「声が解釈違い」ってただの我儘で片付けていいものじゃないですよね?って話

小説漫画のアニメ化や実写化で、最も重大で最も頻発する「解釈違い」は声についてのそれだと思う。
まず、整理するために、人間には五感がある。他者に関する情報は基本的にそれに頼っていて、純粋なその情報プラス、人格や関係など目に見えないもの(「人間性」とでも呼んでおく)の計6つで情報が構成されるとすると、

・小説:人間性
・漫画:人間性、視覚
・アニメや実写:人間性、視覚、聴覚

と、順に増えていくのがわかる。純粋に知覚できない人間性はともかく、それぞれにおいてここにリスト化した以上の純粋な知覚による情報はない。「描写されている」はこれに含まない。
そうすると、「解釈違い」の起き方がわかってくる

とりあえず、人間性については、世間で「解釈違い」がほとんどこれである事からもわかるとおり、これは一意に定まるものではない。しかし、もちろんの事ながら創作物の登場人物に関する最も根幹の情報である。この情報のあやふやさと重要さから、これはよく「描写」されるし、ある程度の「解釈違い」の覚悟を持って受け手はアニメや映画に挑む。よって、原理的には、頻繁に起こり、かつ最も重大な「解釈違い」ではあるが、作り手受けて双方に意識されることによりその程度は下が(り、声(聴覚情報)に一歩譲)ると考える。

それ以外の情報について、残されたのは視覚と聴覚である。

視覚について、
人間は、外界の情報を得るのに大きく視覚に依存している。当然視覚についての描写も多くなる。小説で「この人はこれこれこういう見た目で」みたいな描写はよく目にするだろう。では、「これこれこういう声で」さらに「これこれこういう匂いで」はどうだろうか。そういう描写が存在しないことはないが、頻度は圧倒的に下がるだろう。となると、聴覚嗅覚情報に比べて描写による間接的な情報ははるかに多く、視覚情報として表現されたときにも、受け手が思い描いていたものとの誤差ははるかに少なくなる。ところで、巷では漫画実写化の非再現性がよく話題になるが、これは「解釈違い」とはまた別の話であるので割愛する。

聴覚について、
上述の通り聴覚情報の描写は少ない。しかし、作品において、聴覚情報は非常に重要である。なぜなら、ほとんど全ての場合において登場人物は発話するからである。個人差はあるだろうが、多かれ少なかれ、「」付きで書かれる(あるいは吹き出しに書かれる)登場人物の発話、さらには地の文でも思考などは想像の中で声を当てはめながら読まれるだろう。言い換えると、そういう文を読むとき、頭の中でその登場人物に「喋らせる」だろう。その声は、登場人物の性別年齢等の情報を参考に、受け手のこれまでの経験から作られる声である。これが、映像化されて声が当てられた時の声(聴覚情報)の「解釈違い」の元となる。この「解釈違い」の発生は、登場人物が非人間の時を考えるとより想像しやすくなるだろう。この「解釈違い」の発生メカニズムは人間性のそれと酷似するが、より間接的であり、より受け手側の経験が介入するものでもあるから、これは人間性の解釈違いより高頻度で起こるであろう。
続いて、これが最も重大であるということについてだが、声と一口に言っても、それを構成するものは、音色、大きさ、高さ、速さ、間、と複数ある。ここには、人格が現れる。それはまるで、服装にその人の表現したいものが現れるように、行動の癖に普段の振る舞いが現れるように、表情にその人の性格が現れるように(ここまで、視覚情報に現れる人格を細分したもの)。意識的にせよ無意識的にせよ、人の言動にはその人の人格が現れる。あまり意識されないが、声というものはその人を推し量るのに非常に重要な情報なのである。
以上より、声についての「解釈違い」が、最も重大で最も頻発する「解釈違い」であることが示された。

余談であるが、4D技術なるもので嗅覚触覚の情報を伴ったメディアが開発されているが、しかし、声ほどの「解釈違い」にはならないだろう。嗅覚がその人の人格を表す程度は視覚聴覚に比べて低いであろうし、触覚についても、そもそも一定以上の仲でもなければ他人になど触らない。
明言はしなかったが、登場人物、とりわけ人間についてと射程を絞っての話をここまでしてきた。想像上の存在についてならば、嗅覚触覚の「解釈違い」も重要になってくるかもしれない。

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