「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」について

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生


栗木京子さんの短歌です。
観覧車に乗っている想い出を一生のものと感じる「我」と、一日程度で忘れてしまうであろう「君」との対比が、対句表現でいきいきと現れます。旧仮名遣いで書かれていることもあわさり、切なさや哀愁を感じ取ることができます。

また、「回れよ回れ」という表現は、実際の観覧車は回ると降りなければならないわけですから、関係の比喩として、2人の関係が進展してずっと続いて欲しいといった詠み手の気持ちを感じることができます。

世間一般では、これは恋の歌と解釈されています。そう解釈するのが自然でしょう。
「我」が一方的に片想いをしている。最終的にどうなったかはわからないが、少なくともこの歌が詠まれる時点ではまだその恋は実っていない。そういった解釈です。

しかし、この歌は恋の歌であるとは明確に歌の中で言及されていません。わかるのは、観覧車に一緒に乗る間柄で、「我」だけが相手に対して強い想いを覚えているということだけです。この歌は、「我」と「君」との想いの重さの対比によって読みの方向性を示しながらも、解釈に対してはある程度開かれています。

この歌が授業で扱われた時に、クラスメイトが「これは死別した友人のことを歌ったものである」と意見しました。確かにそう解釈できなくもないです。
2人で一緒に乗った観覧車。君にとっては何気ない一日だったかもしれないけども、君を失った今となっては、(最後に君と遊んだ)あの観覧車の想い出は一生忘れられないものである。
というふうな解釈ができます。私はこの解釈はとても好きです。

そして、わざわざこの解釈を取り上げたのは、もちろん好きだからというのもありますが、こう解釈すると「回れよ回れ」がより比喩として面白く読めると考えたからです。
前述するように、「回れよ回れ」は関係の進展を望むと読めます。観覧車の稼働と物事の進行を重ね合わせるわけです。しかし、観覧車もそうですが、「回る」と、物事は元どおりになってしまいます、堂々巡りです。もちろん、日々のサイクルを読み取ったり、あるいは、実は詠み手がこれ以上の発展を望んでなかったと読むこともできます。
しかし、友人との死別と読むことで、「回る」という動きによりはっきりとした意味を持たせることができます。それは、魂の循環、輪廻転生、つまり、「また生まれ変わってきてほしい」ということです。「我」は生まれ変わった「君」と逢いたいのかもしれません、逢わなくてもよいのかもしれません。ただ、死んでしまった友人の魂の永続性を「回れよ回れ」と願っているのです。

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