自閉症と生きるということ

ひいらぎ

38歳の時に私は自閉症の確定診断を受けた。ショックだった。まさか
喋る自閉症がいるとは思わなかったのである。きっかけは娘の幻覚だった。

「ママ、お風呂場に生首がある。」

と怯えていたので、児童精神科に連れて行った時だった。

娘は自閉症の二次障害で統合失調症になっていた。私の言動がおかしいと
娘の主治医に言われ知能検査を受けたところ私もまた自閉症の二次障害の
統合失調症と診断された。

記憶を辿っていくと一番古い記憶は赤ん坊の頃だった。紫のベッチンのおぶい紐の
端を舐めていた。人によっては生まれた日の事を覚えている人もいるみたいだ。
三島由紀夫などそうだった。私の記憶は断片的だが確かに赤ん坊の頃の事を今でも
覚えている。洗濯機があって、ローラーで水分を絞るタイプの物だった。
母親の背中から垣間見た記憶である。

私は2歳くらいの頃に文字を覚えた。新聞の文字を鋏で切り取って、自分の名前を
並べたりして遊んでいた。両親は賢い子供だと喜んでいたみたいだった。
3歳の頃は読み書きが出来ていた。漢字はまだ読めなかったが新聞を読んで何が
起こったのかなどと会社から帰宅した父親に教えていた。
遊びは近所の子供たちとも遊んだがひとりで遊ぶのが得意だった。
バケツに水を入れて二つ並べて、ひとつは日向ひとつは日陰に置いておいてテレビを
観て時間をつぶし温度を測ったりするのが好きだった。

隙間がありそうな石ころを拾ってきて一晩バケツの水の中につけておいて一日冷凍庫に
入れたら次の日には石がボロボロと壊れてしまう実験などしていた。

近所に工事現場があり工事がない日は石ころを集めに出かけていた。重機も好きで
工事現場を見つけると喜んで眺めていた。

鉱石集めと小動物の飼育などで遊んでいた。ザリガニやカエルの卵私が幼かった頃の
大阪市ではまだ自然が残っていたのである。カエルの卵はオタマジャクシになるまで
熱心にイラスト等を描き毎日日記をつけていた。カエルになると飼えないので池に
放していた。

家には白い犬がいてシロという名前だった。ある日父親に

「ねぇ、パパなんで犬っていぬっていって、犬が居るの?」

と、難解な質問をしていた。父親にあしらわれた記憶がある。

私が4歳の頃に母親がフルタイムで正社員として働きに出る事になった。初めのうちは会社の
社員住宅が隣接していたのでそこで過ごす事になった。テレビもなく暇なので箒の藁をちぎって
魚と貝と釣り竿を作り、魚釣り遊びをしていたがあまりにも暇だったので私は母親についていくのを止めた。

両親の考えがどうだったのか分からないが4歳にしてひとりで留守番をする事になった。
当時保育園が近くになかったのか保育園がなかったのか解らないが家に放置された。

朝起きてキッチンに行くとお握り二つと20円が置いてあった。お握りを食べて洋服に着替えると
テレビをつけていた。テレビも大好きだった。兄姉が学校から帰ってくるまでテレビを観たり20円で
駄菓子屋に行ったりしていた。

新聞でアニメや特撮をチェックするとその時間まで外に出て遊んでいた。近所には5人ほどの子供がいて
お手玉やビー玉、ビーズ等で遊んでいたが、やはり一人遊びが好きだったので石ころを集めに行ったり
三輪車を逆さまに置いて飽きるまで車輪を回していた。とにかくクルクルと回る物が好きだった。
新聞紙も好きで古新聞とセロハンテープ、鋏があれば何時間でも飽きずに遊んでいた。

新聞を切って輪にしてセロハンテープでくっつけてメビウスの輪なんかを作っていた。絵を描くのも好きで
漫画の真似事を始めた。

両親は喧嘩ばかりしていてうっぷん晴らしのように母親からよく殴られた。うちの両親は残念ながら子供を
あまり大切にしなかったので何が原因で親の言う躾をされているのかが分からなかった。母親の暴力が酷く
近所の人が止めに入ったりしていた。その時に母親は必ず躾ですから。と言っていた。

5歳の頃両親の離婚話が持ち上がり母が兄を引き取り父が姉を引き取る事になった。邪魔な私は叔母の家に
捨てられた。その時に生まれて初めて自分は必要のない人間なんだと思うようになった。

しかし叔母の家は居心地が良かった。暴力から解放され好物な食事だった。ダックスフンドを飼っていて
叔母が

「今日からママって呼んでね。」

と言ったので叔母を母親だと思うようになった。叔父も優しかった。叔父の事はパパと呼んだ。

ダックスフンドが懐いてくれたので毎日が楽しかった。食事が楽しみだった。朝起きるのも
楽しみの一つだった。

しかし離婚を取りやめた両親が迎えに来てしまった。叔母の膝の上で遊んでいたが母親が鋭く

「こっちに来なさいっ。」

と怒鳴ったのでまた殴られるのかな?と怯えて、母親の膝に座った。

大人になってから何故私を叔母の家に捨てたのか?と、母親に問いただした事があったが母親は悪びれもせずに

「叔母さんの家は貧乏だからうちで育った事に感謝しなさい。」

と言った。

幼稚園に入園したのだが大勢の子供がいると混乱してしまった。制服を着て決まった椅子に長時間座っていると
イライラしてきて現実逃避の為にハンカチを折り曲げて指人形を作って一人遊びをしていた。それを幼稚園の
担任が取り上げてしまった。それをずっと恨みに持って卒園の時にみんなが先生大好きと書いていたのだが
私だけ先生嫌い。と書いた。それを見た担任の先生が泣いたらしい。母親から聞いた。

どう説明すれば良いのか分からないが大勢人がいるとあちこちに気持ちを取られるようになってしまって
混乱してしまっていた。

先生の言う事が理解出来なくなってしまっていた。私はかなり大人な子供で大人の都合を理解していた。
こういう時はこういう行動ああいう時はああいう行動。と割り切って大人の言う事を聞くようになっていった。
ただ何か少しでも変わった事があると混乱してパニックを起こしていた。頭の中がフリーズして耳鳴りがした。
ルーティン作業は得意だったが変化に弱かった。

パニックは腹痛に繋がってしまい小学校に入ると保健室にいる事が多かった。

自宅の隣で暮らしていたクラスメイトが唯一の友達だった。頭の良い子供で先回りして私の世話を焼いてくれた。

小学校に入学してから本が大好きになり教科書はほとんど暗記するまで読んでしまった。それだけでは足りずに
学級文庫や、図書室に通うようになった。

教科書を暗記していたので成績はほぼトップクラスだった。テストの点は良かったが学習時間の過ごし方を
いつも担任の先生に注意されていた。

みんなで一緒に何かをする。これが一番ハードルが高い事だった。混乱して何をどうすれば良いのか
分からなかったのである。

席替えも苦手だった。方向音痴で、自分のクラスもやっとこさ覚えていたのに、席まで変わってしまったら…。

「何年何組の何番。」

という感じの覚え方をしていたが、ち密に頭には入っていなかった。

方向音痴の上に運動も苦手だった。縄飛びだけならずっと飛びっぱなしなんか出来たのだが器械体操が苦手だった。

整列など出来なかった。担任の先生には場を乱す列を乱す。と、評価されていた。通知表には低学年の時は

「お友達を大切にしましょう。」

と書かれていたが、中学生の頃から

「協調性がない。」

と6・3・3と12年間、書かれ続けた。

人間にあまり興味がなかったので教育者にとっては扱いにくい子供だったのだろうと思う。

小食で好き嫌いはあまりなかったが白米が苦手だった。いつも夕食が憂鬱だった。副菜を先に食べてしまうので
お腹がいっぱいになってしまった。ふりかけ等使えば食べられたのだが両親はそれを許してくれなかった。
お腹がいっぱいになると涙をぽろぽろこぼしていた。お米を無駄にすると、毎日殴られた。

体も弱く扁桃腺炎を持っていたので小さい頃はすぐに熱を出し学校をよく休んだ。熱でふらふらしながらも
教科書を暗記する時間が楽しかったのを覚えている。シロがいてくれたので孤独ではなかった。
頭の良い犬で幼い頃は母親からのいわゆる躾から逃げる為に犬小屋に逃げた。シロは私の事を子供と認識してくれたので
母親に向かって吠えていた。母親は犬が苦手だったので私が犬小屋に逃げ込むと手を出すのを諦めていた。

やがて扁桃腺炎が悪化し成人までに死ぬかもしれないと診断された私は手術を受けることになった。

年の離れた従姉妹が看護師をしていた事から私は従姉妹の家に預けられた。従姉妹の家でも幸せだった。
犬はいなかったが束の間の躾と称した暴力から逃げる事が出来たからである。従姉妹の夫は料理好きで優しく
とても大切にしてくれた。

ひと月ほど病院に慣れる為に学校を休んで毎日病院に行った。念のために血液を溜めていた。手術で輸血になったら
自分の血液が良いと医師から説明を受けた。

丁度10歳になった頃だった。

手術は恐ろしかった。医師は子供にでも分かるように手術を説明してくれたが全身麻酔ではなく局部麻酔だという事が
恐ろしかった。

「先生、口をずっと開けてるの?」
「いくつ数えたら終わる?」

手術台の椅子を見せてもらったがまるで拷問椅子に見えた。部屋に帰りベッドで泣いていた。

手術後2~3日は水しか飲めない事を聞き差し入れに貰っていたプリンの缶詰を全部食べてしまった。
看護師さんたちは呆れていた。

手術は文字通り拷問だった。恐怖で気絶しそうになると起こされ口は開けたままだった。今考えれば随分と乱暴な
手術だったなぁと思う。喉の奥を切り取るのだ。メスの音としっかりしなさい。口を開けてっ。等
看護師さんの声しか覚えていない。

あまりの恐怖にすっかり人間不信になって手術後部屋に戻った。車椅子である。

人間不信になった私は入院中ほとんど誰とも口をきかなかった。それほどの恐怖体験だったのである。

だが手術の甲斐があって私は少しずつ健康体になっていった。第二次成長期だったのもあるが食欲も並みになり
ガリガリに痩せていた体に脂肪がつきはじめた。半年ほどで苦手な器械体操もましになっていっていた。

私には数年ごとにマイブームがやってくる。

その頃のマイブームは家にガスオーブンが入ったのでケーキやシュークリームを作る事だった。

卵を毎日20個ぐらい使っていた。ケーキを平にする為にてっぺんを切り落とすのだがそれをシロにあげていたら
シロが太ってきてしまった。

私の実家は躾と暴力はあったが両親共に給料がよくお金には甘かったのでケーキを作るのに必要な物は
全部買ってもらっていた。

健康体に近づきはじめた私は父親の影響で剣道部に入った。夏はレモンと蜂蜜を沢山買ってもらい
蜂蜜レモンを作って持って行っていた。変わらぬマイブームは絵を描く事。人間が嫌いで協調性のない私が
イジメのターゲットにならなかったのは漫画を描くのが上手かったからである。

よく先生たちの似顔絵を頼まれた。ノートを買ってきて漫画の連載を頼む同級生がいた。

それとロックだった。

小学校低学年の頃に年の離れた従兄弟から聴かされたディープパープルのバーンにはまりビートルズや
ローリングストーンズやカーペンターズ色々なロックやポップスに魅了されていた。中学生になると
食事の支度の当番になった。色んな料理本を見ながら夕食を作っていた。代わりのようにレコードやステレオを
買ってもらっていた。

母親からの躾は相変わらずだったが剣道部に入って筋肉のついてきた私は母親が殴ろうとした手を受けて
腕をねじ上げた。

「痛い痛い。」

と母親は泣きそうになっていた。その後、暫くは殴られずに済んだが次からは傘やゴルフクラブといった
武器を使うようになっていった。

さすがに中学生になると母親の言う躾とは、自分が怒っているから殴りたいだけだと気が付いたので私は
母親を許さなかった。

兄の事もあった。私は小学校高学年から、兄から性的虐待を受けていたのである。母親に言うと助けてくれる
どころかキッチンから包丁を取り出して

「学校の先生や他人に言ったら殺すからねっ。」

と脅されていたのだった。

現実逃避からタバコを吸うようになっていた。最初は父親のタバコを盗んで吸っていたが中学生になると
食費を渡されていたので、セブンスターを買って吸っていた。残りはゲームセンターで悪友たちと使っていた。
わかりやすく言うと中学生の頃はグレていたのである。だがそれより先に姉が荒れ狂っていてバイクを
乗り回したりしていたので両親の関心は姉に集まり私の非行行為は目立たなかった。

食事さえ作っていればかなり自由にできたので、私は喜んで炊事を引き受けたのである。

それとシロの事もあった。シロはフィラリアを患ってしまったのである。

幼い頃からのただ一匹の友達だった。私は毎日のように歩けなくなってきたシロを負ぶって、獣医に連れて行った。
腹水が溜まっていたので、水を抜いてもらったが、水を抜くとシロはガリガリだった。

ある日、家の近所で同じ中学の上級生がシロに石を投げていた。

「ガリガリの犬やーっ。」

怒った私は走るようにして上級生の男子生徒ふたりに向かっていきカバンをとって中身を幹線道路にぶちまけ
蹴とばしていた。

ふたりの上級生は泣きながらカバンの中身を集めてカバンに入れていた。

シロは外犬だったが病み衰えるようになると家の中で飼った。食欲が極端になくなってきていたので食べて
くれるものは少しずつでも気長に食べさせていた。その冬はなんとか持ちこたえてくれたが、春を待たずに
シロは死んだ。最期の最期は自分が鎖でつながれていた裏庭に戻りしっぽをふりながら倒れた。
尿を少しもらした後すでにシロではなくなった事を知った。シロは中型犬だったので大き目の段ボール箱に
お花をしきつめ動物のお寺に父親が連れて行った。

シロを失った私はもっと荒れた。食事を作らないとお金をもらえないので食事は作っていたが、だんだんと
手を抜くようになりしまいには食事を作らなくなっていった。タバコとゲームセンターが心の支えだった。
勉強をするのを止め公立大学を目指していたが諦めてレベルの低い高校に進学する事にした。

その決断に怒った両親は一晩中私を寝室で正座させていたが私はくじけなかった。教科書を暗記しての勉強に
限界がきたのと高校に入学するとバンドをやりたかったのと、漫画家になるのが自分との最期の約束だったからである。
その頃の私にはもう夢なんかなかった。ただ単に漫画家になることが自分の人生のゴールだと思っていたのである。

学校の担任もその決断に戸惑っていた。その当時流行った中学校を舞台にしたドラマをまるで信仰するかのようにしていた担任は
私の事を

「腐ったミカン」

と言い、受験の最終地点にいたクラスメイトから生まれてはじめてのイジメに遭った。

私は私でシロの事で頭がいっぱいでいじめられていても割合平気だった。それにイジメ方も稚拙だった。ホームルームで私の
悪口を言いあう感じのイジメ方だった。担任も、もちろんグルである。

何をどう弁明しても答えは決まっていたので私はあえて無言をつきとおした。

イジメ甲斐のない私のイジメは受験の頃には誰も何も言ってこなくなった。

受験の日私は早起きして可愛らしいお弁当を作った。そしてその日かかる費用を親から小遣いとしてもらい、高校へと向かった。

中学で別れてしまっていた友人が受験生の中にいた。良い予感がした。

しかし一番大事な受験票を忘れてきてしまっていた。家が中学校と近かったので先生が家に取りに行って高校まで持って来てくれた。

高校にはほぼトップで入学した。

高校生活は楽しかった。ロックファンだった私はヘアスタイルが決まっていた中学は嫌だった。入学が決まった春休み美容院で
バンドをしているようなヘアスタイルに変えてもらった。食費として毎月3万円貰っていたが同人活動での収入とアルバイトで
貯めたお金でエレキギターを買った。フォークギターと、ピアノは家にあったのでどうしてもエレキギターが欲しかったのである。

ある日大手の出版社に漫画を投稿したところ佳作を貰った。賞金も入り、シンセサイザーを買った。

後少しで漫画家になれると思った私は当時正式なクラブではなかったが、アニメ・漫画研究会に入部をした。出会いが色々あった。
それと音楽雑誌でメンバーを募集していたバンドに加入した。募集していたのは後の夫となる大学生だった。

コンサートにはよく行っていたが高校になるとライブハウスやディスコによく行くようになった。

弦楽器は奏者を選ぶという話をきいた事はあったが私はすぐに自分にギターの才能がないのに気が付いた。絶対音感はあったが
プロになるのなら漫画家だと思った。自分との約束であった。

ある日バンドの練習の後リーダーの大学生に服の端っこを引っ張られてカフェに行こうと誘われた。目鼻立ちがしっかりとした
端正な顔立ちをしていた。祖母がアイヌの出身だという事で日本人離れした顔立ちをしていた。ただ田舎から出てきた貧乏学生で
服装も髪型もダサかった。偏差値の高い大学に通っていたので一目おいていたがまさか向こうから交際を求めてくるとは思って
いなかったので私は交際を快諾した。

他人に愛された事がなかった私は恋愛に夢中になった。彼からは色んな学びがあった。読書にせよ音楽・映画、細かいところまで
分析してみせた彼を尊敬した。優しかった。親に愛された事がなかった私は彼に父親像を重ね合わせ将来結婚するならこの人。と決めていた。

ただ彼には私と同様の風変りなところがありまさか同じく自閉症であるとは考えもしなかった。彼はお酒が大好きでお金が入ると
大酒を飲んでいた。酒乱もあり大学の学祭の時にお酒を飲みすぎて屋台を壊したりしていた。それが後に結婚生活を辛いものにするとは
考えてなかった。

彼にはどこか万能感があり自分は人間の中では優れていると勘違いをしていた。夢は自分の音楽を聴いた人の精神分析を医師としてやり
それを小説家として小説を書くのが夢だと言っていた。その原動力としてお酒を飲むのだと言っていた。

お金がなかったからあまりお酒は飲めなかったが、中学生から飲酒を始め大学生の時には立派なアルコール依存症になっていた。

ギターも上手くはなかった。お酒で指が常に震えていた。作曲をする事もなかった。

一方私は高校の中で結成したバンドでドラムスをする事になっていた。学祭用のバンドだった。キーボードで参加したかったが
ドラムを叩ける人がいなかったので、じゃんけんで負けてドラムスになった。当時の私の部屋は広かったので両親にお願いをして
レンタルでドラムセットを組んだ。先輩でドラムの上手な人がいたので彼氏のバンドにも加入してもらいドラムのノウハウを色々と
教えてもらって毎日練習をした。

高校時代は毎日が充実していた。深夜までのレストランのアルバイトと親からもらうお小遣いと同人での収入で毎日遊びに
出れるくらいお金があった。ライブハウス巡りをして、憂歌団のおっかけなどしていた。

始発で帰ってきていたので学校には眠りに行っていた。成績はもちろん、どんどん落ちていった。さすがに高校になると
教科書の丸暗記だけでは良い点はとれなかったのである。独学の学業は通じなかった。それでも何とか赤点にならない程度の
成績を残せた。

学祭では最後の曲でドラムソロを入れて拍手喝さいだった。アンコールがあったが他のメンバーはびびってアンコールに
出ることはなかった。体育館で200人くらいの人の歓声をきいた。多分バンドや音楽家はそれが癖になっているんだろうなぁと
客観的に見つめていた。学祭が終わるとバンドは解散した。

彼氏のバンドでもキーボードをやっていたが一方でマネージャーのようなこともしていた。楽器屋さんと仲良くなっていたので
月に一度は仕事を貰えていた。多くは会社のパーティーのバックバンド。夏には盆踊りの前座なんかしていた。何とか全員の
スタジオ代が出せる程度の仕事はあった。

彼氏はプロを本気で目指していたらしい。オリジナル曲などないのに夢だけは大きかった。

その頃はまだプロの漫画家を目指していたのではなかった。佳作は貰ったが、連載など夢のまた夢だった現実に心が折れそうになっていた。
しかし、編集部から年齢がまだ若いという所で将来性はあると評価されていた。

美術の授業で母親のデッサンをした所美術の先生に呼ばれて美大が芸大を目指しては?と、アドバイスを貰っていたがそれは無理だった。
長兄が偏差値の低い大学しか受からなかったので長兄より偏差値の高い大学は特に4大は親が許してくれなかったからである。
その為、私は偏差値の低い高校を選んだ。勉学は高校までと決めていた。

学校のクラブでは美術部と張り合っていたが私の画力で美術部の仕事をほとんどを奪っていた。先輩たちに重宝された。

同人でも特別扱いをされていた。きちんと原稿料が出た。私はそれだけで満足だったのかも知れない。

当時のマイブームはガンダムだった。プラモデルを集めて映画を観に行ったり、セル画を描いていた。腕試しにアニメの制作会社に
セル画を送った所仕事がきた。しかし1枚100円程度の仕事に30分かかるのでアニメーターは諦めた。

私が通っていた高校は地元では

「極道養成学校」

と呼ばれるくらい荒れた高校だったので生徒が制服のままタバコを吸い、パチンコ屋で遊んでいても誰も注意をしないくらいだった。
私もよく授業をさぼってパチンコをしていた。丸い銀色の玉に魅了されていた。玉がはじけ飛ぶと心が躍った。他人の台を飽きずに眺めたりしていた。

学校の先生の中では、やはり相変わらず私は扱いにくい生徒とされていた。学校には単位ぎりぎりしか来ないのに別にぐれているわけでもなく
英語や国語だけは成績はトップクラスだった。担任を誰もが嫌がった。3年生になる時に希望のクラスに行けずに2年生の時の担任のクラスになった。
先生にきいた所、担任を皆がしたくないと言うので自分が引き取る形になったらしい。

生物の授業だけは出ていた。生物の先生と仲良くなって授業をさぼった後学校に来て、授業中は廊下を歩けないのでよく生物室に匿ってくれた。
大型のビーカーでインスタントラーメンやインスタントコーヒーを作ってくれた。

しかし、3年生になるとさすがに担任が焦った。成績は凸凹。単位はぎりぎり。進路指導をしてくれてもアルバイトします。
と言っていたので担任が頭を抱えていた。

やがて両親との関係が最悪になってしまったので、もちろん兄の事である。私は病院で当時分裂症。今でいう統合失調症に掛っていた。
医師のアドバイスで家族と離れて暮らしたほうが良いと言われていたので私は働かないといけなくなっていたので進路を卒業間近で専門学校にした。
進路をサラリーマンに決めたのだった。

親は専門学校のお金だけをくれた。独りで貯金してアパートを借りた。親に捨てられるのは2回目なのでどういう事もなかった。

私が料理を出来る事でアパートには元クラブの仲間がよく集まった。皆家庭に事情があり家に帰りたくない若者が集った。
アルバイトをかけもちして部屋に帰ると誰かが玄関で待っていた。食事を作って食べながらアニメや漫画や特撮の話をしていた。
大変だったが充実もしていた。

私はバブル世代なので就職は活動という活動をしなくても一発で合格した。夏休みから働く事になった。そこで上司に一目惚れをしてしまった。
悪い事とは思ったが、彼氏と別れてしまった。私を自分の信者のように扱っていた彼氏はショックのあまり大学を留年してしまったらしい。

恋は実らなかった。

適当に彼氏を作っていたら恋愛そのものが嫌になってきた。

元々独りが好きだったみたいで簡単に別れた。よくよく考えてみたら元彼氏には恋だけでなく愛もあったのだと理解した。

ある日夢をみた。

テニスコートで若い男の人が泣いていた。顔は分からなかったが元彼氏みたいだった。愛情を取り戻しつつあった私は彼氏の
アパートに急いで行った。行って良かった。彼は次の日に別のアパートに引っ越す準備をしていた。

再会した時、彼は白い目を向けたが

「帰ってきてくれると思っていた。」

と抱きしめてくれた。パズルのピースが埋まるように彼を愛している自分に気が付いた。

私たちは婚約をした。

アルバイトと違って会社のサラリーマンとはまるで学校が難しくなったような所だった。私はすぐにお荷物になってしまった。
だがバブル景気で首にはならなかった。上司でも仕事をしているふりをしているような人もいたくらいだった。貿易実務をしていたのだが
英語力だけ買われた。事務作業は得意じゃなかった。

翌年私は妊娠してしまった。

彼は就職活動をしていた所だった。当たり前だが産むのには反対だった。私は生まれてはじめて自分と血のつながりのある人間が生まれて
くるのだと思うと産みたかった。別れても、一人で育てるつもりだった。私の熱意に全員反対だった家族も彼も生むことに賛成せざるを得なかった。

1年半年で私は寿退社してしまった。上司が喜んでいた。

小学校から喫煙していたが妊娠を確認するとすぐに禁煙できた。新しい命に期待をした。希望という私の人生にはなかった事が舞い降りてきたのだ。
人生を出産からやり直せると思った。あんなに厳しかった母親が一番喜んでいた。先に結婚をした長兄の所に子供が出来なかったからである。

しかし妊娠してから私の体に変化が起きた。血液検査でひっかかってしまったのだ。慢性肝炎だった。母親はB型肝炎のキャリアだったのである。
私もキャリアだったが、ウィルスが動き出したのだった。大学病院に行った。内科の医師は出産に反対をした。産婦人科でも出産は困難である。
と診断された。有事の時は母体を優先させると念書を書かされた。私は泣いた。

体がだるく何もできなかった。少しずつ大きくなるお腹をみて勇気を出していた。この子はきっと大丈夫と自分に言い聞かせていた。
臨月になると体が楽になった。血液検査で肝炎の抗体ができていた。神様はいると思った。

夫は独学でC言語を取得してエンジニアになっていた。

出産は実家の近くの大学病院でした。

出産前はものすごく痛いときいていたのでじっとベッドで我慢していた。幼いころから傷みには強かった。陣痛を我慢し過ぎて
看護師さんを呼ぶとすぐに娘が生まれた。

娘は肝炎のワクチンを受けた。ぎゃーっと泣いていたのは可哀そうだったがこれで肝炎の恐れは無くなる

大学病院だったので出産から三日ほどで退院させられた。看護師の従妹と母親が娘を奪い合うように抱っこしてくれた。

生まれて初めての自分の血の繋がった家族である娘に希望を持った。実家では大事にしてもらえたし、これでもう親から
捨てられることはないだろうと思った。

やがて娘を連れて、東京で待っている夫の元に帰っていった。

子育ては大変だったが充実していた。夫は仕事が忙しいのにも関わらず娘のおしめの洗濯などよく手伝ってくれた。娘は夜泣きが酷かった。
さすがに夫の睡眠時間をこれ以上削れないので必死であやした。慢性的に睡眠不足になってしまった。

離乳食の頃から苦労が始まった。娘は野菜類を何も食べてくれなかったのである。色んな野菜をペーストにしたが口に入れると
ぎゃーと泣き出した。

お粥とパン粥は食べてくれた。私と同じく食が細く煮込んだうどん1本をやっと食べてくれた。月齢にしては痩せていた。どこに行っても

「きちんと食べさせている?」

と言われるのが頭痛の種だった。定期健診でも「若いお母さんだから」と言われた。

離乳食の頃は一日中台所にいた。娘が食べるものを模索していた。

実家に戻って友人と遊ぶのが楽しみだった。夫は快く家を出してくれた。そこで不思議な縁を感じた出会いがあった。

小学校の頃からコーヒーを淹れていたのだが豆を売っている所が一軒しかなく娘を抱っこして豆を買いに行ったとき、店主から

「お姉さん、子供の頃うちに来てなかった?」

と言われた。

覚えていてくれたんだと嬉しくなった。

娘はわずか9か月で歩くようになった。はいはいをあまりしなかった。いきなり立ったので驚いた。
偏食は相変わらずで頭痛の種だった。

娘が生まれてからでも人見知りは激しかった。ママ友は正直面倒くさかった。それでも娘に社交性をつけようと
頑張ってママ友と話を合わせていた。

皆と言って良いほど子供と夫の話しかしなかった。

新婚の頃から貧乏だったが夫が勉強をしてスキルアップしてヘッドハンティングにあって会社を変わったので生活は楽になってきた。

ボロアパートから綺麗なアパートに住み替えた。

しかし問題が起こった。

収入面で楽になると、夫の飲酒が再び始まってしまったのである。深酒すると暴れた。娘を守るようにして夫が眠ってしまうまで我慢した。

娘が2歳になった頃兄に子供が出来た。出産を手伝いに行っていたのだが産声が聞こえたとたん、母親が
娘に向かって

「本当の孫が出来たから、もうあんたは要らない。」

と肩を持ち、がくがく揺らしていた。看護師さんも驚いてお母さんなになさっているの?と止めに入ったほどだった。

私はやはり要らない子供だったんだと思い知った。眠ってしまった娘を背負い泣きながら家に帰った。
夫に事情を説明すると激怒した。両親とは別れた。

娘が3歳になった頃に転機があった。

夫がアメリカ赴任になったのである。

最初は嫌だったが日本では月給がアメリカでも週給が出るときいて喜んで移住した。

猫も連れて行った。広い部屋と大きなソファに驚いた。アパートはニューハンプシャー州に決まった。

部屋から10分も歩くと大自然が広がっていた。森へと続く道、いろんな種類の小動物。まさに子供の頃に読んだ絵本の世界だった。

今思えば、その頃が人生で一番楽しかったかも知れない。

運転免許も取って、ママ友が増えていって週末はどこかの家でポットラックパーティーをした。ボストンから近かったこともあって
日曜日にはボストンまで出かけていった。美術館も安くて週末が楽しみだった。

ニューヨークにもよく出かけていった。夫がマネージャーに気に入られて大切にしてもらった。料理が得意だったのでパーティーの
支度には積極的に参加した。あだ名はチーフシェフだった。

夏はボストンで過ごし冬はスキーに毎週出かけて行った。スキーは高校の修学旅行以来だったが、すぐに上達をした。

驚いたのは、娘が自力でスキーができるようになった時その上達ぶりにびっくりした。

夫も私も運動は苦手だったのだが娘は並外れた運動神経を持っていた。

学校にも通わせてもらい学校に併設されていた保育園に娘を預かって貰い色んな国からの移民の人たちと仲良くなった。

スペイン語も少し習った。

だが、楽しい日々も続かなかった。湾岸戦争が勃発してしまったのである。

ロサンゼルスに行けば残留できたが都会は嫌だった。多くの日本人が帰国した。我が家もその中にいた。

帰国してホテル住まいだった。猫が飼える物件を探すのに苦労していた。日本の物価に驚いた。丁度米不足になっていた頃だった。

事故物件とは知らずに一軒家を借りた。どこを探しても物件はなかったし自由にリフォームをして良いという事で古民家風にリフォームした。

夫は30歳に迫って焦っていた。昔の夢は本気だったみたいで時間があると小説を書いていた。あちらこちらに投稿していたが最終選考まで
いかなかった。私は私で娘も小学生になったことだしそろそろ本気で漫画に向き合ってみようと思った。運よく読者投稿欄で賞を貰い漫画家になれた。

ついでのように娘と猫の生活を面白おかしく描いた漫画を投稿したところ、佳作を貰い連載が始まった。

夫は君には才能がある。といつも言っていたのに私の連載を良く思っていなかった。自分は作家になれないのに私だけ作家になった事に
嫉妬をしていたのだった。

夫はまもなくヘッドハンティングに遭い世界でも有数の企業に入社した。

私はそれだけでもたいしたものだと思っていたが夫の夢はあくまで芥川賞だったのである。

二人で働くようになったのと夫の収入が跳ね上がったので、我が家はお金持ちになってきた。私は生活費とお小遣いで月に50万もらっていた。
残りの給料は夫が使ったり投資したりしていたみたいだ。

しかしお金が夫を変えてしまった。贅沢なワインを買ってきたり再び深酒をするようになり泥酔すると暴れた。

娘は

「ママをいじめるなっ!」

と夫にくいかかっていった。傍目から見ると、夫はエリート社員、妻は漫画家の裕福な幸せな家庭だったはずだった。
やがて夫は明け方に帰ってくるようになってきた。以前はどんなに遅くなっても帰宅するとお風呂に入り食事をしていた。

女の臭いがしたが問いただす事は出来なかった。怖かったのである。

お酒が抜けると、元の優しい夫に戻った。ある日の日曜日、夫が泣きながら掃除機をかけていた。

「俺、付き合ってる奴がいる。」

と一言だけ言った。

夫との生活を描いたステンドグラスが一瞬でバラバラに壊れてしまった気がした。動揺して叫んでしまった。それから少し
記憶が飛んでしまっている。

興信所に大金を払って女の実家や女の夫の実家を調べ不倫の事を手紙を通じて伝えた。高価なダイヤモンドの指輪を買ったりしていた。

薬物を大量に飲んで自殺未遂を犯したりしていた。首も吊った。上手く死ねなかった。目覚めると病院で
夫が私の手を握って泣いていた。

娘には可哀そうな事をしてしまったが私は正気を失ってしまっていた。

一月で10キロほど痩せてしまった。手に包帯を巻きつけて漫画の連載だけは続けていた。

夫を愛していた分どうしても許せなかった。

夫には家を出て行ってもらった。夫の方も手の震えが酷くなっており通院を私の主治医が勧めたが夫の事を考える余裕がなかった。

夫は渋谷にアパート借りた。

娘の世話はアシスタントさんがしてくれていた。

仕事をする以外はパソコンをしていた。チャットに離婚調停中の人や離婚した人が集まる部屋があったのでそこで時間をつぶしていた。

友人に手紙を書いたが金持ちの夫を捨てたら後で後悔するから離婚だけは止めなさい。と忠告してくれたが半年ほど経った頃私の頭の中は
離婚でいっぱいになってしまっていた。

当時、横浜に住んでいたのだが一晩中歩いて、明け方渋谷に到着した。そこで屋台をしているおじさんに会った。コーヒーを淹れていた。
私の様子が尋常ではないのに気が付き、呼んでコーヒーを奢ってくれた。とても美味しかった。

おじさんの優しさに触れとりあえず生きる事にした。

チャットで知り合った離婚経験のある大阪の男性が私を気に入り離婚したら結婚して欲しいと言ってきていたので正気ではなかった私は
その話に乗ってしまった。

再婚を前提に夫と離婚してしまったのである。

娘と猫を連れて大阪に引っ越しをした。

当時の私に必要だったのはある程度の収入のある娘を可愛がってくれる男性だった。製薬会社で係長をしていた彼は私が必要としていた物を
全部持っていた。

今考えると彼を本当に愛していたのかどうかは分からない。ただ単に再婚の条件に当てはまっていただけだったのかも知れない。

彼は1年のほとんどを中国で過ごしており仕事人間だった。その間に元嫁が男を作り娘を連れて駆け落ちをしてしまったらしい。
後に裁判になり彼は高価な慰謝料と養育費を支払っていた。

その話をきいても疑問を持たなかった。今考えると彼は有責配偶者だったのである。女好きでほぼセックス依存症になっていた。
私にも優しくしてくれないと女買いに行くよ。と脅していた。仕事の接待も色町でしていた。まるで江戸時代の接待だった。
同じ屋根の下で女を抱くと気持ちがひとつになるというやつだった。

なかなか娘に会ってくれないのも不満だった。

そんな頃元夫が再婚をした。

元夫の高額な養育費だけでも暮らせたのだが漫画の仕事だけは続けていた。私は離婚した人たちが集う大きなネットサークルの会員になった。

彼氏の元嫁が夫が娘に暴力を振るう事から彼氏の家に帰ってきてしまった。ショックだった。娘さんを追い払う事が出来なかったのだろう。
彼は元嫁にマンションの合鍵を作られて家具なども入れられていた。私とは体の関係だけだった。話し合う時間を削られて不満が募った。

それだけではなく元嫁さんは私にストーカー行為をするようになった。彼氏に訴えたが無視されてしまった。私は別れる決心をした。

ネットサークルでは私は人気者だった。新宿でオフ会があった時に今の夫と出会った。服装や髪型からオタクだと思った。向こうは向こうで
私に一目惚れをしていたのを私は気が付かなかった。娘が先に気が付いて彼に嫌がらせをはじめた。

彼は娘の嫌がらせを懐いてくれていると勘違いをしていた。男性の友達は多かったが私は今の夫を頼った。彼の嘘から趣味が合うと思い込んで
いたからである。オフ会ではキャンプやスキーやバーベキュー。青春が戻ったように遊んでいた。本当に楽しかった。

サークルをまとめていた東京の社長が、サークルを会社にする計画を進めていた。今の夫は係長待遇で年俸700万だと言っていた。実際に新宿に
ビルを借り社員やアルバイトが働いていた。今の夫が結婚を前提に付き合って欲しいと言ってきた。年俸700万ならと快諾した。

娘はものすごく怒った。

しかし彼は娘を何かにつけて可愛がってくれた。娘の物腰は年々柔らかくなっていった。私は再婚は嫌だった。嫁という弱い立場は元夫でさんざん
辛い目に遭ってきたので嫌だった。

同居人という形で彼の二世帯住宅に住んだ。

その頃である。高校受験の為に必死に勉強をしていた娘が幻覚を見るようになったのは。自閉症の確定診断は辛かった。元夫に娘と自分の事を伝えると

「やっぱりな。」

と言っていた。

元夫もまた自閉症の二次障害の統合失調症だったのである。彼の学生時代の万能感もその為だった。
彼は生まれて初めて自宅に知り合いを連れてきた。それは私だったのである。反対はされたが婚約の報告の為に実家に行ったのである。

知能指数では娘は100を切っていた。今まであまり勉強をしろとは言っていなかったが高校だけは卒業して欲しかった。涙が出たが
家庭教師を何人も雇い娘は高校に入学をした。

もうそれだけで良かった。よく頑張ったと思った。しかし、娘の高校は私が卒業した高校のように素行が悪い生徒が目立つ高校だった。
娘も学校内での窃盗グループに入り学生の財布などを盗んでいたらしい。娘から真実をきいたのだが娘が高校生の間の事はあまり知らなかったのである。

娘は単位ぎりぎりで卒業をした。その後はフリーターになった。私に隠れてキャバクラで働いていたのである。今の夫をよく思ってなかった娘は家を出た。

その頃元夫が自殺した。

急いで東京に向かった。冷たくなった元夫の亡骸にしがみついて泣いた。眠っているようだった。錯乱した私は

「パパ、家に帰ろう。」

と泣いていた。その後、過呼吸の発作を起こして入院した。

新幹線で大阪への帰り道娘が元夫がうちより良いマンションで暮らしている。とか文句ばかり言っていたので父親を亡くした事については
あまり傷ついていないのだと思い込んでいた。

娘には500万円程度の株が遺産として渡った。

私には一言も言わなかったが娘は父親の死で傷ついて寂しかったのだろう。株を全て現金化してしまい思いつく事すべてにお金を使った。

特にパチンコにお金を使った。500万は、またたくまになくなってしまった。

新宿で会社を開いていた社長が妻の実家のあるフィリピンに高跳びしてしまった。会社には実績がなくダミーだった。社長は詐欺罪で指名手配を受けた。

年俸700万がなくなり呆然としていた私に今の夫が結婚を強く言ってきた。入籍しないと別れるとまで言てきた。
私はしぶしぶ入籍をした。

その上夫は新宿の会社の話がなくなると働いていた小さな広告代理店を退職して自分で起業してしまった。

私の目論見は全てなくなってしまった。残った現実はしぶしぶとまた人の嫁になってしまった事だけだった。

その頃は私は統合失調症をこじらせて何とか漫画の仕事はしていたが障碍者年金を貰うようになっていた。

結婚の約束として生活費10万会社の手伝いで8万社内で漫画の仕事をして良い。食事の支度だけしたら掃除洗濯は自分がやる。

と夫は約束してくれたがいざ入籍したら、会社の手伝いの8万しか守ってくれなかった。夫は甘やかされて育てられたので家事は一切
出来なかったのである。卵すら自分で割れないような生活を続けていた。

リビングの本棚を片付けていたら夫の離婚調停の書類が出てきた。

長男への虐待。妻へのセックス強要、暴力行為。と書いてあった。機嫌が悪くなると飼っていた犬を蹴飛ばしていたのでそういう人なんだと
距離を測るようになった。やがて、私にも暴力を振るうようになってきた。

正直言うと今の夫をそれほど愛していたわけでもなかった。自宅があり年俸700万が結婚の条件だったので結婚を前提に交際していただけだった。

救いは娘を可愛がってくれる所だった。

ある日病院から電話がかかってきた。夫が脳梗塞を起こしてパチンコ屋の駐車場で倒れたのだった。集中治療室に入れられていたが
意識はあり駆け付けてくれた社員に仕事の事をあれこれ指示をしていた。この脳梗塞が後々重大な事になるとは思ってもいなかった。

夫の会社はどこでどう稼いでいるのかよく分からなかった。一番多い時で社員を3人も雇い私の月給も出していたのであった。

「元嫁、アホやなぁ。俺と一緒にいたら社長夫人になれたのに。」

というのが口癖だった。私への手当は8万だけ。こんな社長ならサラリーマンの方がましではないか?と思っていた。

彼は起業して稼ぐよりも、ただ単に社長になりたかっただけだろうと今でも思う。

夫の父親が癌にかかっていて入院中だったが亡くなってしまった。同じ頃夫の会社も規模を縮小して自宅でsohoをはじめた。

後で分かった事だったが夫の会社の赤字はすべて夫の父親が埋めていたのである。会社をしていた時は贅沢をしていた。社員旅行はグアム。
外車を買い替えて得意になっていた。お金は全て父親の退職金だった。

私は夫の会社には見切りをつけ漫画の仕事をしながらゴルフ場のレストランで働いていた。仕事の帰りに追突事故に巻き込まれた。相手はJAFだった。

むち打ちになりパートを辞めた。

その頃夫がバイクで転倒して左ひざ靭帯断絶という大けがをしてしまった。その時に心臓肥大の検査にひっかかり、慢性腎不全の診断を受けた。

やがて父親の遺産を使い果たしてしまった娘が家に帰ってきた。娘は荒れていた。お姑さんのアクセサリーやバッグを盗んでは売りさばいていた。

娘の部屋で寝ているとある日の朝刑事さんたちがやってきた。娘は逮捕された。

罪状は窃盗と住居家宅侵入罪だった。

私は娘の罪を軽くするために必死にお金を貯めた。被害者に損害賠償金を支払い謝りに行った。留置された娘はあまり反省をしていなかった。
その時に高校での窃盗グループの話をきいた。娘には盗癖があったのだ。医師に相談すると、盗癖は一種の依存症なので治療は難しいと言われた。
何をどうして良いか分からなくなってきた。他人の財布を見ると、ドキドキする。と娘は言っていた。毎週のように面会に行った。
毎週反省を促した手紙を送った。しかし娘は言うことを少しも聞いてくれなかった。

執行猶予のついた娘が出所してきた。タクシーで迎えに行き用意していた洋服に着替えさせてケーキを食べに連れて行った。娘に働く事の尊さを
理解してもらいたかったからである。ケーキをお代わりした娘は、今後は生活保護を受けるんだ。と言っていた。誰かに入れ知恵をつけられたらしく
私は絶望した。

しかし今考えたら娘は知能も低く自閉症の上統合失調症を患っていた。私もぎりぎりで働いているが知能の低い娘にとって働く事は至難の業
だったのである。可哀そうな事をしてしまった。娘の知能を知っていて普通高校に入学させた事を後悔した。支援を受ける事もなく娘は成人して
しまったのである。

その点は私も同じで自分なりによく働いてきたと思う。年金を怠らずに納めていた事で年金を受けられるようになっているのである。導いてくれる人は
元夫しかいなかったが彼もまた私たちと同じく病を抱えていた。死に顔が優しく、眠ったような彼の顔を思い出した。

夫は人工透析を受けるようになった。仕事でも些細なミスを繰り返していて普通ではなかった。認知症にかかっていたのである。

ついに夫は仕事を辞めた。借金だけが残った。

夫婦で障碍者になった私たちは作業所という場所の存在を知った。二人で作業所で働くようになった。パートに出るくらいしか給料はなかったが
働ける場所がもう作業所しかなかったのである。

夫はそこでもお荷物だった。作業時間に居眠りを繰り返していた。認知症のために簡単な手作業すら出来なくなっていた。

透析に行くのを嫌がった。透析の車に乗らず、私に暴力を振るった。夫の暴力がはじまると娘のマンションで過ごした。娘は三毛猫を一匹貰ってきて
ペットにしていた。ワンルームの狭いマンションだが居心地は良かった。

娘には恋人がいた。将来を約束した人だった。離婚調停中で結婚は息子が成人になるまで待っていてくれと言われていたらしい。

私は娘がその人と結婚するのだろうと思っていたが事件が起こった。

娘が自宅のマンションから飛び降りてしまったのである。

命はとりとめたが脳がやられてしまい、傷は治っても障碍が残ると診断された。娘は丁寧な遺書を残していた。私への感謝と彼氏にもう待てないと認めていた。

毎日のように見舞いに行った。交通事故の時に貰った保険金が頼りだった。正直死にたかった。実際娘が入院している病院の6階の柵を乗り越えて
飛び降りようとしていたが、気が付いた職員につかまってしまった。職員も娘の話をよく聞いてくれた。

心のよりどころを失った私はパチンコに依存していた。すでに自分の人生を諦めかけていた。障碍を持つ娘と認知症の夫の世話。全てが嫌だった。

正直に言うと今でも両方を受け入れられていない。

娘は病院を退院すると施設に入所した。私は漫画の仕事を辞めた。20年の連載生活にピリオドをつけたのである。

高次脳機能障害と失語症になった娘は別人のようになってしまった。本人は込み入った事も考えているようだがそれを他人に告げるという事が
出来なくなってしまったのである。知能で言うと5歳の子供くらいになってしまった。

夫は夫で会社を経営していた頃についた浪費癖でケーブルテレビを契約して高い映画をザッピングしていた。作業所で働く事も放棄してしまい
障碍年金だけで生活をするようになった。

クレジットでの借金が増えていった。

夫との結婚生活は、私にしてみれば自分の人生に於いては余計な事だったのかも知れない。もっと娘のに目を向けてやっていれば今のようには
ならなかったのかも知れないが、同時に障害を抱えながら一般的な生活をしていた娘の苦悩を考えると、自分の事を忘れてしまった今の方が安らかに
生活していっているようにも見える。その点は死を選んでしまった元夫にも言える事だ。

クレジットの借金が払えないくらいに膨れ上がった時に夫の母親が私たちに後見人と保佐人をつけた。お金を自由に使えなくなってしまったのである。

ケーブルテレビも解約されてしまった。夫の認知症が少しずつ酷くなっていっている。

夫は母親の年金にぶら下がって生きている。自分の年金は光熱費と借金返済とタバコで使っている。私は作業所で働いている。
僅かなお小遣いを楽しみにパチンコをしている。夫の母親は認知症の息子をかわいそうだと言い必要なものは全て用意してやっている。
食事、タバコ、新聞を読みたいと言うと新聞をとるといった感じである。

夫はそんな事は考えずにパソコンで車を見つけるとディーラーを呼んだりディーラーに行ったりしている。自分ではお金を使っていないので貯金が
多額にあると思い込んでいる。時々通帳の事を思い出しては銀行に連れていけと言う。銀行では事情を説明して認知なのでと付け加えて行員から説明を受けて納得して
帰る事になっている。

時には海外旅行を申し込んだりしている。10年以上前に作ったパスポートを大切に持っている。それさえあれば海外に行けると思い込んでいるのだ。
透析があるから旅行には行けないんだよ。と説得しても納得してくれない。透析は終わったなどと言っている。

司法書士の先生の事を敵だと思い込んでいる。自分のお金を盗っているかのような言い方をしている。

何をどう説明しても理解はすでにできなくなってしまっている。

そんな生活を数年続けていたが、事件が起こった。

夫の母の弟が私にわいせつ行為をしたのだ。

警察に訴えた。

事実を知っているのは、夫の母と弟と私だけだが、二人は警察に嘘をついた。人間として如何なものかと思うのだが逆ギレされて
私は今悲痛な思いで家に住んでいる。夫の母は家を出て行くと言い夫の介護をせよと迫られている。働いている私には無理な相談だ。一応
夫の介護士が週3回来てもらえるようになった。

足を悪くしている夫はもうすでに駅までも歩けない。辛い事が嫌いで手術の後リハビリをきちんとしなかった事が大きい。それを夫の母親が
手術が失敗したと言っている。万事そういう感じで息子を守っている。弟然り。

一応警察が動いてくれて厳重注意処分にはなったが当日に警察に訴えていればDNA鑑定ができたのに。と今更ながら後悔している。

幸い、2階を自由に使えるので夫ともその母親とも顔を合わせずに暮らしてはいる。人間がさほど好きではない私には好状況にある。ただ
将来的には夫の介護がかぶってきそうなので夫が自力でお風呂に入れなくなったら特別養護老人ホームに入れようと思っている。

道は開かない人には開かない。

私は自閉症である。

それに甘んじて生きる事はなかったと思う。定年まで働く所存である。

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