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Nepalエベレスト街道を歩く Gokyoへの道

CHO LA  Passを超えた後はひたすらに山を下って歩いた。
それぞれが体調不良であったためか皆歩くスピードはバラバラで、お互いを黙示確認できる距離で移動しつつも会話は無かった。
次の宿に着くまでの間は殆ど一人で歩いた。

森林限界を超えているため、植物も存在することを許されない黒い山だけがただ広がる景色。
色のない景色の中で足元だけを見つめて一人黙々と歩いていると、
いきなり孤独が襲ってきて、ここが地の果てで、私はひとりぼっちだと確信せざるを得ないような気分になった。
今ここで何かあってもどこにも逃げる場所はないし、病院もないし。食べるものもない。自分がとても無防備でちっぽけに思えた。

この旅の大きな目標を終えて気持ちが燃え尽きてしまったのか、それともやはり私も高山病だったのか。
(※気分の落ち込みも高山病症状の一つ。)

山を下り続けてしばらくした頃、なだらかな坂道を登り返すところでMayuが荒い呼吸をあげて跪いた。しばらくその場を動けなくなり呼吸を整えていた。
Mayuは写真家であり、この旅のために重たいフィルムカメラとそのフィルムをザックに詰めて歩き続けていた。
容態は芳しくなく救助ヘリが呼ばれるかと思われたが、Mayuはなんとか持ち堪え、私たちはまたゆっくり歩き始めた。

再び高山植物が現れた時、ひどくホッとした。


CHO LA Passを越えて数時間、やっと次の村のTea houseが現れたので小休憩を取った。
昨夜の時点でNimaは、今日の行程について
「本日はCHO LA Passを超えた後Gokyoまで向かう。Gokyoに向かう途中は氷河を渡る。氷河が割れたりすると大変なので昼までに氷河を渡り切りたい。そのために朝早くに出発する必要がある。」と言っていた。
その為、この日の出発は朝5時といつもより1〜2時間早い出発であった。

努めて歩き続けていたが、このペースだとGokyoに着く前に日が暮れてしまうとのことで断念。急遽このDranga(4700)のTea houseに宿を取ることになった。

そして夜Nimaから告げられたのは、本日の予定変更に伴う明日以降の予定変更の提案だった。
Gokyo行きを諦めて明日から下山を開始しないか、と。Gokyoに向けてトレックを続行することは危険であるとの判断だった。
動揺した。せっかくここまで来てギャチュンカンもチョオユも見ずに帰るのであれば、何故王道ルートEBCでなくGokyoを選択したのだろうか…という虚しさ、諦めきれない気持ちがあった。

二人にも思う所はあったのだろうがその表情は落ち着いていた。
山岳会でいくつもの登山を経験してきた二人は、私が感じたようなやるせない思いを味わい、飲み込み、受け入れる過程を既に何度も経験をしてきたのだろう。
このような事態になることも想定した上でこの旅に挑んでいるのだ。

しかし諦めきれないのは二人も一緒。今夜は皆安静にして明日の朝の体調で決めても良いか、とNimaに交渉し、明日以降のことは一旦持ち越しとなった。

急遽泊まることになった宿では、やや不便さを感じた。
不便さを感じて初めて、
私たちが3人部屋になるようにしてくれていたこと、トイレのある部屋を選んでくれていたこと、ぐっすり眠れるように角部屋をとってくれていたことなど、
Nimaが配慮して宿や部屋を選んでくれていたことに気づく。
すぐ嘘を吐くし冗談ばかりの、ひょうきんなNimaだけれど、彼のホスピタリティに触れて心を打たれた。

この日の夕飯は、高山病予防に効くと言うニンニクスープに。
一緒に頼んだ林檎はNimaが剥いてくれた。

恐竜の足跡、もしくはadidasのロゴのように切られた林檎が真ん中に二つ。

私たちはいつもその日のトレックを終えると、部屋に荷物を下ろして着替えた後すぐに食堂へ移動して時間を潰した。
居眠りをしないためと、寒さを凌ぐため。Namche以降の夜は特にしんしんと冷えた為、毎晩暖炉を囲ってあたたかいお茶を飲みながら談話し、地図を広げ、(お決まりの)UNOをした。
暖炉は本当に暖かく、洗った手拭いやシャツ、靴下などを椅子の背もたれにかけて置くとすぐに乾いてくれた。
衣類を洗う水が清潔かどうかも信じられないことはややストレスではあったが…感覚というのはどんどん麻痺していくもので「Nepalだからな」で片付けられるようになっていく。

旅の間何度も広げて最後はボロボロで穴が開いてしまった3Passの地図


この日は特に寒く感じられたため、大切に取っておいた3つのカイロのうち1つの封を切った。しかし、待てど暮らせど暖かくならない。その旨を一人呟いていたところ、「高所で酸素も薄いため鉄が酸化できないのでは」とMayuからのヤマビコ。

その10秒後には3つのカイロがゴミ箱に放り込まれていたことは言うまでもない。
重かったのに…と不満を漏らしつつも、「軽量化に成功!」と思えるメンタルも身についてきたことが妙に嬉しかった。

この日も夜9時ごろまで4人で時間を過ごし、体調の回復を祈りつつ就寝。

翌日の10月17日。窓からの光があたたかい、気持ちの良い朝だった。

Dranga(4700)の朝


Mayuも体調が回復したようで「Gokyoまで行ける気がする!!」とのこと。
NimaからもGoサイン。無事みんなでGokyoへ向かうこととなった。

この日もNimaが剥いた林檎を食べて出発


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