二人ぼっち

ひいらぎ

小さな頃は家族5人と居候していた従妹がいたので考えた事もなかったが
虐待から統合失調症になった頃友人は多かったが漠然とした孤独を感じる
事になりやがて家族がいないという事からの孤独であったのだという事が
判った。

独りでアパートに暮らしていた頃は、私が料理が得意だったので友人
たちが食材を抱えて私の部屋に来て泊まっていっていた。

毎日楽しかったがやはり友達は友達で(それでも大きな価値はあるが)
それぞれ親を持ち家庭を持ち少なくとも帰る所はあった。

私には安心安全に帰る所はなかった。

それが180度変化したのは妊娠してからだった。酒乱はあったが普段は
優しい夫に癒された。だが大阪が嫌いで故郷の事ばかり褒める夫に
不満はあった。夫もいつも孤独を抱えていたように見えた家族が3人になり
私にもやっと家庭を持てるという期待はあった。

孤独な人間同士が結婚をし、若さから夢も希望もあった。夫は頼もしく
見え頭も良かったので私にはとても頼りになる男性だと思った。
男性というよりも人間的にも夫を愛していた。夫は子供は望んで
いなかったが(これがボタンをかけ間違える事になった原因だったが)
妻と子供の一人くらいは養って行くと決心してくれた。

新婚生活の始まりは小さなボロアパートだった。

夫は初任給で我慢してくれたし、私もあまり贅沢は言わずにつましく二人で
暮らした。私の中には血を分けた本物の家族がもうすぐ生まれるのだという
希望があった。お腹の中の赤ちゃんを心から愛した。

当時私はB型肝炎の母子感染から慢性肝炎になり、子供は諦めるように
医師に言われていた。しかし臨月になった頃に肝臓の数値が正常になり
普通分娩で出産に望めた。

産まれたのは娘だった。

小さくて儚い新生児はまさに宝物だった。母乳が上手く出なかったので
出産より痛い母乳マッサージを受けた。

当時私の実家では長兄に子供が出来なかった事から娘は大歓迎された。
血縁者の全員が娘を可愛がってくれた。
私は孤独を忘れたが夫は娘に没頭していた私を見て孤独感を募らせて
いたみたいだった。

それでも夫は娘の面倒をよくみてくれた。仕事が忙しくなってきた頃
だったが布おしめの洗濯から夜泣きする娘を抱いてあやしてくれた。
夫の仕事、残業が多くなり我が家は経済的には余裕は出てきたが夫に
時間がなくなってきた。そういう時は実家に帰り娘を親にみてもらい
友人と遊びに行っていた。

実家によく帰る私に夫は不満も言わずに黙って帰らせてくれた。
しかし、少しずつ夫が孤独になってきている事に私は気が付かなった。

若さゆえの愚かさに私は気づけなかった。周囲の「子供はまだ早い」
という言葉も娘という既成事実からかき消されていた。

夫の仕事で関東地方に住んでいた私はホームシックと子育ての重圧で
自分と娘の事しか考えられなくなっていた。
娘が産まれてから経済的にもそうだったがお酒をあまり飲まなくなった
夫に甘えていた。甘え切っていた。

娘は離乳食になった頃に母乳以外は食事を受け付けなくなってしまい
苦労をした。娘が食べてくれる食事を考え、抱き癖がついて少しでも
寝かしていると泣き喚く娘を晒で体に巻くようにして一日中
といってもいいくらい離乳食の料理をしていた。

夫が転職をし、私たちの暮らしはとても豊かになった。ボロアパートを
引き払い横浜の新築のアパートで暮らすようになった。娘は3歳になった。

その頃、長兄の妻が念願の妊娠をした。私も出産の手伝いに娘を連れて
行った。そこで私は再び孤独に突き落とされる。

産声が聞こえたとたん実母が

「本当の孫が生まれたから、もうこの子は要らないっ」

と、娘に暴力をふるった。

眠ってしまった娘を背負い、埼玉の病院から泣きながら横浜の自宅に
帰ってきた。夫に事情を話すと激怒し、血縁者から離れる事になった。

その頃には我が家にはコノという猫が家族になっていた。娘が散歩中に
拾ったのだったが、出産後不妊症になってしまった私は娘に良い姉弟が
出来たと思い同時に命の大切さを娘に教えるのに良いと思って娘と一緒に
育てた。

夫も猫が大好きだったのでコノは我が家のアイドルになった。

もう親の事を考えるのは止めようと思った。元々、長兄の事しか考えなかった
実母、子供よりも妻を大事にした実父。虐待を受けて育った私にとってその
決断は容易い事だった。

夫に辞令が出てアメリカに移住をした。コノも連れて行った。

当時のアメリカは日本よりも生活費が安く、アメリカでの週給と日本での
基本給を貰えたので生活はぐんと楽になった。しかし、言葉もよく分からず
行動範囲もアパートの近所という生活は孤独だった。

なるべく娘を飽きさせないように生活していたつもりだったが社交的な娘は
私と二人の生活はストレスがかかったようでよく泣いていた。
一念発起をして運転免許を取り移民局が開催している学校に通う事に
なった。娘は併設している保育園に通う事になった。

拙い英語で何とか友達も出来、夫の会社からのママ友も出来た事から孤独が
和らいでいった。現地の人と結婚をして通訳をしていた頭の良い女性に頼まれて
ベビーシッターもした。娘も遊び友達が出来て楽しそうだった。
他にも日本人のママ友が出来て週末のうち1~2回はどこかの家でポットラック
パーティーをした。

猫友も出来た。コノもアメリカの大自然を気に入り日中はよく外で遊んでいた。

冬になるとスキーをした。夫は初心者だったが私は高校生の頃に合宿に行った事が
あり、4歳になった娘もスキーが気に入ったみたいだった。
夫の会社の人たちは皆スキーが上手く自然の他は何もない州だったが家族3人
スキーに没頭をした。

スキーに行かない時は美術館巡りをした。ボストンにもよく行った。
ファインアート(ボストンの美術館)では子供用のイベントがよくやっていて
娘も美術館に通うのが楽しそうだった。

楽しかった生活が終わったのは湾岸戦争だった。会社としては外国人をなるべく
帰国させたいようだった。ロサンゼルスに仕事はあったが夫は30歳になるのを
怖がっていた。私は漫画家になるのが子供の頃からの夢だったが夫は小説家に
なりたがっていた。夫の頑なな願望で私たちは帰国した。

帰国して始めた事は漫画家になる活動だった。読者投稿欄に原稿を送り採用されて
仕事を貰えるようになった。ついでのようにコノと娘の生活を描いた漫画を
投稿した所、連載を貰えるようになった。

夫は喜ばなかった。何故ならば夫は渾身の思いで書いた小説が芥川賞に
選考されなかったからだった。

私の仕事が忙しくなりつつあり、娘に内緒で漫画家をしていたが
夫婦にだんだんと溝が出来つつあった。

ボタンの掛け違いがはじまっていた。

お金はあったので夫は強いお酒を飲むようになり、酒乱から暴力を振るうように
なっていった。

いつかは小説家を諦めてくれると願い耐えた。夫は会社でもひとりの時はお酒を
飲むようになってしまい精神を病み、会社から逃げ出すようになった。
会社のマネージャーから何度も電話がかかってきた。夫は会社から逃げると
深酒をして路上で寝ていた。

私はぎりぎりの精神力で仕事と家事、子育てをした。

夫に女が出来た。

これにはもう耐えられなくなってしまった。女がいるとは感づいていたが
出来れば隠し通していて欲しかった。精神力が途絶え、私は自殺未遂をしてしまった。

娘は私に暴力を振るう夫に立ち向かっていってくれた。しかし、夫は娘にも
暴力を振るうようになってしまい私の限界を超えてしまった。

多額の慰謝料と養育費の代わりに私は夫を失い、娘は父親を失ってしまった。

娘が中学に進学する頃に関西に引っ越す事にした。

夫は離婚を望まなかったので「いつでも帰ってきてくれ」と言っていたが
離婚して半年ほどで再婚してしまった。

所詮は他人だったのだ。

再婚した元夫は見違えるように温厚になり、娘を可愛がってくれた。娘も

「パパ、パパ」

と仲直りしてよく父親の元に通っていた。お酒も止めたようだった。

私ではダメだったんだなぁと、娘と楽しく暮らす方法を模索しながら
仕事を続けた。コノも関西に馴染んだと思っていたが家に帰らなく
なってしまった。知らない首輪をしていたコノを探す事もしなかった。

娘は幼い頃から他の子供と違うなと考えていたが、娘の不登校をきっかけに
児童精神科に連れて行った。私の言動もおかしいという医師に知能検査等を
してもらった。

結果は娘は自閉症の上に知能障碍、統合失調症を併発していた。私は知能に
異常はなかったが同じく自閉症と統合失調症の診断だった。

元夫に結果を告げると、「そうだと思っていた」と、自分も自閉症で
ある事を知らせてくれた。

娘の知能障碍に途方に暮れた。

平凡で良かったと泣いた。平凡に恋をして平凡な結婚をして、平凡に
子供を産み家庭を持って欲しかった。

孫が私の夢でもあった。

元夫からの仕送りがあるうちにと、心を鬼にして高校進学、卒業を目指す
事にした。

勉強をすると、お風呂場に生首が見えると訴えてくる娘をなだめながら
家庭教師を5年間つけた。大きなお金は必要だったが、高校に行かないと
アルバイトさえ出来ない場合がある。必死だった。
娘と何度もつかみ合いの喧嘩もしたが、娘に暴力をふるう事はしなかった。

その頃には今の夫(亡くなったが)と付き合っていたので娘にかなり
反抗されたが、再婚をするつもりはなかった。その日、その日で精一杯だった。

勉強のご褒美に娘にはゲームを買ってやっていた。テストのない期間は娘と
一緒にゲームをしていた。

料理のスキルは普遍的だと考えていたので娘には幼い頃から料理を
教えていたが、娘は手順のかかる物については無関心だったのでいい加減な
料理しか出来なかった。知能は低いかもしれないが勉強も料理も辛抱強く
教えていた。

学校の教師たちも娘は公立の高校は無理だと言われていたが毎日の勉強が
実を結び娘は高校に合格した。

職員室でも歓声が上がったらしい。

晴れて高校生になった娘の変化に気が付けなかった。娘は短絡的な性質を
持っていたので地道に働くよりいかにも偏差値の低い高校にありがちな
いわゆる不良のグループに入って窃盗を繰り返していたのだ。

高校生になって娘は入れ墨を肩に入れた。家族のイニシャルと自分が
デザインした模様だった。私は進学してくれたのだからと、勉強と料理以外
には娘に甘くなっていたので黙認した。勉強も落ちこぼれながら家庭教師が
来る時は真面目にしてくれていたのでそれで充分だと考えていた。

いかにもギャルになってしまっていた娘はカラオケのアルバイトだと嘘を
ついてキャバクラでバイトしていたのである。そこらへんは監督不行き届き
だったのだがナイフのように尖った娘には何を言っても無理だと諦めかけも
していた。交際している男性を娘が気に入ってくれなかったのでその負い目も
あった。

「父親がいないから」と言うマイナス面だけは思わせないようにしようと
頑張った。娘も最後の最後には私を頼ってくれていた。彼氏も何かと娘に心を
砕いてくれていたので上手くいく事を願った。

その頃には我が家には3匹の黒猫がいた。猫たちの面倒を娘はみなかったが
私との諍いを猫たちが和らげてくれてもいた。

コントロールは難しかったが、娘は私にとっての宝物だという部分は
生まれた日に感じたように変わりはなかった。血を分けたただひとりの存在。
娘が産まれなかったら私はきっと孤独に押しつぶされ死んでいただろうと思う。

高校を卒業した娘は専門学校に行くと思い込んでいたのだが、学校の三者面談で

「あたし、休みたいの。1年フリーターになりたい。」

と宣言した。その頃には貯金を切り崩す生活をしていたので早く就職して家に
生活費を入れて欲しかったが娘は家庭教師からの解放しか考えていなかった。
頑なな娘の決意に不承不承ながら承諾した。

その時もカラオケのアルバイトをしていると私には嘘をつきキャバクラで
働いていた。娘がいつも大金を持ち、ブランド物のバッグ等を持っているのに
違和感はあったが、親ばかな私は娘を信じていた。

ある日、警察から電話がかかってきた。娘はお店が終わると疲れて歩きたく
なかったらしく捨ててあった自転車を盗み駅に向かっていた所を職務質問
されたらしい。自転車は捨ててあったが、一応盗難自転車という形に
なってしまった。

娘は

「ママはものすごく怖いの」

と、警察官に泣きつき私の電話番号を言わなかったらしい。数時間黙秘した
娘だったが眠気には負け保護者連絡という形になった。
キャバクラでのバイトを知った時だった。

ものすごく叱った。

娘は泣きながらもうしません、真面目にアルバイトします。と、言っていたが
反省は束の間再び水商売を始めた。

フリーターの期限が終わり娘はアニメーターやデザイナーを目指す専門学校に
進学をした。私は親ばかだが娘の画力がプロにはなれないと見抜いていたので
デザイン企画等の会社に就職出来れば良いと考えていた。娘は同人誌もやっており
ファンもいたが下絵も作らずに(とにかくち密な事が苦手)
原稿用紙に一発描きをしていた。同人誌で食べていく事はもちろん無理だった。

宿題が出来ないと度々私に泣きついてきた。デッサンなどの宿題はいけないと思い
つつ代わりにしてやっていた。「よく見ててね」と、コツを教えながらの作業
だったが「わかんなーい」と泣くばかりで専門学校の課題にも苦労をしていた。

卒業しても就職は出来なかった。

娘は子供の頃からフィッティングモデルをしていたので、成人式の着物姿は
沢山残してくれた。成人したからと、アパートを借りて暮らすようになった。
私は私で彼氏、夫が入籍してくれないなら別れると言い出したので再婚をした。

その頃に元夫の妻から電話がかかってきた。元夫が自死したという。
娘を連れて東京に行った。娘は冷静だったが、私は彼を本当に愛していたのだ
と自分を責めた。冷たくなった元夫に抱きつき泣いた。

とにかく泣いた。

その夜、私は葬儀場を飛び出し過呼吸の発作を起こして道端に倒れていた。
元夫の弟と娘が見つけてくれたが、その前に道を通った人によって救急車で
運ばれる所だった。娘が付いて来てくれた。

私は弱かった。離婚して10年も経過していたのに元夫の死を受け入れる事が
出来なかったのである。目を覚ますと真っ青な顔色をした娘が見えた。
恥も外聞もなく娘に抱き着いて泣いた。ひたすら泣いた。

東京に滞在していた時に弁護士に呼び出され、元夫の遺書の通り、娘には株式証券。
私には娘の学資保険が残された。娘は父親の死に涙を流す事はなかったが、
彼女の中で何かが壊れてしまったらしい。

500万ほどの遺産を受け取った娘は浪費しだした。

パソコン教室、運転免許取得、ネイルアート、パチンコ。遺産は1年程で
無くなってしまった。

夫の両親と夫と娘と私が同居する事になった。夫の父親は癌を患っておりその年に
亡くなってしまった。

義父が亡くなると、娘は義母のアクセサリーやブランド物のバッグ等を盗んで
売るようになってしまいパチンコ屋のワゴンのアルバイトもしていたのだが
その店に忍び込み従業員の財布を盗んでいた。

そして娘は逮捕された。

娘の部屋で眠っていると刑事たちがやってきた。罪状は窃盗と不法侵入だった。
まるで刑事ドラマのように逮捕の時間を告げている刑事たちを夢の中で見たような
気がした。

娘の罪を軽くする為にお金をかき集め被害者たちに謝罪してまわった。
娘が知能障碍を持っている事など医師から診断書も出してもらったが無駄だった。

毎週のように娘の面会に行った。

しかし、娘は反省をしていなかった。拘置所の食事が不味いとか何の肉が
入っているか分からないなどと文句ばかり言っていた。
運良くしっかりした女性の弁護士がついてくれたので、4か月の拘置の間に
わずかながら反省をするようになっていった。

やがて裁判が行われ、初犯だったので執行猶予がついた。その頃は漫画の仕事を
しながらゴルフ場のレストランで私は働いていたが、娘に似合いそうな服や靴
などを揃えてやりタクシーで迎えに行った。

大阪駅のカフェに連れて行き、娘の好きなケーキとアイスティーを食べさせた。
働く事の尊さを教えたかったのだが、短絡的な彼女は拘置所で入れ知恵を
入れられ生活保護を受けるのだと言っていた。

今思えば、娘がまともに働けるとしたら作業所や障碍者施設くらいだったのだが
親として失格だったのが娘が国民年金を払ってなかったのを知らなかったので、
障碍年金申請は無理だったのである。

「生活保護?」

と、信じられなかったが娘が自分を食べさせる程の仕事といえば水商売くらい
しかないのかも知れないと考え直し、承諾した。娘はいくら可愛がって
もらっても夫には馴染まなかった。もう成人しているのだからと娘の人生に
口を挟む事はしない事にした。

それでも娘が何かやらかないか監視する事にした。毎週のように娘のマンションに
行き、料理を教えた。娘は独り暮らしの寂しさから私をいつも待っていた。
孤独が苦手な娘はケースワーカーが来ても泣いて抱きついていたし私が帰る時も

「帰らないでーっ」

と泣いていた。何とかしてやりたかったが家に引き取る事は不可能だったし、
いずれにせよ娘が夫を認めていなかったので無理だった。

やがて娘は

「ママより好きな人が出来た。」

と、目を輝かせて言うようになった。年齢はかなり上だったが以前のアルバイト先の
社長と付き合っているらしかった。その頃私はパート先のゴルフ場のレストランから
帰る時に追突事故に遭い、裁判をしていた。後遺症で歩けなくなりストレスで
漫画の仕事を手放してしまった。

よくよく話を聞くと、娘の婚約者は妻と離婚寸前で息子が二人いるらしかった。
下の息子が18歳になるまで結婚を待ってくれと言われていたらしい。
娘は当時24歳だった。期日まで3年あった。私は娘の本気さから3年待つと
思っていたが娘は待ちきれなかった。

そして娘は自宅のマンションの4階から飛び降りてしまった。

明け方に警察の番号から電話がかかってきたので娘が再び犯罪を起こしたのかと
思っていたが話を聞いて始発を待ち病院へ向かった。

辛うじて命は助かったが寝たきりの状態が続く事や脳に大きなダメージがあり、
元通りには戻らない重い障害が残ると告げられた。頭の中が真っ白になってしまった。

集中治療室にいる全身を包帯で巻かれた娘を見た。わずかに見える指は娘のものだった。

元夫に感じたような後悔が私を襲った。もう少し娘の負担を減らす事は
出来なかったのか?何故独りにしてしまったんだろう?どれだけ悔やんでも目の前の
娘は現実の姿だった。

悲しすぎると涙が出ない事を思い知った。私は娘をみても泣けなかった。

泣けなかったが私は正気を失ってしまった。交通事故の保険金が入り娘の病院に
毎日お見舞いに行った。帰りにパチンコをしていた。上手く歩けなくなっていたので
交通費で保険金は見る見るうちに無くなり娘の生活保護費の管理を任されていたが
交通費で使ってしまっていた。

娘が目を覚ましたのは半年後だった。

目を開いた時は嬉しかった。娘の婚約者も毎日お見舞いに来てくれていたし
ありがたかった。しかし現実が襲ってきた。医師が言うように娘は脳に重い障碍を
持ってしまったのだった。正確には失語症。失意に満ちた私は病院の6階から
飛び降りようとしていた。気が付くと職員に取り押さえられホールに座らされた。

はじめて涙が出た。

娘はつたないながらも言葉を話すようになっていった。娘の婚約者も仕事をしながら
毎日お見舞いに来てくれていたが、彼もまた限界を迎えていた。
娘が目を覚ました頃はマンションを借りてくれて娘を養いながら看護すると
言ってくれていたのだが、おそらく一生涯看護は続くと思ったので私は別れてくれても
良いと告げた。彼は泣きながら娘の元を去った。

その頃、夫に異変が起きた。

慢性腎不全と若年性認知症だった。

仕事を辞め、二人で作業所で働くようになり障害年金を貰う暮らしになった。そして
娘は施設に入所する事になった。

娘に対しては、もうお金や孤独に苦しめられる事もなく衣食住を保証された生活が
出来る事から

「大変だったね。ご苦労様。」

と言った。まさにお疲れ様だった。

娘を手元に置きたかったが、家での介護は無理だった。夫の認知症で平日は付きっ切りで
週末に娘に会いに行く事だけで必死だった。右半身に麻痺が残った娘は好きな絵を
左手で器用に描くようになった。娘を引き取っても私の方が先に死ぬだろう。
その時に施設に行っても馴染むのに大変なだけで大きなストレスを与える事になる。
それよりも面会や月に一度自宅に帰った方が良いという判断だった。

平日は夫の透析で疲れていた。透析を嫌がり暴れる夫。心身ともに私はつぶれそうに
なった。認知に多い性格異常が見えだした。大人しかった夫は透析の時間になると
暴れて暴力を振るうようになった。

何度も警察に相談をした。しかし、私がシェルターに入るなどの処置しかなかった。

私がつぶれたら夫も娘もどうしようもなくなる。作業所で働く事だけがわずかな
楽しみになって行った。

少ない工賃を貯めて娘を買い物に連れて行った。娘は大喜びだった。

夫の普段の世話は義母がかなり手伝ってくれて助かっていた。義母は穏やかな人
だったが息子が可愛いのが先にきて、夫が私に暴力を振るっても

「手が当たっただけじゃない?」

と、相手にしてくれなかった。

夫と義母との生活は孤独だった。何度も離婚して娘と一緒に生活保護で暮らそうと
考えていたが年齢を考えると勇気が出なかった。それでも夫の好物を作り彼が笑顔に
なると私も嬉しかった。わずかな幸せを探って生きるような生活だった。

夫は夫で学生時代の友人たちに会っても、自分だけが惨めな生活をしていると
人付き合いが極端に少なくなり家に引きこもるようになった。
バイク事故で靭帯を傷めてからは最寄り駅にさえ行けなくなっていった。

夫の楽しみも週末に娘に会いに行く事になった。毎日パソコンに向かい動画を観て
過ごす夫の唯一の外出だった。腎臓に悪かったので私は賛成しなかったが、車で帰りに
ラーメンを食べるのが夫の楽しみでもあった。

ただ夫の認知のスピードが思っていたよりも早く自分は大金を持っているから銀行に
連れて行けとか車を勝手に注文したり海外旅行の予約をしたりしていた。予約や注文を
取り消し、再び予約を入れてと、毎日がいたちごっこになっていった。

ある時には駅前までどうやって行ったのか分からないが「お客さんが待っている」
とベンチに座っていたり、タバコを買いに駅前まで行って歩けなくなり親切な人が
家まで連れて帰ってくれたりするようになっていった。

娘に会いに行く楽しみが途絶えたのがコロナウィルスの脅威だった。

なるべく外には行かないように生活したが、夫はコロナの事など何も考えず徘徊を
していた。駅まで迎えに行くのが日課になってしまった。私の中で孤独が蔓延する
ようになった。義母は夫を可愛がり過ぎてヘビースモーカーの夫のタバコ代も
年金から出していた。新聞を読みたいからと新聞を取ったりしていた。

娘に会いに行くという夫との共通の楽しみがなくなり私はますます孤独になっていった。
息子の事しか考えない義母ともはや通常の人格ではなくなった夫。時々ガラス越しに
娘への面会が許されたが、娘が描いた絵を職員から貰うのが唯一の楽しみになってしまった。

私は独りぼっちになってしまった。

やがてコロナウィルスの緩和がはじまり作業所にも通えるようになった。同じ作業所に
離婚して生活保護を受けながら働いている人がいた。グループホームで暮らしているらしい。
羨ましかった。

私も同じようにしたかったが、猫がいるのでグループホームは無理だった。
娘に会えない時は猫が癒しだった。作業所で面談があると夫との生活の限界の話ばかり
言っていた。その頃はまだ夫の認知をよく理解していなかったので、何が
どうなっているのか?を考える余裕はなかった。夫はひたすら義母に甘えていたし、
透析になると暴れるのも元の性格だと思い込んでいた。夫の認知が分かったのはもっと後だった。

それでも夫は脳梗塞で倒れた事があり、その後遺症なのかな?と、考える程度の認識は
あった。当時世間で騒がれていた50ー80問題が家庭内であった。50代の無職の子供が
80代の親の年金で生活をしているという問題である。少しでも夫が働くようにあちこちの
作業所に連れて行ったが、簡単な作業も夫はすぐに飽きて勝手に自宅に帰っていた。
当時は出来ないという認識がなかったので、夫の態度に愛想もつきていた。

そんな生活が数年続き、娘がグループホームで暮らすようになった。

コロナウィルスの規制の緩和はあったがまだ面会は無理だった。春を待つ動植物のように
私はひたすら娘に会える日を待った。

義母の弟とトラブルがあったのを機会に義母は家を出て行ったのはまだ娘と会えない頃
だった。夫と二人残されて夫の面倒も一人でみる事になった。3人分の年金がないと自宅を
維持できないという後見人の話から家を売る話が出た。

夫の認知が酷くなっていっていた。夫が特別養護老人ホームに入所する話が具体化して
いった。その時に私は初めて夫が若年性認知症になっていたのを知った。後悔した。
誰も教えてくれなかったのである。夫は夜中に徘徊するようになり、血圧が上がって
いたので道端で倒れている所を救急車で病院に運ばれたりしていた。時には警察官に保護
されて夜中に帰宅していた。

夫の行動が幼児のようになりつつあった。食事をする姿もまるで小さな子供のように
なっていっていた。食事を食べたのを忘れ、夜中に「腹減った。何か作って。」と、
起こされてお米を炊いておむすびを作り、漬物をそえて

「食べたら寝るのよ。」と、優しく対応していた。

その生活も長くは続かなかった。夫は死んだ。

その日は透析の日だったので、いつものように夫を起こしに行った。普段寝ている
ような姿勢でベッドに寝転んでいた。「まだ寝てるの?起きやっ。透析やでっ。」と、
夫の体を揺り動かした。

冷たい。

咄嗟に夫の鼻と口に手を当てた。息をしていなかった。

慌てて救急車を呼んで、蘇生していた。しかし夫が目を開ける事はなかった。愕然とした。
頭の中が真っ白になった。亡くなってから数時間経過していると告げられ、警察と病院から
医師が来た。

葬儀の時も泣けなかった。愛想が尽きたとはいえ、情はあったのだと思い知った。
白い骨になった夫を見て諦めがついた。

老人ホームに入居する夫に禁煙させるべくタバコの量を抑えていた。こんなに早く
死ぬのなら好きなだけタバコを吸わせてやれば良かったと後悔した。好きなだけ好きな物を
食べさせてやれば良かったと思った。

わずか59歳で夫は死んだ。

心不全だった。

私はショックから立ち直れず精神科に入院する事になった。入院中、娘に夫の死を告げた。
娘もまた小さな子供のように「死んじゃったんだ」と、悲しむ事はなかった。

娘のスタッフから「お母さんが入院している事は言わないで下さい。」と、言われて
いたので入院の事は娘には告げなかった。

入院中、猫が死んだ。

本当に独りぼっちになってしまった。娘も独りぼっちだ。

娘が産まれた時の事を思い出した。私にも娘という家族がいる事を。血を分けた
かけがえのない娘。

私は独りぼっちではない。そして娘も。

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