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両立場の「いじめ」について体験者が思うこと/どちらの立場にも寄り添える人がいる大切さ

東京は、じりじり暑い日差しが照りつける中
東京オリンピック開催されていますね❤️❗️

私は、いろんな意見や公にはされない事情が
あったとしてもそれでも
世界の選手がただ自分の目標(メダル)に
向かって本気で勝負に挑む姿に、感動していて 

いいなぁという気持ちになり
素直に本気で応援している自分も
なんだかいいなと感じます。

本気で頑張る姿はやっぱり
すごくいいです😊✨






そんな、今季オリンピック開会前。
世間やニュースで
某楽曲ミュージシャンの件で
慌ただしかった👀(みたい)

私は普段あまりテレビでニュースを
まじまじ観る訳じゃないから
オリンピックの曲については
そんなに深く知っていた訳じゃないけど

その曲やミュージシャンのことじゃなく
取り上げられていた『いじめ』について
私が、感じることを書きたいなって思う。


久しぶりのブログ更新記事が
世間的にはヘビーな内容に
なるかもしれないけど

私は、今の私だから
言葉にできること、思うことを
書き留めておきたい気持ちもあり、

今日とある方が、同じ件に関して
気持ちを書いているのを見て
私も、書くことに勇気をもらったから

だから、言葉にしようと思います😊


もしかしたら、ヘビーで・嫌な
内容になるかもしれないから
リターンする方は、ここで
リターンしてくださいっ!


まず、最初に伝えたいこと     

私がこの記事を通して書きたいことは
いわゆる「いじめ」の規模がどうだったか?とか
私に賛同して欲しいわけではありません。

加害者が良い・悪い、被害者が良い・悪い
それらを体験した人たちが
そのあとどんな選択を取ったか?それは
正しいのか?間違っているのか?っていう
正論や、どちらかを擁護する気持ちを
書きたいわけでも、ありません。

ただ、私がどちらの立場も体験したうえで

人間は、自分の弱さを知り
それを受け入れて、それでも罪悪感を握りしめず
まず自分自身が幸せであることが
相手の『弱さ』にも寄り添うことができ、
足りない部分を補いながら生きていくことに
繋がっていること。

それから、自分の弱さを許して
それでも幸せを選ぶことを許すことは
自然と、自分以外の人の希望
になりうること。

弱さは、責め立てたり正すものではなく
自分にも相手にも、優しくなれるものであることが
伝われば良いなと思います😊


私が体験したこと

私も、物心ついて記憶のある
幼稚園の頃からいわゆる
いわゆる、いじめを体験した過去があります。

幼稚園の頃は、登園したら
上履きがなかったという記憶が
衝撃的だったんだけど
なんとなく薄々、「そういう悪意」
のある言動だったことは子供ながらに
感じることがあった。


いわゆる『いじめられた側』
それを体験した側は、

体験した一つ一つの気持ちや
そのとき目に観えていた風景。
ザワザワして、怖くて
罪悪感をいっぱい感じながら
生きていた体験って、忘れなくて。

その現実がもう目の前になくても、
“身体がそれを記憶してる” って感覚で
大人になったり、時間が経っても

どこかトラウマになってたり
体験がフラッシュバックすることが
私には、ありました。


突然、誰も話してくれなくなる恐怖。
書いた手紙を目の前でビリビリに
破かれたなんとも言えない気持ち。

ボールを意図的にぶつけられる
怖さと痛さ。一人で部活に向かう罪悪感。
教室に入った時の、みんなの視線の怖さ。

意図的に一部の男の子たちから
「お前の触ったものは、触れない!」
「汚い!」「気持ち悪い!」と
言われた時の、体がすくんだ感覚。

いつもビクビク、人の顔色を伺って
嫌われていないか?私は間違っていないか?

楽しい!って感情よりも、
その「怖さ」を感じていた記憶が主で
その頃の記憶がごっそりなかったりもする。

何も悪いことをしていないのに
先生に呼び出されて、怒られたり
注意をされたり、

みんなが楽しくいる教室から
見えるところで先生に質問責めされて
友達の視線を感じながら、

涙をいっぱい堪えてたことも
体験としてはあって、

だからね、ずっと
私が悪いと思っていたんだ。
自分をずっと責めていました。



何が悪いのか、わからないけど
なんだか存在していることが
ダメだと言われている気がして。

それらの体験がその後
自尊心や自分の『性の否定』にも
繋がったり

人間関係・恋愛にもすごく影響を
及ぼしたまま、大人になった背景があって

実際、苦しかった時期は
学生時代特に長かったかなぁと思います。


自分の護り方がわからずに、
同じことをしてしまった話し


ただね、私がこの記事について
書こうと思ったのは『いじめを体験した側』の
気持ちをただ綴りたい訳ではないからです。
いわゆる『いじめる側』の気持ちや
立場も、私なりに感じることがあったから。


私は上記に書いた『いじめを体験』した事で
感じた、怒りや悲しみ。憤りを、
自分で許すことができなかった。

自分で、そう言う感情を抱いたことを
自分に、許す事ができなかった。
それらを、我慢した。
それらに、素直になれなかった。

弱い自分を、自分でわかってあげられなかった。

それを、人にぶつけるように、
同じように『何かしらの悪意を持って』
相手に接したこと、行動したこと
一時期、人を無視した経験があります。

それは、同じ様に上履きを隠すとか
手紙を破くとか『行動』ではなくて
同じように悪意の自覚を
持っていたということ。


本当はそんなことがしたいんじゃないのに、
そして、それをされた相手の気持ちは
私が一番よくわかっているはずなのに、

それでも私は、相手の行動や言動に
対して感じた怒りや悲しみを
相手にぶつけた。


もう一人になりたくなかった。
一人になるのが、怖かった。

私も、友達と笑っていたかった。
仲間に入れて欲しかった。
ただ、楽しんでいたかった。

ただ、それだけでした。

そうすることでしか、
自分を護ることができなかった私は

すごく弱かった。


そういう護り方しかできなかった私は
すごく弱かったなと思うのです。

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いわゆる『いじめ』をしてしまう人の心理

例えば、私が体験した
ボールをぶつけたり、上履きを隠したり
『あなたが触ったものは、触れないーー!』
の様な、全く同じことをしたことはないから

それを人にしてしまう人の気持ちは
わからないけど、

ただ、少なからず私が体験をして
私がしてしまったことに対して
今の私が思うことは


ただ、寂しかった。
ただ、わかって欲しかった。

ただ、そんな気持ちを越えて
本当は、私も一緒に楽しみたかった。 


自分が、されて嫌なことを我慢して
ネガティブな気持ちや弱さを
受け入れるのが嫌で。

ただ、怖くてどうしたらいいのか
わからなかったその気持ちを

私が、自分で受け止めきれなかった
怒りや悲しみの刃が、
相手に向かう理由になった。

そして自分でも、それが悪いことだと
わかっているから、余計にそれが
自分を責める理由になって、
さらに、空回り。



私は、いじめる側が良い悪い
いじめられる側が良い悪いとか

そういうジャッチの話しじゃなく
どちらを擁護するという話でもなく

少なくとも私には、
いじめられたとき、弱さを我慢せず
母に話すことができなかったこと

それらが理由で、寂しさや悲しみ怒りが
人に刃として向いたことの理由には

『私と私の母親との関係性』が
多く影響していたなと感じています。


仮にいじめられたとき
それを母に話すことができたり
そもそも『嫌なことを嫌だと』
言える勇気があれば

また違ったかなと思ったり、

そもそも、寂しさが自分になければ
人に刃を向けることをする理由も
なかったんじゃないかなって思う。


そんなことをしなくても、
私は愛されていて、大丈夫なんだって
感じられたんじゃないかなって思うことも
今の私はすごくある。


これに関しては、私が母に対する気持ちに
終止符が打たれていて、そこに抱いてた
感情や気持ちが、少しずつ癒えているからこそ
ただ素直に思う部分です。

いまは母なり、家族なりとても仲良しで
と、いうか元々家族仲良しで
父も母も私や弟を大切にしてくれている愛情は
子供の頃から肌で感じていました。

ただ、私が勘違いをし、母とすれ違っていただけ。

だから、私が体験として勝手に
悲観的に捉えがちになっていた部分や、

相手の言動を勝手に「嫌われてる!」
と、感じていた部分、勘違いも
あったんじゃないかなとも、おもう。

いじめというものを、もし
相手にしてしまう人がいるならばそれは

⚫︎寂しさがあること。それが幼少期の頃から
漠然としたもので、弱さがあっても大丈夫と
そういう確信がないこと。
⚫︎それが、主に親子関係で生じること。
⚫︎そうすることでしか自分を護る方法が
わからないこと。 


ただ漠然とした寂しさというものが
わかってもらえない、という怒りに変わり、
矛先が他人に向くのだと思うのです。

それは根っこには、ただ寂しさがあり
本音は『愛されたい、私もあなたを愛している』
という、ただそれだけだと思うのです。

・ 

本気で『いじめ』に向き合うのに 
必要だと思うこと

だからといって、やっぱりいじめは
どんな理由であれ、
許されるべきことじゃないと思います。

軽はずみな行動や発言が
一生ものの傷跡になる。


ただじゃあ、『いじめた側』だけが
悪いのか??と言われたら
それも、なんの解決にもならないと
私は思います。


私が、一時期悪意をもった行動を
相手に刃を振りかざしたように

寂しさや怒りをどうにもできない
どうしていいのか、わからない子供は
実は多くいるんじゃないかなとも思う。


それは、家庭環境が悪いのかもしれないし
その子にとって母が忙しく構って貰えず
毎日寂しい思いをしているのかもしれない。

両親の中が悪く、そんな声を毎日聞いてて
怯えているのかもしれない。
その子にとっての躾であっても
母親の愛し方は厳しいのかもしれない。


そんな怒りや寂しさが、今度は他人に
刃となって向かっているのかもしれない。


そうすることでしか
生きていけないと思ってる『子供』も
いるんじゃないのかな、と。

だから、無くすこと・ゼロにすることじゃなく
なぜそれか起こるのか?』っていう

なぜそれをするのか??
なぜそれが起こるのか?っていう
行動する理由になってる、気持ちや背景を

加害者側にも被害者側にも
ただ観てあげられる大人や、家族が
いてあげることなんじゃないかなと思います。


ただ寄り添ってあげられる大人がいること。

どちらが正しい、悪いって言う
ジャッチメントじゃなく
ただ、そうなんだって寄り添う大人が
どちら側にもいてあげること。

そして安心して気持ちや、感情を表現できる
場所や環境があること。
ないなら親でもできる大人でも誰でもいいから
どちら側の立場にも、作ることだと
私は思います。


それがどんなに悪いことだったとしても

そうすることでしか自分を護れず
生きていく術がないと感じて
それが精一杯の生き方なのかもしれない。

少なくとも当時の私はそうだったかな。


だから、ただ、
そう言う行動に至った経緯や立場を一旦
置いておいて、

どちら側の立場にも、同じだけ
寄り添い、ただ聞いて、
それを安心してさせてあげられる場所が
あればいいな,と思います。


どちら側の立場になり得たとしても
罪悪感を握りしめて生きない

私はいじめをした側・加害者側に
そのことに対して罪悪感を持ったまま
生きててほしい訳じゃなく
謝って欲しいって気持ちも今はありません。

むしろ、罪悪感なんか感じて
生きてたら、腹が立つかもね(笑)!

罪悪感って『私が、悪い』という
意識だと思っているんだけど、

そう思うなら最初からやるな!!
とも思ってしまうし、
私の傷ついた(ついてきた)気持ちは
一体なんだったんだ…とも思うし。


かといって、じゃあ許せるか?と言われたら

許せない・見たら何か感じるかもしれない
って、そういう風に強く思う時期も
長らくありました。

許せない自分、大人ないとか
もう過去のことなんだから…と
言われても


それでも許せない自分を許して
同時に、悪意を持って行動した
自分の罪悪感も、許しました。
ただ、感じました。

罪悪感って
『私が、悪かった。だから許してね??』
って言うその部分の承認も含まってると

罪悪感を感じはこと自体に
長らく悩んでた私は、思うのです。

罪悪感を感じることが悪いんじゃなく、
それを握りしめて欲しい訳じゃ
ないってこと。

そんなことを、相手にわからせたいのでは
ないと言うこと、ね。


仮にもし、相手に謝られたとしても
「受け取らない」と感じず、
その言葉自体が存在していることは
認めつつ

かといって謝罪してよ!!
って言う気持ちが今にあるわけでもないです。


私は、全然許せていなかった
自分の気持ちを認めることで
前に進めるようになった。

それがどんなに大人なくても
大したことないと言われてるような
感じ方をしても

相手を正すことなく
ただ、自分の気持ちと
それに伴う罪悪感を許しました。


少なくとも私は、
自分が抱いた「ネガティブ過ぎた気持ち」
我慢してきた感情を、自分で大切にして

弱い自分を護る術が
相手を傷つけることでしかなかった
弱かった自分を許して、

ようやってようやく

前に進めた気が今は、しています。

だから今振り返ると
学生時代のほとんどは、
強がること、強くあること
見た目や、振る舞いをそうすることで

私は本来とは全く違う人間
ビジュアルになっていたなぁと思う。笑


そしてね、いまは
どちらに対する自分の気持ちを認め

楽しく、『愛情を感じて』
感動する生き方をしたいと思ってて

そう生きると決めてます🌸❗️


我慢して、ないない…と
自分から閉ざしていたものが

最初から、ずっとずっと
愛情と一緒にあったんだって

愛に触れる機会が本当に多くて
優しい世界だったことを
一個ずつ大切に、体験してる😊✨

昔は大変だった!もっと過酷だったとか
そういう価値観は、あるのかもしれないけど


私は、一人一人が、まず
自分の幸せを感じて生きることが

本当の平和のスタートだと思う。

だから、私は自分の幸せのために
自分と大切な人と楽しく生きたい。


それから、子供って
やっぱり母親のことを庇うから

仮に、いじめをされてても
なかなか言えなかったり

していても、良心が傷つくから
罪悪感で言い出せなかったりすること
どちらもあると思うんです。

だから、どちら側の立場であっても

ただ、気持ちに寄り添ってあげられる
親や大人がちゃんと近くにいてあげること

感情や気持ちを安心して表現できて
打ち明けられる場所を
どちらの立場にも、用意してあげることが

本当の意味で『いじめ』について
考えることができる一歩だと思います。


最後に。もし今悩んでる方がいるならば

そして本当に、学校や職場が
人生の全てじゃない。

もしいま、何かしら悩みがあるとして
もう逃げ出したいのだとしたら、

誰になんて言われても
それが間違ってるような選択に
思えても


『逃げる』ってことは
何もおかしいことじゃないし
間違ってないし

仮にそれがいつか、違った行動だったな
って思う時があったとしても

それすら自分の糧になるから


だから、恐れずに
自分が安心できる場所で
自分の気持ちを吐かせてあげて欲しいです。
どちらの立場であっても、
ちゃんと寄り添ってくれる人は
必ずいます。

だからどうか、まずは自分が
安心して笑顔でいられる場所で
自分から幸せであってください。

ここまで読んでくださって
ありがとう😊★

弱い私を見てくれて、ありがとう。

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