さらば、ダメ夫 ひいらぎ

ひいらぎ

ダメ夫:だめおと読む、人としてどうかなという男の事。私の夫の愛称である。

ダメ夫と知り合ったのは新宿のオフ会だった。当時、離婚した人を中心にネットサークルがあった。カラオケやボーリング、飲み会等をして和気あいあいとするサークルであった。私は離婚したばかりの時で、ダメ夫は離婚調停中だった。

天然パーマで前髪を下ろし、ジョンレノンのような丸い眼鏡をしていた。迷彩のベストを着て、紙袋。カバンはたすき掛け。一目でオタクだと思ったが関西に引っ越す事が決まっていたので宝塚に住んでいるという事で知り合いになろうと思って挨拶をした。その時にダメ夫は私に一目惚れしていたのを私は気が付かなかった。

娘もこのオタク的な男に興味を持ち、じゃんけんで勝って、ダメ夫にビールの一気飲みをさせていた。後に自分の父親代わりになるとは娘も思わなかっただろう。

ダメ夫は二世帯住宅を建てたばかりで有名な企業に勤めていたがそこを退社して小さな広告代理店に転職したらしくそれを機会に嫁が子供たちを連れて実家に帰り弁護士を雇って離婚調停を申し出てしまったらしい。いかにも嫁に逃げられた臭がしていて悲壮な表情をしていた。ネットサークルだったのでダメ夫はMacを使ってホームページを手伝っていた。私は知らなかったが関西では既にサークルの中心人物となり皆に「兄さん」と呼ばれていた。

その頃すでに婚約者のいる私だったが婚約者の元嫁が彼の家の合鍵を作り娘と一緒に彼のマンションに引っ越してきたという複雑な状態だった。彼は1年のほとんどを中国で過ごしていて主張中に元嫁が男と駆け落ちして離婚調停になり彼は裁判に負けて高額な慰謝料と養育費を支払っていた。
最初はわからなかったが彼と会う度に不信感が募った。彼はセックス依存症で元嫁が不倫相手を作っても裁判に負けるくらい女性に依存していた。
娘さんもいる事だし追い出せないのだろうとも思ったが彼の両親が元のさやに戻るように説得をしていたので逆に私が不倫相手の様になってしまっていた。彼の元嫁さんは執拗で私のストーカーになってしまっていた。ただでさえ離婚で心が弱っていた私には耐えられない環境だった。
別れるかどうかの選択を考え始めた所だった。彼を愛してはいたが私に必要だったのはある程度の生活レベルを保証してくれて娘を可愛がってくれる男性であった。

私は元夫からの多額な養育費と漫画家をしていたので生活は苦しくはなかった。

ダメ夫は孤独感から昼夜を問わず遊び歩いていた。と、いうかサークルに参加しているほとんどの人が同じように仕事場で寝てしまうくらい遊びに夢中だった。全員が尋常な精神状態ではなかった。会話も

「自殺しようとしたことあるよね。」

などといった感じで病んでいた私には理解してくれる人のいる大事なサークルになっていた。

関東と関西に別れ総勢200名が参加していた大きなネットサークルだった。

漫画家をしている事から夜中によくオフ会の電話が入った。数名のグループで朝までカラオケをしていた。私はロックしか歌えなかったが、声のトーンが丁度ロックボーカルの男性と近かったのでロックを歌う私を珍しがってカラオケに誘われていたのだ。

ダメ夫は若い頃にバンドのボーカルをしていたらしく歌を歌わせるとプロと間違えるくらいに歌が上手だった。私たちのグループのカラオケには私とダメ夫が欠かせないメンツになっていった。

子供でもやはり女なのか私よりもダメ夫が私に好意を持っている事に気が付いたのは娘だった。娘はダメ夫の十八番のリンダリンダをジャンプしながら歌う姿を真似して

「何?あのハゲ」

と言っていた。娘の口癖で気に入らない大人の男性の事を全部「ハゲ」と呼んでいた。勝気な性格の娘はダメ夫にからみながら睨みつけていた。

ビートルズをよく歌う事から私はダメ夫がロックファンだと勘違いして親しくなりたかったのでカラオケには喜んで出かけていた。二人きりになった事はなかったのでダメ夫の好意には気が付かなかった(と、いうより婚約者の事で心がボロボロになっていたからだけど)ので、友達になりたいと
思っていた。エヴァンゲリオンの事で話が合った。

ダメ夫の事をオタクと書いたが漫画家をするくらいなので私自身が物凄くディープなオタクだった。アニメ・漫画・映画・特撮・ゲーム・ロック・クラシックと多岐にわたってのオタクだった。漫画家仲間が作ってくれた精工なゴジラの指輪が宝物だった。ただオタクな男性が苦手だったのは経済的に困窮している男性が多いので元夫がエリート社員で経済的に甘やかされて生活していた私は貧乏が嫌だっただけだった。実に嫌な女である。

製薬会社の係長をしていた婚約者の話も皆にしていたし元嫁にストーカーされている事も話していたのでダメ夫も元ハイソな私に好意は持っても直接交際の話はしなかった。ダメ夫は元嫁に財産のほとんどの名義を変えられてしまい知り合った当時はその月の月給しかなかったくらい貧乏だったので私の事を「高嶺の花」だと思っていたらしい。

ただ嘘をつき出した。

オタクな私の気を引く為に例えば私が

「エアロスミスの復活は成功だったね。」

と言うとエアロスミスの事をネットで調べ私と話しを合わせるという具合に色んな知識をネットで集めた。

本当はファンでも何でもないのにファンのふりをして嘘をつき出した。

嘘だと見抜けなかった私はダメ夫を大事に扱うようになっていった。話の合う友達と勘違いしていたのだ。

やがてダメ夫の離婚が成立した。

ネットサークルが会員制になり関西の統括をダメ夫がやって私はそのサポートを任され二人きりになる事が増えていった。

どう説明してもこれを読んでる人には理解出来ないかも知れないが兎に角精神状態が普通ではない人たちの物語である。

私と特別に仲の良かった女性がダメ夫に好意を持ち始めた。誰が見てもわかるようにダメ夫のコップを用意し眼鏡を磨きダメ夫の傍にいた。ダメ夫と私が仲良くなってきた所だったので

「付き合ってるの?」

と何度も聞かれたが友達だと思っていたので仲が良いだけだと説明していた。

後で気が付いた事だがダメ夫は自分の事が大好きだったのでその女性の好意に気が付いて自分の事を

「モテている。」

と勘違いしていたのだ。モテてる自分が大好きだったのである。

そういう関係には敏感で勉強熱心だった。私がバイオハザードにハマっていた頃ダメ夫もゲーム機を買って攻略サイトをみながらさも自分で攻略したように私に言っていた。

私は騙され続けた。実際はダメ夫は大学の時に山下達郎のコピーバンドをしていたのだった。

二人の関係が変わったきっかけはネットサークルを作った会社の社長をしていた人がサークルを会社にする話を具体化した時だった。実際新宿にオフィスを借り携帯電話の販売や中国からの輸入などを始めた。

その頃私は婚約者に見切りをつけ別れてストーカー行為もなくなったところだった。

ダメ夫はその会社に勤める事になり年俸が700万になった。それを機会にダメ夫が結婚を前提に付き合ってくれと言ってきた。話も合う(と思っていただけ)し娘の事も何かと心を砕いてくれていたので私は快諾した。ただ結婚だけは嫌だった。元夫の事でさんざん嫁という者の苦労をしてきたからである。

問題はダメ夫に好意を寄せている女性の事だった。私は彼女が大好きで彼女も私と娘にタルトを焼いてくれたり料理のレシピを交換したり親しかったからである。ダメ夫の事を話すべきだったがダメ夫に相談すると

「統括と副統括がデキてたらやばいだろ?」

と反対した。実際の所ダメ夫は機敏で動きは速かった。その女性が自分の事を好きだという事が自分の事が大好きなダメ夫は良い気になりその女性にキスする真似をしたりボディタッチもしていた。私は交際わずかの間に

「え?」

と、思った。以後この

「え?」

が増えていく事になる。

周囲もダメ夫の行動やその女性の恋心があまりにもあからさまだったのでどうにかしてやれと私にだけ言ってきた。私以外はダメ夫の性質を見抜いていたらしい。

ある日私は決心して、二人の交際を公にしなかったら別れる。とメールを書いた。もちろん友人に嘘をついて交際している事も説明した上であった。

帰って来た返事に私は

「え?」

となった。君は娘が一番大事でその次に仕事その次に友人それから僕。僕のプライオリティーが低くないか?という内容だった。私は嘘をついている事を中心に伝えたかったのにダメ夫は今の楽しい状態(モテている俺)を優先したがっていたのだ。

暫く会わないようにしたら、今度は自分はスロースターターなので君の言う事は何でも聞くから交際を続けて欲しいとメールが来た。二人の仲を公にする事を条件に復縁した。ダメ夫に好意を持っていた女性には最近の事だからとお詫びをした。

新しい会社の事もありダメ夫と私と娘は東京に行く機会が増えた。会社は順調に見えた。オフィスでは多くの人たちがパソコンに向かって作業していたし社長の再婚相手もブランド物のバッグなどを集めはじめていた。

まだダメ夫の席はなかったが社長が係長クラスの待遇をすると約束してくれていた。会社がもっと伸びてからダメ夫を採用すると言っていたらしい。社長との会話はダメ夫からの情報だったので私は直接聞いた訳ではなかった。

ダメ夫が小さな広告代理店を退職した。

また

「え?」

となった。まだ決定した訳ではないのに会社を退職するとは。。

それと、本人にとってはすでに忘れている小さな

「え?」

があった。新宿をダメ夫と一緒に歩いていた時に左正面から顔中入れ墨とピアスだらけの若い男性が歩いてきた。都会育ちの私は気にかけてなかったがダメ夫は怯えてその人とすれ違う時に私をその人の方に突き飛ばしたのである。

転びそうになったが踏みとどまりぶつかりそうになったので「すみません。」「いえいえ。」で済んだ。

何をするの?と、怒ったがダメ夫はその人が見えなくなるまで黙って。いなくなったら何が?と問いただしてきた。突き飛ばしたでしょ? してない のやったやらないの水掛け論が続いたので嫌になって会話を打ち切った。

年度がかわった頃、社長の会社は凍結した。

説明では経理をしていた社員が会社のお金を持ち逃げした。という事だった。

しかし事実はその会社はダミーで、社長自身が財産と会社のお金を持って妻の故郷のフィリピンに高跳びしてしまった。

社員アルバイト数十名が露頭に迷った。社長は詐欺罪で告訴されていたのだった。事実を知りダメ夫に会社に戻るように言ったが聞かず自分でsohoを始めるようになった。

いつどうやって集めたのか300万で有限会社を作った。マンションを借りて社員を集めた。実際はデザインが出来るのがダメ夫だけで私はイラストやホームページの補佐。名刺印刷発送等の雑用を社員にやらせた。多い時で3人を雇っていた。大手の建設会社と仕事の契約はしていたので家賃くらいは支払いは簡単だったが社員の給料の出どころなどは不明だった。

その頃ダメ夫は犬を飼うと言い出した。私は自分も犬を飼っていた経験から反対した。料理もまともに出来ない男に犬の世話などは無理だと判断した。しかしダメ夫は、雄のボーダーコリーを買ってきてしまった。

返してきてよ。と懇願したがきいてくれなかった。

犬の世話くらいは自分でする。と、怒鳴り返してきた。私は手伝わない事を条件に承諾した。

最初は子犬を溺愛していた。毎日一緒に風呂に入り散歩をして世話をしていた。やれば出来るじゃんと思っていたが、長くは続かなかった。犬がいると仕事に夜集中出来ないと子犬とゲージ、トイレシート、餌を持って私のマンションに置き去りにしてしまった。

また

「え?」

だった。

元の飼い主素人のブリーダーさんとメールがつながったので返却しようとダメ夫に頼んだが預かってとは言ったが、あげた訳ではない。ときいてくれなかった。わずか二か月で子犬は私の家に捨てられたのである。うちには黒猫が二匹いたので物凄く迷惑だったが私は子犬をお風呂に入れて世話をした。何の罪もない子犬を見ていると辛かった。娘はあまり犬が好きではなかったので、子犬の立場は微妙になってしまった。何でも興味を持ちじゃれてくる子犬を猫たちが逃げ回ってきた。我が家がハチャメチャになっていった。

子犬の成長は早く我が家のテーブルを飛び越えた頃私は犬の世話は限界だとダメ夫に言った。ダメ夫は自宅のマッサージチェアに犬を縛り付け餌と水を置いた。犬は賢い。最初に世話をしていたダメ夫をアルファ、つまり飼い主だと決めていた。それは犬が老衰で死ぬまで続いた。

当時の私はまだ離婚のダメージから立ち直っていなかったのでダメ夫の言うことをよく聞いていた。結婚は嫌だったが、給料をくれるようになったダメ夫に頼った。マンションも大阪からダメ夫の自宅の近くのマンションに引っ越した。娘は相変わらずダメ夫に懐いてくれなかったが食事に連れて行ったりしてくれて色々と楽しい事を持ち込むダメ夫を認めるようになっていった。

くどいようだが私の神経はまだ普通に判断できるほど良くはなかったのである。この頃から私は統合失調症で投薬治療を受けるようになり障碍年金を貰う様になっていたのだった。

ようやく高校に合格して通学してくれるようになった娘だったが娘も盗癖や自閉症の症状、統合失調症で苦しんでいた。娘も投薬治療とカウンセリングを受けていたがやはり普通の子のようにはいかなかった。私の知らない所で学校内で窃盗を繰り返すグループに入っていた。

その頃に生まれたての猫を拾った。拾ったというかマンションのごみ箱に生後2週間程度の赤ちゃん猫が捨てられていた。鳴き声が続いていたのと次の日に台風が近づいていたので仕方なく子猫を保護した。すぐに子猫用のミルクと餌を買ってきて子猫の世話をした。

オフィスで仕事している時にダメ夫がまた

「え?」

な、発言をした。

元嫁バカだなぁ。俺と一緒にいたら社長夫人になれたのに。バカだなぁ。と何度も言っていた。ダメ夫からの給料はわずか8万だった。その程度の会社の社長夫人になって何が良いんだろうと思った。この発言は後々も時々聞く事になる。

犬はダメ夫のマッサージチェアに繋いだままだったので可哀そうになりせめてと思い散歩には連れて行った。ボーダーコリーの事を調べたら牧羊犬だった。走らせないといけないと書いてあった。犬はフリスビーが大好きで近くの公園に連れて行って教えた訳でもないのに犬はフリスビーを器用にジャンプして、フリスビーやボールをこっちに投げ返していた。とても賢い犬だった。ダメ夫に見せた所興味を持ち始め散歩とボールとフリスビーだけはするようになった。

しかし犬はスタートダッシュが激しく私なんかの力では抑えられなかった。ダメ夫が散歩のリードを犬につけても犬がぐいぐい引っ張るのでダメ夫は犬を蹴飛ばす様になっていった。

また

「え?」

だった。

餌はダメ夫の両親が与えるようになりその費用の請求をダメ夫にしていたがダメ夫は払わなかった。

また

「え?」

だった。

いつのまにか犬はダメ夫の両親のものになってしまっていた。優しい両親で犬を子供のように可愛がっていた。それだけが救いだった。

その頃だったと思う。会社に入社して来た女の子がとても可愛かった。基本的に人員選考はダメ夫と二人でしていたが私には言わずに雇ってしまっていた。

ダメ夫はその子には才能があると言って当時もう一人造形大学を卒業してきた男の子と給料に差をつけた。実際はその女の子は雑用しか出来なかった。嫌な予感はしたがダメ夫の言うことを聞くようになってしまっていた私は反対しなかった。当時は社員は二人だった。

「グアムに行くぞ。」

とダメ夫が言い出したのは年の暮れの頃だった。旅費は会社持ちだが社員の二人は雑費にお金がかかると言って喜ばなかった。女の子の方ははるばる明石から通勤していて将来絵描きになりたいと言っていた。広告代理店に勤めるのが夢だったとも話していた。二人はダメ夫よりも私を頼っていたので本音をあれこれ聞いた。

社員はお金がかかるとダメ夫はアルバイトを雇うようになっていたのだったが些細な事で首にしていた。二人ほど首にした時に二人の社員は社長は人間を粗末に扱うと愚痴を言うようになっていた。おそらく二人はやがて退社するんだろうなぁと私は考えていた。

グアムに着いた。ダメ夫は泳げないのでサングラスをかけて海岸にいた。私は社員の二人と楽しく遊んでいた。グアムでは日本語だけでも苦労はしないのだがレストランの予約やホテルマンとの対話は私が引き受けた。ダメ夫は海岸でもそうだっがあちこちでかっこつけていた。サングラスをかけて腰に手をかけポーズをとっていた。と私は社員の二人からきいた。まるで海外旅行は慣れてます。といった感じで車をレンタルして私に運転させてグアムの観光名所を巡った。グアムは初めてではなかったので車であちこちまわった。

次に来る

「え?」

は、とても大きな

「え?」

だった。女の子がダメ夫の事で話があると私に相談してきた。

明石海峡が見たいとダメ夫がその女の子を家まで車で送った時の話だった。ダメ夫は、君には才能がある。二人を辞めさせるから僕と一緒に会社をやってくれないか?貧乏はさせない結婚を考えてくれ。

と言ったらしい。

社長がやってはいけない事の一つをダメ夫は難なく破ってしまったのだ。私は泣きながら話す女の子を宥めながら何とかしてあげるからね。と約束をした。

ダメ夫が打ち合わせで遅くなった日私はビールを買って飲みながらオフィスでダメ夫を待っていた。私はあまりお酒は飲まないがその夜は飲まないとやってられない気分だった。ダメ夫が帰ってきた。

何を考えてるの?はぁ?二人を辞めさせる?結婚してくれ?あなたの事を気持ち悪いと言ってる女の子に何を言うてるの?パワハラ、セクハラで辞めると泣いてるよ?何考えているの?

私はありったけの言葉をダメ夫にぶつけた。

要するに面接に来た女の子に惚れて雇ったのだ。

ダメ夫は泣き出した。もう絶対にしません。と、子供のような言い訳しか言えないくらい動揺していた。

ダメ夫は起業して一儲けしたいという気持ちの他にただ単純に「社長」になりたかっただけと思った。ダメ夫の中では私は子犬を捨てたように飽きて捨てられる立場だったのだと思い知った。ダメ夫を少しは愛していたが愛はなくなり情だけになってしまった。

ここらへんでダメ夫と別れるべきだったのだが私は他の事の問題を抱えていた。女の子は次の日に辞表を書いて会社を辞めてしまった。

問題というのは猫が一匹、癌になってしまったのだ。安楽死させるかどうかひどく悩んだが獣医さんが治ると言ってくれたので治療を始めた。300万かかってしまった。父親に事情を話して援助して貰ったが足りずにダメ夫を頼ってしまったのである。貯金を全て使ってしまった私は漫画家の仕事と元夫からの送金とダメ夫からの8万と障碍年金で娘の学費と生活費と猫の病院代を賄っていたのである。

治療は1年ほどかかった。

その間にクレジットは使えなくなり金融会社からの催促の書類が来ていた。私は自己破産した。

その頃私はパチンコ依存症にかかっていた。ダメ夫がマンションを畳んで家で暮らさないか?と言ってくれたので娘の反対を押し切ってダメ夫の二世帯住宅の二階で暮らす事になった。ダメ夫がダメ夫なら、私もダメ人間だった。ただ結婚だけは嫌だと言っていた。

ダメ夫の両親は喜んだ。

とりあえず居住範囲を1階と2階に分けて2階の事はすべて私がやった。

結婚ならと条件を出していた。というかダメ夫が提案した条件だった。私の家事担当は料理のみ。掃除と洗濯にお風呂掃除はダメ夫。生活費と小遣いとして月に10万と会社の給料8万合計18万を渡す。そういう条件だった。

その頃、元夫が亡くなった。自死だった。ネクタイで首を吊って亡くなった。

元夫は私にとっては心に出来た大きな樹木のような存在だった。影を作ってくれ実りを与えてくれた。私は絶望して漫画の仕事以外出来なくなってしまった。そこで初めてダメ夫が優しい言葉をかけてくれた。「君のせいじゃない。」と何度も言ってくれた。

ダメ夫を信じてしまった私は結婚を承諾した。

当時義父が癌で自宅静養していたが階段の掃除をしたりゴミは細かく切って出したりとてもマメで優しい父親だった。義母も優しく料理を教えてくれたり一緒に宝塚歌劇に連れて行ってくれた。生活は順調に見えた。

娘は元夫の遺産を使いまくっていた。それが頭痛の種だった。娘は娘で心に大きな傷を抱えていたのを、私は見抜けなかった。娘は元夫のマンションに行った時に「なにさ、うちより良い家に住んで。」等と文句を言っていたからである。

料理と仕事以外、私と娘はパチンコをしていた。ダメ夫はそれを許してくれた。許すどころか一緒にパチンコ屋に連れて行ってくれてお小遣いもくれた。私はまたダメ夫を頼るようになっていった。娘は家を出てワンルームマンションに住むようになったがちょこちょこ電話をくれて「ママ遊びに行こう。」と言っていたので私は娘の部屋にもよく行った。二人でゲームやパチンコをして遊びなかなか働こうとしない娘に少し焦りを感じ始めた頃。

ダメ夫の父親が亡くなってしまった。

お葬式で私はまた

「え?」

を体験する事になった。

喪主になったダメ夫はお葬式の最後に亡き父へのメッセージをスピーチした。可愛がってくれた父親像を語ってそのうち涙を流し泣いてしまった。私も泣きながらダメ夫を慰めようとしたらダメ夫が

違う違う。今のスピーチに感動して泣いてしまった。あんな素晴らしいスピーチ出来るの俺しかいないよ。

「え?」

しか言葉が出なくなった。

実の父親が亡くなった事よりも自分のスピーチに感動して泣く男。これがダメ夫の真髄だった。自分が大好きなのである。

私のダメ夫への不信感が再び頭をもたげたのだ。

開けてはいけないと思ってしまい込んでいた、ダメ夫の離婚調停の書類を出してみた。そこには、妻へのセックス強要・暴行・長男への虐待。

とあった。

また

「え?」

だった。私は見なかった事にして自分の身を守る事を決心した。

ダメ夫は相変わらず犬を蹴とばしていた。仕事の事でストレスが溜まると私にも怒鳴りつけるなど八つ当たりがはじめっていた。顔を殴られもした。
何度も娘の部屋に逃げ込んだ。猫たちを連れて帰りたくない実家にも帰った。数か月戻らなかった日にようやくダメ夫が謝りにやってきた。

結婚してみてその人の離婚理由が判るとは皮肉なものだった。ダメ夫の元嫁は賢明だったのである。

そして遺産を使い果たした娘がダメ夫の家に戻ってきた。

そして娘は逮捕される事になる。

罪状は家宅侵入罪と窃盗だった。私は混乱もしたがいつかは来るような予感のしていた日だった。娘は数か月拘置された。毎日のように面会に行ったが食事が不味いとか何の肉かわからない肉が入っているとか文句ばかり言っていてあまり反省したとは思なかった。たまたま気の合う弁護士に当たって対話を続けてようやく反省の色が見えだした。執行猶予付きの前科一般に娘はなってしまった。

娘は拘置中に入れ知恵をつけられ出所後は生活保護の道を選んでしまった。

その頃私の携帯が鳴った。

ダメ夫が脳梗塞で緊急入院したという知らせだった。

急いで病院に行った。その頃一人だけ残ってくれていた社員も来てくれた。

ダメ夫は集中治療室にいたが面会は出来た。残している仕事の事ばかりを心配していた。社員の子に仕事の引継ぎを頼んでいた。手術はしなかった。一週間程でダメ夫は退院した。軽くてよかったと思っていたがこの脳梗塞が後々酷い事になるとは考えていなかった。

仕事に復帰したダメ夫だったが会社の状態が悪くなっていった。契約していた大手の建設会社がダメ夫に仕事を頼まなくなっていった。残った社員も辞めさせてダメ夫は家賃の安い場所を見つけてそこで会社を続けた。

結婚の条件を一つも守らなくなったダメ夫に見切りをつけて私はゴルフ場のレストランで働く事にした。漫画の仕事はまだなんとかあった。ダメ夫は中古のバイクを買い車は私のものになった。

不幸は続くものである。ゴルフ場の仕事の帰りにまさかのJAFに追突されて私はむち打ちになってしまった。動けなくなってしまったのだ。

統合失調症を悪化させていた私はついに漫画の仕事を手放してしまった。机にしがみ付いて右手に包帯でペンを固定させて漫画を描いていたがもう下書きもできなくなってしまった。20年の漫画家生活が終わった。

そのすぐ後にまた私は

「え?」

を体験する。

ポールマッカートニーの日本ツアーが決定したのだ。ビートルズファンのダメ夫は手早くチケットを買い一緒に行こうと誘ってきた。あまり乗り気しなかったが(私はビートルズが何となく嫌いだった為)たまには夫婦で出かけるのもいいか?程度に考えていた。

ネットにもまだ残っているキーボーダーが最初の1音を間違えた、歴史に残るライブだった。

ライブが終わるとダメ夫が泣き出した。大好きなポールを観られた事が嬉しかったのだろうと思って良かったねポールのライブ観れて。となぐさめたが返ってきた言葉に私はまた

「え?」

となった。

ダメ夫は違うなんであそこに立ってるの俺じゃないの?ポールなの?俺の方が格上なのに何で?何で?

と涙をぽろぽろ流しながら悔しがっていた。大学時代山下達郎のコピーバンドにいただけの男のセリフとは思えなかった。ポールより格上って何?ダメ夫リサイタルに客が集まるか?バカじゃね?と思った。

私は交通事故の後遺症で右手に力が入らなくなっていた。レストランのパートは首になってしまった。お鍋も持てなくなってしまっていたから。歩く事も少し不便になってしまった。病院に行ったがリハビリはしてくれたが交通事故が原因だとは医師は言わなかった。事故の裁判は長く続いていた。

私の事を可哀そうだと思ったのかダメ夫がバリ島に旅行に行こうと言い出した。火山の噴火もなくバリ島にはスムースに着いた。ダメ夫が泳げないので、一人で泳いだ。地面では歩くのがやっとと言った感じだったが海の中では自由に動けた。私は良い気分になった。プールサイドのベッドの上でドリンクを飲みながらゆっくりと雲が流れていく様子を見て私は癒された。贅沢な時間だなぁと思った。
隣で寝転んでいたダメ夫をみたらスマホを触っていた。しかもアイドルグループの動画を観ていた。私の心は日本に帰国してしまった。

小さなオフィスで仕事をしていたダメ夫だったが、ある日、電話がかかってきて

「助けて」

と言ってきた。

慌ててダメ夫のオフィスに行ったら左膝を血だらけにしたダメ夫がいた。バイクで転んだらしい。急いで病院に連れて行った。その病院が藪医者だった。打ち身・傷。と診断された。

傷が治っても歩く事が大変そうなダメ夫を連れて神戸の外科を訪ねた。何と左膝靭帯切断だった。緊急手術をした。

ダメ夫はギプスで固まったままだったので介護が必要だった。トイレの世話から看護師に指示を受けて私はダメ夫の介護を毎日した。リハビリを頑張ればまた普通に歩けるようになりますよ。と医師は言ってくれたがダメ夫は努力が大の苦手だった。

その頃である。入院中の健康診断で心臓肥大で引っかかったダメ夫は慢性腎不全になってしまっていた。透析が必要だった。

退院したダメ夫は娘が出て行ってしまったので、自宅の2階で仕事をするようになった。が簡単なミスが増えてきて仕事がどんどん無くなっていった。心配になり脳外科に連れていったら脳梗塞の後遺症で痴ほうが始まっているとの事だった。

その頃、またまた私は

「え?」

を体験する。

仕事の規模の割には贅沢をしていたダメ夫だったが在り様は義父つまりダメ夫の父親の退職金をかなりな大金をダメ夫は借りて返さなかったのである。道理でダメ夫の父親が亡くなった後会社を縮小した訳である。社員の給料も車も義父の退職金で賄っていたのだ。

ダメ夫の事故の保険金が早くおりたので何とか暮らせたが将来の展望は何も見えなかった。ダメ夫は家の財産を全て使ってしまっていたからである。

その頃警察から電話がかかってきた。娘がまた何かしでかしたのか?と思ったが、しでかした事は自殺未遂だった。自宅のマンションから飛び降りてしまったのである。娘にしては丁寧な文章で私に感謝しているという内容の遺書を残していた。

娘は助かったが重篤な後遺症が残ると言われた。

私の心はカラカラに乾いてしまった。

私の事故の裁判が終わり保険金がおりた。それだけが頼みの綱だった。

足が不自由になってしまったダメ夫と私は作業所を見つけて働くようになった。ダメ夫は仕事中居眠りばかりしていた。やがてダメ夫は働く事を辞めてしまった。障碍者年金だけで過ごそうと思ったらしい。

私は毎日娘の病院に見舞いに行ったが傷が治ってきて言葉を話すようになった娘の変わりように絶望してしまった。失語症になり幼児のようになってしまった。

頼みは年金だけだったがダメ夫は自分を律する事をしなかった。たばこを1日4箱も吸いケーブルテレビの有料チャンネルの映画を毎日ザッピングしていた。クレジットで何でも買っていた。借金が膨れあがっていた事を私は知らなかった。

やがて娘は病院から施設に移った。

リハビリのおかげで私は歩けるようになっていったがダメ夫は歩く事も拒絶してしまっていた。透析を嫌がった。透析の日は行くように促す私を蹴とばしたり殴ったりした。力もなく弱い暴力だったがプライドが傷ついた。ダメ夫に対して愛どころか情もかなり薄くなりシェルター入所の相談に行ったりもしていた。

ダメ夫の痴ほうは日を追うごとに酷くなっていった。ある日は車のホイールを持って道端にいた。当て逃げしたらしく、警察に捕まり罰金を払わされた。車を運転する事も出来なくなってしまっていた。

義母はそんなダメ夫を可哀そうだと言っていた。元々甘やかして育てていたのでダメ夫の世話を義母がするようになった。欲しい物を買ってやりたばこも用意してタクシー代も払っていた。

せめて歩くリハビリだけでもしてくれたら少しはダメ夫を見直したかも知れない。実際ダメ夫を手術した医師も靭帯切断からリハビリで普通に歩けるようになっていたからである。しかしダメ夫は辛い努力は一切しなかった。私はダメ夫を見放した。

ダメ夫は弟が暮らしていた部屋にベッドを置いてもらい1階で暮らすようになっていた。私は2階で暮らして家庭内別居生活が始まった。私は家庭内別居のつもりだったがダメ夫は母親の傍に居たかっただけで私の気持ちを何も考えてくれなかった。

借金が利息だけでも返せられないくらい膨れ上がった頃義母はダメ夫と私に成年後見人をつけた。借金は何とか200万程度に落ち着き返済する事となった。

私の作業所の工賃以外は三人の年金だけで暮らす生活も始まった。娘の事もあり私はお金が入るとパチンコに依存していた。

ダメ夫は過食になり、1年で体重が10キロも増えてしまった。一日のほとんどをパソコンの前で過ごしていた。画面を見てみるとエロ動画ばかり観ていた。本気で呆れた。

朝起きるとカップ麺がテーブルにまき散らされていたり飲み物をとった後冷蔵庫を閉めないので警告音がキッチンで鳴り響いた。わさわざ2階まで来てお茶入れて。と、頼むようになった。お風呂を暇らしく毎日数回入っていた。衣服はもちろん脱ぎっぱなしで洗濯して畳んだ衣服を自分の引き出しにしまってと頼むと衣服を私に投げていた。

義母がダメ夫の世話を私にもするように言ってきたので仕方なく老人介護のような毎日になってしまった。

私から見るとすぐに癇癪を起すダメ夫を怒らせないように義母は暮らしているようにしていた。癇癪を起すとダメ夫は義母に「お前、出ていけ」と、怒鳴って物を投げていた。世話をしてもらうのが子供の頃からの習慣で当たり前だと思っているのだった。

通帳もカードも後見人が預かっているのを理解出来なくて旅行に行くと言って(透析の為旅行は不可能)銀行からお金を引き出すから車で連れて行け。と連日言われた。説明しても理解してくれず銀行まで連れて行き銀行の行員には理由を言ってカードの再発行はすでにカードがあるので出来ません。と何度か説得されにわざわざ銀行まで行った。

年金だけでは車の維持は無理なのと私は運転ミスから車を壊してしまったので結局車は手放した。もう中古を買うお金もなかった。しかしダメ夫は車を諦めなかった。年金全額欲しい物に入れていたダメ夫は貯金があると信じていた。その頃はダメ夫の小遣いは月に1万円だった。それを貯金しているからと思い込んでいた。ネットで中古車専門店に連絡したりある時は自分で電話をして車を注文していた。そういう能力はあった。痴ほうの度合いは分からなかったが本管の部分が壊れたしまっていて自分の欲望に関する事に対してはごくごく普通だった。中古車業者からの電話を義母が事情を話して車の注文をキャンセルしていた。

いたちごっこが続く。

ある時は大便をもらしたまま透析から帰ってきた。靴が汚れていたのでお風呂場に行くと大便だらけの衣服が脱ぎ捨ててあった。

薬も飲まなかった。毎日4~5回食事をしていた。義母がダメ夫のいいなりだったので普段の食事以外のものを冷蔵庫に入れるようになった。ダメ夫は現金がないだけで以前と変わらない贅沢な生活をしていた。タバコ代も食事代も義母が出していた。私は年金から生活費は入れていたが毎日のように義母から愚痴をきかされるようになっていった。

そして必ず言うのは

「あの子は優しいし働き者よ」

だった。

今度は、義母さんの言葉に

「え?」

となった。

私もバカな娘に振り回されてきたがダメ夫もバカな子ほど可愛い状態になっていたのであった。

新型コロナウィルスが流行り出した頃世間は戦慄したがダメ夫はマスクを嫌がり外出もマスクなしで行っていた。近所の車屋まで車を注文に行ったのだ。そういう時だけ歩けた。

車屋さんから後見人に連絡があり後見人から自宅に連絡があった。事情を説明して何度も(三日と開けずに行っていた為)ダメ夫を迎えに行った。マスクをしないと迷惑だからと説明してマスクを渡すと私にむかってマスクを投げつけていた。

ダメ夫が透析を受けている間だけが心が休まる数時間だった。昼夜逆転していたダメ夫は2階まで来て真夜中でも私に用事を言いつけた。働いていると説明しても無駄だった。自分の思い道理にならないと殴ってきた。

義母はダメ夫が新聞を読みたいと言えば新聞をとっていた。ダメ夫は義母のIDでネットの映画を観るようになっていた。

家の中はダメ夫の天下になってしまった。

エロ動画を続けてみると心が高まるのか夫婦生活を求めた。腎不全の患者にありがちなEDになっていたが時間をかければイケるのに味をしめたダメ夫はしょっちゅう体を求めてきた。本当に嫌だった。拒絶すると離婚すると騒ぎ正直もう幼稚園からやり直せ。と思うようになった。

透析しはじめてまだ数年だが腹膜透析をはじめたら寿命が長くない。と医師に言われた。透析している間は生きているんだろうなぁと思うと悲しかった。今はダメ夫の遺族年金だけを希望に世話を続けているという所まで二人の仲はこじれてしまっている。

死が二人を分かつのか私が耐えられなくなって別れるのか今は何も得策はないがこれだけは先に言っておきたい。

さらば、ダメ夫。

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