独断偏見音楽談義・ツミキ /【フォニイ】について語るよ!

こんばんは!!!今回はタイトルの通り、ツミキさんの新曲「フォニイ」について感想を書いていこうと思います。
これまでこのシリーズでははるまきごはんさんの曲しか取り上げてきませんでしたが、今回初めてはるまきごはんさん以外の曲について書いてみます。
この曲を聴き終わった瞬間、「これはやばすぎ、感想を書くしかない!」と衝動的に感じたのでこの記事が誕生しました。
勢いって大事ですね!この勢いのままいってみましょう!

「フォニイ」とは?

フォニイは、2021年6月5日の19時に投稿された。使用ボーカルは可不。
最近様々な楽曲で可不が歌うのを見かけるが、(syudouさんの「キュートなカノジョ」や、すりぃさんの「めめしぃ」など)ツミキさんもついに使ってきたか~!という感じだ。
前作「チエルカ/エソテリカ」が5月27日、2月6日には「レゾンデイトル・カレイドスコウプ」が投稿されており、今年だけで既に3曲を発表している。
YouTubeへの投稿数だけで見ても、2021年の投稿数は既に2018年と2019年の3作と並んでおり、これはツミキさん史上最もハイペースであると言っていいい……だろう。

作品のリンクはYouTubeを張っておくが、ニコニコ動画にも投稿されている。

世界観について

そもそもタイトルである「フォニイ」は、英単語として形容詞もしくは名詞で使われている(私は英語が苦手なためか初めて聴いた単語だった……)。
その意味は、
名詞→偽の、偽りの、いんちきな、でっち上げの
形容詞→偽物、まがい物、いんちき、ペテン師、まやかし
である(引用サイト様・https://eow.alc.co.jp/search?q=phony)。
どちらにせよ、これは「偽り」をテーマに歌った曲であると考えられるだろう。

歌詞について

冒頭から絶望をぶつけてくる歌詞が尚早気持ちいい。
「この世で造花より綺麗な花は無いわ 何故ならば総ては嘘で出来ている」
水を吸い、太陽の光を浴びて生きる生花の美しさを一番とするのではなく、枯れることも虫に喰われることもない作り物の花の美しさが一番だというのだ。
生花はいつか枯れてしまうけれど、その懸命さが美しく、大衆はそれを賞賛しがちだ。
じゃあなぜ枯れる=醜い姿を迎えるものを大衆は愛でるのか?
なんとなくだけど、終わりに抗って生きる姿は応援したくならないだろうか。
逆境を跳ね返して勝利する英雄の物語が好まれるように、生花の美しさが肯定されるのはそんなところにあるような気がする。
なのに、この曲ときたらいきなり「造花より綺麗な花は無いわ」である。
反英雄的な、どこか斜に構えたような視線から曲の世界は始まるのだ。

よく見てみると、この曲の中には「作られた美しさ」について触れる単語が埋め込まれている。
絵画(曲の中ではメイク、と読む)、夜の電車。
これらはどれも人の手で作られた人工物だ。
絵画は美術館で、メイクは誰かの顔を彩り、夜の電車は夜景の一部となる。
どれも人の作り出した美しさだ。
でもこの歌詞の内容を見てみると、「作られた美しさ」を賞賛しているわけでもない雰囲気がある。
わかりやすいのは「自らを見失なった絵画」の部分。
「絵画(メイク)」が美しいのならそれを喜べばいいのに、この「絵画」にここで与えられた評価は「自らを見失った」というもので、この「絵画」はどうやらプラスの意味で使われているようではなさそうだ。
「絵画(メイク)」で「自分」を上から塗りつぶしてしまっている。
良い「絵画(メイク)」であればその色彩は自分を引き立ててくれるのに、ここに歌われている「絵画(メイク)」は「自らを見失」なわせる。

余談だけど、メイクをしたことのある人でこんな気持ちになったことはないだろうか?
泣いてしまいそうな、今にも決壊してしまいそうな感情を引っ張り上げて「大丈夫」だと装うために、あえてくっきりとしたアイラインを引いたり、濃い色のアイシャドウを使ってみたり。
(余談だけど、私自身卒論を書いていたときずっとメンタルが限界で、アイシャドウがずっと赤かったし、大学を卒業して就職した会社ではピンクブラウンをベースにラメまで使ってやっぱり赤を目尻やら下まぶたやらに忍ばせていた)(メイクの規定は結構ゆるい会社だった)。
それをまとっている間はなんだか本当に大丈夫な気がして、むしろ強くなった心地さえする。
泣きたい自分の中身はなんにも変わっちゃいないのに、外見をつくることで大丈夫なんだと思いたかった。
本当の自分の気持ちを上から塗りつぶしている。
だからこの「絵画(メイク)」は「鏡に映り嘘を描いて自らを見失なった絵画」なのだ。

話が大幅にずれたけれど、この「絵画」の例一つとってもこの曲の歌詞には自分が何者なのか?という疑問と絶望感が歌われている。
「何故何故此処で踊っているでしょう」「あたしって何だっけ」、そして「如何して愛なんてものに群がりそれを欲して生きるのだ」。
自分が何者なのかもわからなくなる世界の中で、愛なんて曖昧なものを求めてしまう人間はよくわからないし、何よりやっぱり自分自身がわからないまま。
ちょうど私はほかの記事を書く都合で愛とは何か?ということをたびたび考えるのだけど、なんか愛って良くも悪くも自分本位な感情を指す気がする。
相手に幸せになってほしい。
たとえばこれが愛だとしても、「なってほしい」と願っているのは紛れもない自分自身で相手ではない。
この時点で愛はある種のエゴなんじゃないか?という仮説が立ってしまうし、愛は誰かへの願いの押しつけでしかないのかもしれない。

誰も彼もが自分に現実がうまくいくために偽って、愛なんて綺麗な言葉にエゴを押し込めている。
でも嘘だらけの世界に嫌気が差すから、愛だなんて純粋そうな響きのものに人間は群がってしまう。
とにかく、本音と偽りの世界で私たちは生きていくほかないのだ。

音について

ぜひイヤホンで聴いて欲しい。
この一言に尽きる。
心地いいビートについ頭を振ってしまうのではないか。
ツミキさんの曲はどれも気持ちのいい爆音が特徴な気がするが(アノニマスファンフアレが個人的に好きです)、脳髄を揺さぶるようなドラムと絡まって追い打ちをかけるようなシンバルの音がいい。

加えてAメロBメロサビ……と流れるように変化していく転調のテクニックも用いられており、これもこの曲の持つ独特の快感の要因だろう。
「何故何故此処が痛むのでしょう」から「散々な日々は変わらないわ」の間の、ゲーム音楽に使われそうなサウンドを用いたメロディーはダークな世界観にほんの少しの愛嬌を加えているし、「パッパラパッパララッパッパ」の後ろで響く鏡の割れるような音も曲に緩急をつけている。

快感が脳を走りぬけて、その虜になっている。
ひとことでこの曲の持つサウンド面の魅力を表現するなら、そんな言葉に集約されるような気がするのだ。

さいごに

この曲を初めて聴いたとき、そのイントロで「あっ好き」となった。
それはたぶん、悲嘆めいた歌詞と何かを予感させる速いテンポのメロディーに惹かれたのだろう。
1回目は音に、2回目は歌詞に、3回目は両方に注目する。
そんなふうに何度も聴いていたら、編むように作られた美しい「偽り」の罠からはまって抜け出せない……。
底なしの沼にはまる。
そんな言葉でこの曲に賛辞を贈りたい。




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