夫の初恋

私にはまともな恋愛経験がほとんどなく、実質、夫が初めての恋人で、そのまま人生の伴侶となった。

あまり詳しい話は聞いたことがなかったが、夫もどうやら似たようなものだったらしい。草食、奥手、人見知り。小学生のころ彼女がいたと言っていたけれど、おままごとみたいなものだろう。

「そっかー、それじゃあ私たちお互い、初めての恋人と結婚したんだねー」

なんて私は笑っていた。夫も「うん、まあ、そうかな」とはにかんでうなづいた。

私は、夫の子どものころの話を聞くのが大好きだ。
高校のころ、おじいちゃんの軽トラで自動車教習所まで送り迎えしてもらっていた話。おばあちゃんの迷言の数々。
夫は二人のことが大好きだった。
おじいちゃんは私と出会う少し前に、おばあちゃんは私と結婚してすぐのころ、亡くなった。思い出話をすると、まだ乾ききっていない傷がうずくみたいに、夫は笑いながら涙目になったものだった。
それから、お父さんに「高い高い」されて天井にぶつけた頭が今でも凹んでいること、お母さんが作った梅の焼酎漬けを上の弟がこっそり食べて酔っぱらってしまったこと、下の弟のやんちゃの数々、お母さんが作ってくれたあんな料理やこんな料理、飼っていた犬のこと。
自然に囲まれて、おおらかに、たくさんの愛情を受けて育ってきた夫の純粋さに触れることが、私は大好きだ。
だからときどき、私は夫に子どものころの話をねだる。
おじいちゃんの話して。おばあちゃんのこと教えて。
聞いても私はすぐに忘れてしまうから、何度も何度も話をねだる。

そんないつものノリで、聞いてみた。
小学校のときの彼女の話、おしえてよ。と。

夫は、えー恥ずかしいなー、なんて照れながら、ぽつぽつと、記憶をたどりながら話してくれた。

夫は小学6年生、彼女は小学5年生。一つ年下の、同じ課外活動をしていた女の子だったこと。
バレンタインにチョコをもらったこと。
細かい言葉は忘れたけれど、たぶんそのときに告白されて、付き合うようになったこと。
学年が違うから学校内ではあまり遊べなかったこと。
なんとなく親には内緒にしていたこと。
でも親に内緒でしょっちゅう彼女に電話していたこと。
その月の電話代がいつもより高くて結局バレてしまったこと。
彼女の家に遊びに行ったとき手作りプリンをごちそうしてくれたこと。
カラメルが苦手だと言ったらカラメル抜きのプリンにしてくれたこと。
そのプリンがとても美味しかったこと。

ひとつひとつ。
宝箱のふたをあけて中身をひとつひとつ確かめては取り出すように。
大事に大事に話してくれた。

その後、中学生になって、少しずつ少しずつ距離ができて、いつの間にか会わなくなって、淡いままおしまいになったらしい。

大好きだったんだね。
――うん、まあ、そうだね。

私はそれまでの考えをあらためた。
私は夫の初めての恋人ではなかった。
子どものころの話だけど、夫にはちゃんと恋人がいたのだった。
大人の恋愛と子どもの恋愛の違いなんて私にはわからないけれど、昔の夫と彼女の間にあったものが恋でなく愛でないなら、一体なんなのだろう。

遠い昔、幼い夫に、大切な宝物をありがとう。
夫の人生にあなたと一緒に過ごした時間があったから、今の夫は私の隣で穏やかに笑えています。

どこの誰かもわからない遠くの彼女に、私は感謝の気持ちでいっぱいになった。

夫も彼女が今どこで何をしているか知る由もない…のだろうと思っていたのだけど、どうやらそうでもないみたい。彼女からある時メッセージが届いたのだそうだ。SNSって便利ね。
夫が言うには、結婚したという報告に、一言こう書き添えられていた、と。

「初恋をありがとう」

ああ、本当に、夫の初恋があなたでよかった。
名前も知らない、きっとこの先会うこともないあなた。
どこかで、どうぞ幸せに暮らしていてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?