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音楽感想:いのち(2024 ver.)/AZKi

はじめに

 「いのち」およびそのリメイク版である「いのち(2024 ver.)」はホロライブ所属のVirtual Diva AZKiちゃんのオリジナル曲です。作詞・作曲・編曲は瀬名航さんが担当されました。原曲の「いのち」は2019年にAZKiちゃんの8番目のオリジナル曲としてリリースされて人気を博しました。そしてその5年後の2024年4月27日、AZKiちゃんのチャンネル登録者100万人&100曲耐久の達成直後、「いのち(2024 ver.)」のリリースが発表されました。
 リメイクまでされるということは、この曲はAZKiちゃんにとって最も重要な曲の一つなのだと思います。そういうことならnoteに感想でも書いておくべきかなと思い、今回この記事を作りました。

いのち 2019ver

 2024verの前に、まずオリジナルの「いのち」に触れておきます。オリジナルの「いのち」は2019年4月30日、平成最後の日にリリースされました。この曲については、noteに公式のライナーノーツがあります。

 瀬名さんのライナーノーツによれば、この曲は「死生観」と「ポジティブな共依存」がテーマになっているとのことです。この曲で歌われている「死生観」というのは人間にも当てはまるところはありますが、Virtual Singerの曲ということもあり、主にVtuberの「生」「死」が問題にされています。そしてその二つの中でも特に「死」のほうが意識されているようです。
 何を以って「死」とするかと言えば、サビに

君が忘れちゃったら私は居なくなるの

 とあるように、記憶から消えてしまうことが「死」だとされています(AZKiちゃんのライナーノーツも参照)。

 この曲の特筆すべき点としては、Vtuberにとって普遍的なテーマを歌ったことで、多くのVtuberの共感を呼んだことです。当時まだ黎明期だったVtuber業界は一寸先は闇の状態で、いつ終わりが来るかも分からない状況だった思われます。そのような不安定な状況下で活動する心境が、AZKiちゃんの切実さ溢れる歌唱で歌われ、大変感動的な曲になっています。

いのち 2024ver

 2024verはオリジナル版がリリースされた日からちょうど5年後の2024年4月30日にリリースされました。歌詞全文はMVの概要欄にもありますが、次のAZKiちゃんのツイートにも画像として上げられています。

 また、MV同時視聴のあとに、AZKiちゃん本人が2024verの制作秘話について語っています。

 AZKiちゃんも言っていますが、2024verは2019verに比べて前向きな歌詞になっています。ラスサビの歌詞が次のように変わったのは特に大きな変化でしょう。

最後まで私を覚えていなくてもいいから
いつしんでしまうだろう わかんない わかんないよ でも
今、君が笑えたこと それだけで意味があること
君が忘れちゃっても私は死なないから

 2019verでは「君が忘れちゃったら私は居なくなるの」と歌われていた箇所が、2024verでは「君が忘れちゃっても私は死なないから」というように変わっていて、とてもたくましくなった印象を受けます。そして、今リスナーを笑わせることができたことだけで意味があるというように、「今」を重視する考えが見られます。2019verには消えてしまいそうなはかなさがありましたが、2024verは切なさを感じる箇所もありつつ、最終的には力強い歌になっています。
 また、全体的に2019verより音のメリハリが効いているような印象を受けました。落ちサビのLiar-Desireのコーラスがなくなっていて、ラスサビの盛り上がりがさらに際立っています。
 ところでこのLiar-Desireコーラスですが、僕は何が「嘘」なのか分かっていません。「本当の気持ちしんじつ」とは何なのかも分かっていないです。虚偽とは… 真実とは…

2024verにおける死生観

 2019verにおいては忘れられることが「死」でしたが、2024verではどうなっているのでしょうか。先ほど引用した「君が忘れちゃっても私は死なないから」という箇所は、2019verとは異なった死生観が2024verでは歌われていることを示唆していますが、そこでは「忘れられることは死ではない」という消極的な定義がなされているだけで、「何々のとき死ぬ」や「生きるとは何々することだ」というように、積極的に「生」「死」を定義しているわけではありません。2024verにおける「生」「死」、そして曲名になっている「いのち」とは何なのでしょうか。これについて2019verの歌詞と比較しながら考察していきたいと思います。

 まず「いのち」について見ていきます。サビの最後の「命のような夢を見てるよ」という箇所ですが、2019verと、2024verの1番と2番は漢字の「命」になっている一方、2024verの3番は「いのちのような夢を見てるよ」と、ひらがなになっています。一番最後がこの曲の到達地点だと考えられるので、ひらがなの「いのち」が2024verの死生観を表わしているのだと思われます。
 それではひらがなの「いのち」はどういうところで使われているのか、ということを調べてみます。

鼓動がドクドクしている
此処はいつも変わらずに急かし続ける
ボタン一つのいのち

鼓動がドクドクしている
此処はいつも変わらずに巡り続ける
気分次第のいのち

 どうも「鼓動」と関係していそうなところから、生物的な命のことをひらがなで「いのち」と表現しているのではないか、という推測が成り立ちます。とりあえず2024verの「生きる」とは「生物として生きることである」という仮説を立ててみます。
 ただ、「いのちのような夢を見てるよ」とあるように、生物として生きているのは演者であって、「"AZKi"が生きている」というのは疑似的な意味においてです。
 以上を踏まえると、引用した歌詞の中の「ボタン一つのいのち」は「配信開始ボタンを押すことで疑似的に成り立つ生物的な命」で、「気分次第のいのち」は「演者の気分に左右されながら疑似的に成り立つ生物的な命」だと解釈できます。どちらの「いのち」もメタファーだと思います。

 2019verと2024verで漢字とひらがなという表記の違いがあるのは「いのち」だけではなく、「生」と「死」についてもそうです。

(2019ver)最後まで私は生きているかわからないけど
(2024ver)最後まで私もいきているかわからないけど

(2019ver)いつ死んでしまうだろう わかんない わかんないよ ねえ
(2024ver)いつしんでしまうだろう わかんない わかんないよ でも

 2019verでは漢字だった「生」「死」が2024verではひらがなになっています。しかし歌詞全体においてそれらがひらがなで統一されているわけではなく、例えば最初に引用した、2024verの死生観が最も力強く表現されている「君が忘れちゃっても私は死なないから」という箇所では漢字になっています。思うに、2019verの死生観、つまり「忘れられたら死ぬ」という意味での「生」「死」はひらがなで表記されており、2024verでの死生観におけるそれらは漢字で表記されているのではないでしょうか。Cメロでは次のように歌われています。

いき急いだあの日を 軽くイジらないであげて

 「いき急いだ」が漢字で「生き急いだ」となっていないのは、生き急いだのが過去の話であって、2019verの死生観に沿って生き急いだからなのではないかと思います。
 それでは2024verの「生」「死」だと推測される漢字の「生」「死」はどういう意味なのでしょうか。これは2024verの冒頭がヒントになります。

息をしている だから生きている

 「いのち」のときは「鼓動」でしたが、ここでは「息」です。どちらもvital signなので、「生」「死」のルートを辿っても「いのち」という言葉のときと同様、生物的な命に行きついたことになります。また、「息をしている ように見えている」とあるように、息をすることがAZKiにとっては疑似的なところも同様です。

 ということで一つ目の結論としては、2024verの「いのち」とは生物的な命で、「生きる」とは「生物として生きること」であるということが言えるのではないでしょうか。ただ、実際に生きているのは演者なので、"AZKi"の「いのち」はメタファーです。あるいは、"AZKi"の「いのち」は演者の「いのち」であるとも言えます。そうではありますが、"AZKi"の「いのち」がこの曲のテーマであるはずなので、「"AZKi"が生きている」と表現される状況がどういう状況かと考えてみると、やはり活動を続けること、もっと言えば、歌詞にもある「歌い続ける」ことが、「"AZKi"が生きている」ことなのではないかと思います。

 もう少し続けます。2019verの瀬名さんのライナーノーツよると、リアルの物質的な命とバーチャルの命の二つが歌詞に盛り込まれているようです(瀬名さんのライナーノーツでは「命」ではなく「死」という言葉が使われています)。この記事の「生物的な命」は「リアルの物質的な命」に当たります。バーチャルの命はこの記事で2019verの死生観だとしている、忘れられたら死ぬ命だと思います。2019verではリアルの命(生物的な命)はサビ以外で、バーチャルの命はサビで歌われ、別々のものとして扱われているように見えます。一方、先ほどの結論が正しければ、2024verではバーチャルの命がリアルの命から導き出されることで、二つの命が統合されているということが帰結するのではないかと思います。
 AZKiちゃんはもともとイノナカミュージックに所属していましたが、そこではプロデューサーもいて、複数人から成るチームで"AZKi"をプロデュースしていたようです。しかしイノナカミュージックが解散してホロライブに移籍したことで、"AZKi"は演者が個人でプロデュースしていくことになりました。その結果、"AZKi"は演者の内面が染み出すような存在になって、結びつきがより密接化したのだと思います。

 以上から二つ目の結論として言えるのは、2024verの「いのち」はリアルとバーチャルが一体化したような「いのち」なのではないかということです。そしてこれは今のVtuberの主流の在り方でもあります。2019verと同様、2024verもAZKiちゃん個人だけではなく、Vtuber一般に受け入れられるような射程をもった曲になっていると思います。

2024verにおける「ポジティブな共依存」

 「君が忘れちゃっても私は死なないから」と歌われている以上、もう「共依存」という状態でもないのですが、相互的な関係が見られるようなところで、興味深そうだと思った箇所を一つ取り上げたいと思います。

(2019ver)最後まで私は生きているかわからないけど
(2024ver)最後まで私もいきているかわからないけど

 これは先ほど引用した2019verで漢字だった「生」が2024verではひらがなに変わっている箇所ですが、2024verでは最後まで「いきているかわからない」ものにAZKiちゃんだけでなく、リスナーまで含まれています。「ひらがなの『いきる』は2019verの死生観に従って、忘れられていない状況を意味している」という説からすると、この箇所は「最後まで私もあなたもお互いの心の中にいるかわからないけど」と解釈できるのではないかと思います。推し変したり単純に飽きたりして去っていくと、リスナーの心の中からAZKiちゃんが消えていきます。それと同時に、AZKiちゃんもそのリスナーを見かけることがなくなって、そのリスナーがAZKiちゃんの心の中から消えていってしまう、ということなのではないかと思います。
 しかしこれは逆に言えば、「開拓者がAZKiをのぞくとき、AZKiもまた開拓者をのぞいているのだ」ではありませんが、開拓者の心の中にAZKiちゃんがいるのと同様に、AZKiちゃんの心の中にもちゃんと開拓者がいる、ということなのだと思います。

2019verは乗り越えられたのか?

 2024verは素晴らしい曲です。それでは2024verによって2019verは乗り越えられてしまったのでしょうか。制作陣に「乗り越える」というような意図があったかは分からないですが、少なくとも新しいバージョンがリリースされた以上、旧版は過去のものになったという印象を抱いた人は少なくないと思います。
 個人的には、2024verが現在のAZKiちゃんを表わしているという意味では、2019verは過去のものになったかもしれませんが、乗り越えられてはいないと思います。というのも、この二つのバージョンは背景となっている状況が全く違うので、単純に比較できないのではないかと思うからです。
 2019verは上で述べたように、「終わり」を意識して作られています。一方、2024verの置かれている状況はむしろ「始まり」だと思います。ホロライブに移籍して、ビクターからメジャーデビューして、もうまさにこれから羽ばたいていこうという時です。そうすると2019verが問題にしていた「終わり」をあまり深刻に受け止めるような時期ではないとも言えます。
 「終わり」はもう未来がないという一つの極限的な状況です。そういう状況でこそ切実さが映えるということもあり、2019verはAZKiちゃんの感情表現の上手さと相まって、この点で傑出した曲になっています。
 なので、2024verは感動的でありつつ頼もしさもあって大変魅力的な曲ではありますが、それによって2019verが完全に過去のものになったということはないのではないかと思います。

終わりに

 2019verも好きなので2019verを擁護しましたが、今旬なのはもちろん2024verのほうです。今年(2024年)の7月には新作アルバムが、そして8月にはメジャーデビューライブが控えています。何かホロライブでワールドツアーとかもあるみたいです。5年の困難な歳月を経て新しく生まれたこの「いのち」の楽器の鼓動が、歌声の息吹が、これからいろいろな場面で我々に感動をもたらしてくれるでしょう。