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自身と写真の繋がり

「祖父がカメラを持っていたから」と、よくある台詞をわたしも使い回してるわけですが。

実際のところ、わたし自身が忘れっぽいので「記憶」の為、死ぬまでの「記録」として残してるのが本心。いつ・どこで死ぬか分からないから、わたしが存在していたっていう事実を忘れられないように、です。

アラサーに入ったところで自分の生い立ちについて考える機会が増えました。今後一から書くことはないので、ここでブワァァア!っと並べてみる。長くなるから適当にスクロールしてもらえれば。


0歳

血液型不適合妊娠で臍帯から血液交換(NICU)、ここで1回生死を彷徨った。緊急だったからと肝炎やらHIVの検査がままならない状態で輸血されたらしくてずっと感染症の採血されて貧血だからと鉄分ぶち込まれてた

1〜2歳

気管支喘息で入退院するけど本人は元気。パンチパーマの父ちゃん、ファンキー。長渕剛が大好き

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3歳

父に肩車をしてもらいながら愉快に横断歩道を渡っていたら、前方不注意の車に轢かれて父娘で病院送り。頭蓋骨骨折/急性硬膜下血腫で緊急手術、生まれた時に輸血歴があるから大量出血しても輸血不可と言われながら生死を彷徨った(2回目)。奇跡的に後遺症は残らず驚異的な回復力で退院しました。丸刈りになったわたしは母にプリクラへ連れて行かれ、シールを祖父母の家の電話機に貼られる辱めを受けた。ついでに父は足を骨折したのに病院から脱走。

妹も誕生、ぷくぷくした妹ちゃん。父がわたしのことを可愛がるし妹は入院してるしで、妹の写真が殆どないの。タイムマシーンがあれば撮ってあげたいくらい。

中学から6年間お付き合いした人との写真が見当たらないのは不思議でしかない。撮られることが苦手で携帯向けられる度に逃げてたな。かわいいな。黙

ここから先は書き始めたらキリがないので省略、ぽつりと呟けるのは小6から希死念慮があったこと。



21歳

看護師になってわたしがカメラを買った年に父が肺がんで死んで、この時初めて何でわたしが遺影撮ってあげなかったんだろう、って思ったの。余命宣告をされた時、まだ多少なりとも元気そうに歩いてたんだからその時撮ってあげたらよかった。今でも後悔してる。十五夜、満月が綺麗だった日

22歳

姪っ子(妹の子)が誕生、父の命日と同じ日に。ああ、この子のことは沢山撮ってあげよう、ってわたしの中でニューボーンフォトに対する思いがここからスタート。

23歳

今もう吹っ切れたからざっくり書く、婚約者が死にました。Instagramで繋がって付き合って年内に結婚の予定が消え去った、突然死。眠ってる間に吐物で窒息、までは教えてもらった。一緒に住んだら家の中を写真だらけにしたいね、とかポトレやろうねとか話してる最中で脳内花畑だったのよね。当時は大切な人が居なくなったことへの喪失感に耐えられなくて後追いしようかって毎日泣いてた、ベッドで寝たきり生活が続いた。でも、なんか這い上がってこれた。

23〜26歳

老人ホームで看護師として働き始めて、施設内でお年寄りを撮る機会が増えて「楽しい」ってなったの。笑顔、あちこちの皺、立ち姿、職員との何気ないやりとりで見える表情が堪らなくて撮りたくなった。あとは、最期を看取ることが多かったから、そういう人たちはいつの写真を遺影に使われるんだろう?って思いから遺影撮影にも関わりたいと思ったんだけどわたし側の問題で叶わなかった。


こう見えて死にかけたし死のうとしたこともあったけどなんか生きてて、でもいつどこで死ぬか分かんないし忘れられたくないし憶えていたいからカメラを持ってる。

そこにわたしが居たこと、お父さんが居たこと、りょう兄が居たこと、周りの人たちがわたしと過ごした時間とか全部忘れたくないからわたしは記録/記憶していく手段として写真を撮り続けることにしてる。


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↑2018/秋

↓2021/春

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あれだけ桜の季節が怖かったけど、もう克服したからこうやって文章と写真を載せられる。周りの仲間たちに感謝の気持ちでいっぱい。

カメラを持っていなければ、写真を撮ってなければこの出会いもなかったかもしれないから全ての出会いに感謝してる。

写真は魂を吸い込むものじゃない、そこにいたっていう証拠をのこすものだとわたしは思う。



長々と付き合ってくれてありがとう。目を休めてね。


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