推しからのDM、そして認知
理由はわからないが、以前書いた推しからDMがきた話が私の記事の中で1番反応が良い。
需要があるかはわからないが、その後また推しからDMが来たのでその時のことを書き記そうと思う。
▼ 推しからDMが来た話
前回の記事に引き続き、推しとの思い出を忘れたくないオタクの独り言。
3月に初めて推しからDMが届いてから、ずっと余韻に浸っていた。
定期的に通知のスクショやDMの履歴を見返してニヤニヤする毎日を過ごしていた。
あの時のドキドキも落ち着き始めた頃、夜遅くに推しからまた一通のDMが届いた。
やっぱり通知が来た時は嬉しくて、心臓が跳ねて顔が緩んで、忘れずに通知のスクショを撮った後スマホを抱きしめた。
相変わらずコピペでもおかしくないくらいの典型的な文章だったが、前回の文章とは明らかに違う部分があったのを私のような拗らせオタクは見逃さない。
前回はまだ好きになって日が浅かったのとあまり絡みもなかったし、どこか他人行儀で「これからも好きでいてくれたら嬉しいな」というニュアンスの言葉で文章を締めていた。
だが今回は、推しが送ってくれた文章の中に "いつも" という言葉が入っていた。
いつも…?いつもって……??
推しは私のことを知っている…??
認知している………???????????
意味がわからなかった。
「いつも」の意味を検索した。
推しの脳内の限られたスペースに私のアイコンや名前が入っているなんて、そんなの申し訳ない。
でも私のような気持ち悪い拗らせオタクのことを推しは認知してくれて、「あ、いつもの子だ」と思ってくれているんだとしたら素直に嬉しい。
自己肯定感が低く自分の推し活に自信のない私は、こんな気持ち悪いオタクのこと覚えたくなくても覚えちゃうよねという捻くれた考えになるし、認知も幻だったのかもしれない、社交辞令かもしれないと思うことばかりだし、実際そうだろう。
DMで "いつも" という文言が届いたから認知されているのでは?というだけだから100%の自信はないし、配信に初めて遊びに来た人にも「いつも応援ありがとう」と言っているのを見たことがあるから、推しの中では特に "いつも" という言葉に大きな意味はないと思う。
例えば、配信やSNSとかで私を認知しているという決定的な何かがあったとかではない限り、100%の自信には繋がらないだろうけど、それでも1%の認知の可能性を私は信じたい。
自分の都合の良いように解釈して、勝手に幸せな気持ちになれるのが推し活の良いところであると改めて気付いた1日だった。
認知がそんなに大事かと聞かれたら別にそういうことではない。
でもなんだか、一方的に推しのことが好きで一方的に推しのことを知っているのはちょっと悔しい。
推しに好いてもらうのは、財力オタクでも古参オタクでもない空気のようなオタクの私にはハードルが高すぎる。
だから、名前とアイコンくらいは覚えていてほしいななんてわがままになってしまうのだ。
めんどくさい女心というやつ。
1年に2〜3回程度のDMのやり取りは、推しの時間も推しがくれた言葉も全部全部私だけのもので、唯一独り占めできるものだ。
それが私には最高に幸せで、最高に哀しい。
今日も大好きだ。