平気な顔をして、セミを待つ(苦しみについての考察)
前回のnoteの続き。
今ある『苦しみ』について、次回へと考察を見送ったので、またぽつぽつと書きます。(9/2時点)
不安と吐き気を辿ると、(今住んでいるシェアハウス、今私が気持ちを入れて手入れして維持している人間関係、自分との信頼関係、ルーティン。私が離れることになるものとして頭にぽつりぽつりと浮かんでくる。)今自分を引き剥がそうとする痛み、と翻訳することが出来る。これを経て辿り着いた場所には、なんとなくだけど次の暮らしに実感が湧く気がするのだ。自分のことも、確かなものと思える。
だから、私は今の期間が肥やしだと考えている。
すごく完結に書いてしまった。
別の方面から言語化の試みもしてみよう。
『つくる』を私の暮らしに迎えるにあたって、「変えよう」と動けば動くほど、こうして今いる場所、私の中でわたしだと無根拠に認識していたものを痛烈に感じ始める。
今まで信じてきたもの(それには自分自身も含まれる。)が信じられないし、芯だけを残して、"生まれてからずっと、持ち物なんてないよね。"をやることになるのだ。"生"に手を突っ込み、掬いに行く動作を淡々と何度も反復する。何も考えずに。
今いる場所とのギャップは濃く感じるし、さらに意識のないところで、"動きたい"という気持ちが加速しているような気がする。ただ竜巻の中にいる気がする。
この嵐は、私のためにあることを知っている。今小さな夢が芽生えて、育つ時。充分な気にかけるやさしい気持ちと、かけていく時間が答えをくれる。楽しんで、育むプロセスを楽しみたい。
なんだか、時期になったら出てくるセミを待つ気持ちだ。あくまで、平気な顔をして、混沌とした地をかき混ぜて、ものすごく穏やかな海のように過ごしている。
そして、少しずつ変わってきている。
励みになります☺️