンになり、治療費で私は自己破産をしてしまった。今の夫はお金もなくなり元夫からの送金もなくなった私と娘を自宅で暮らせる様にしてくれた。私は再婚をした。
夫の会社経営が上手くいかなくなってきたので、一念発起をしてあちこちで働いた。主治医の勧めで障碍者年金も受け取るようになった。気持ちは安定はしていなかったが夫と娘との生活を細々と続けた。漫画の仕事もしていたので何とか暮らしてはいけたがもはや友人もいなくなり心に隙間風が吹いた。
娘は夫との暮らしを嫌がり出所後は生活保護を受けるようになってしまった。
そして、娘は自宅マンションの4階から飛び降りてしまった。
命は助かったが重い障害が残ってしまった。これには私は参り自分も病院の6階から飛び降りようとしていた時に病院のスタッフに見つかり保護された。
絶望の中、思い起こすのはやはりダーリンの事だった。私はペンを取り、事の経緯をダーリンに伝えた。
彼は東京から急いでかけつけてくれた。娘の手を取り、涙ぐんでいた。だが娘は誰かすら思い出せなくなっていた。
その後は私は漫画家を辞め作業所で働くようになった。夫が脳梗塞で倒れ認知症になりつつあった。娘は施設で暮らすようになった。夫は慢性腎不全にもなり働けなくなった。
それまでの友達も知人もダーリンも含めて連絡をとることを止めてしまった。毎日が夢の中にいるような感じで生きていた。たまのパチンコが唯一の生きがいになった。何度もODを繰り返した。生きることを放棄したかった。作業所でひたすら働いた。お金ができると夫を連れてカフェに行った。夫は以前バイクで左足靭帯断絶という事故で足を悪くしていた。
認知症が悪化していく夫に振り回された。
そんな頃、チャットで知り合った男性が何でも相談を受けてくれる様になった。年下だが、お兄さんが出来たような感覚で彼からのメールを待ちわびるようになった。ダーリンを思い出す様な人だった。
その人の勧めで、ガラケーからスマートフォンに電話を変えた。
それがその後の人生をがらりと変えてくれたのだった。電話番号を登録している人とラインが繋がるようになっていったのだった。初めはラインをする勇気もなかった。もはや年金で生活している自分を漫画家として慕ってくれていた友人が元に戻ってくれるとは夢にも思わなかったのだった。
恥とは思わなかった。ただすべてを失った自分に価値なんかないと思い込んでいたのだ。元夫と過ごした日々ダーリンと過ごした日々すべてが化石の様になり私の心の片隅に転がっていた。
ある事件があり私は勇気を振り絞ってママ友にラインをした。娘の事、自分の事を説明した。
彼女は東京に住んでいるがすぐさま関西まできてくれた。優しい言葉をかけてくれた。娘へのお見舞いとしてお金もくれた。
「ああ、私は無価値じゃなかったんだ。」
と、思えた。
やがてダーリンの名前がラインにあがった。しかしラインを送る勇気はなかった。仲は良かったが常にライバルとしてでも結束が固かった自分が漫画を放棄したことがやるせなかったからである。
それにダーリンが怒っていると思い込んでいたのである。10年近くも放置して合わせる顔がなかった。関係が崩れてしまったとも思っていた。
作業所の仕事と夫の認知症の介護で日々が消されていっていた。負のスパイラルが私を覆いつくしていた。終わりのない介護。子供のようになってしまった夫。その内に夫は歩けないのに徘徊するようになってしまった。ある時は救急車、ある時は警察官が夫を保護してくれた。限界とまでは言えないが、将来の不安感が私を暗くしていた。
ある時私たちを支援してくれている人が、夫の老人ホーム入所の手続きが進んでいると教えてくれた。私は喜んだ。半面、寂しくもあった。夫はヘビースモーカーで認知が重くなってきたころから少しずつ禁煙させる予定でタバコをかなり減らしていた。30分おきに私の部屋に来てタバコはないのか?と訪ねていた。私は良い。しかし、誰ひとり知らない人の中でタバコもおやつもない環境で生活するようになる夫が可哀そうだった。認知も日々重くなっていくだろう。人間らしい生活の最低限は保証されているとはいえ夫には過酷な環境になると思った。
つい最近のことである。
夫の透析の日だったので、起こしに行った。彼は部屋でいつもくつろいで寝ている格好で横たわっていた。まだ寝てるのかとゆり動かした。が。体が冷たかった。体のどこを触っても冷たかった。まさか?と思い口と鼻に手を当てると息をしていなかった。慌てて救急車を呼んだ。救急隊員の指示どうり蘇生術をほどこした。だが、努力も空しく夫は息をしてくれなかった。
駆け付けた救急隊員は「亡くなってから2時間は経過してますね。」と警察を呼んでくれた。頭の中が真っ白になった。
透析を始めてまだ10年目だった。頭の中でまさか。と、いう言葉がぐるぐる回った。
手続きが終わり、主治医が死亡診断をしてくれる頃には支援員さんたちが駆けつけてくれていた。私は泣いた。心は枯れはてて、何があっても泣けない状態が続いていたのに、さようならも言わずに逝ってしまった夫の為に涙が溢れた。何をどうすれば分からなくなってしまっていた。
葬儀は身内だけでやった。骨になってしまった夫を見た時に涙が止まった。諦めがついたというのか、夫の死を受け入れていた。
夫が会いたがっていた友人たちにショートメールで夫の死を伝えた。
そして、ダーリンにラインを送る勇気が湧いてきた。今の境遇を知らせると怒ってはいなかった。ただ「苦労したんだね」の言葉が私の心を氷解しつつあった。
これまで化石のようになって、心の片隅に転がっていたダーリンとの日々が蘇ってきた。元夫との日々もよみがえった。私は決して不幸ではなかったのだ。
ダーリンとの40年間は、希望や夢、笑い、幸福感が散りばめられ私の中で生きている。彼の大きな手のぬくもりを思い出した。
私が生きている限り、楽しかった日々のことは忘れはしない。
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