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望んでいた風景が日常になったら、次の夢の種まきをする時期。
湯船に浸かってぶくぶくと、あーでもないこーでもないと思考を巡らせてばかりの夜が続くときが、私にはある。
"足踏み期”と呼んでいるのだけど。
そんなときは、決まって大好きな本を用意する。
私が小学生の頃から憧れているエッセイスト・中山庸子先生の「夢ノートのつかいかた」だ。
以前の記事でも、たびたび中山先生の飾らない人柄に惹かれると書いてきた。
中でもこの「夢ノートのつかいかた」に書かれたエピソードは、どれも私の心にぶっ刺さってくるものばかりで、付箋と蛍光ペンの線引きが止まらなかったくらいである。
(京都にある大好きなカフェ・月と六ペンスのブックカバー付き)
パラパラとページをめくると、その時の気分で目に留まる言葉も違ってくるのが面白い。
それでもやはり、毎回決まって心に引っかかる箇所があったりもする。
それはつまり、この本を開くときの私はだいたい、いつも同じようなことで足踏みしてるってことなのかなとも思う。
成長しないな〜と凹みそうになるけど、考え方のクセみたいなもんが根強く残っちゃってるのかな。
仕方ねぇわ…と諦めることも、時には必要。
今回、一番琴線に触れた箇所は、今まで付箋を貼っていなかったページだった。
ひとつの夢が叶った。それなのに毎日が充実しているとは到底思えない。こんな心境になることは、そんなにめずらしいことではないのかもしれない。ただし、それを"夢がかなったこと”がネガティブな気持ちを生んだのだ、と即座に結びつけたり決めつけてしまわないことだ。
いろいろないい想像ができたからこそがんばれて、希望した場所にいる自分が今あるわけだ。これは、まわりの状況のせいというより、そこにいるすでに成長した自分の丈に合う、より素敵な"夢の種まき”の時期が近いからということにならないだろうか。
暗くなる、飽きたように思う、なんだかちがう、実はこれが次の夢始動のサインなのかもしれない。けっしていけないことではないと思う。それをずーっとそのままにしておくことだけが問題。これは明らかに憂うつを生み出す。
私にしても本来、そんなに勇気もないし活発な性格でもない。でも行動することの大切さーー心配や悩みがありつつもじーっとその場に立ちすくんでいるより動いたほうがいかによいかを、今は知っている。
そして、どう動いたら自分にとってハッピーになれるかは「夢ノート」を開いてみれば、ちゃんと書いてあることも。
"自分が望んだ場所にいけた喜び”
"ノートに書いていた夢がひとつ叶った喜び”
その喜びの賞味期限っていうのは本当に短くて、望んでいた風景はあっという間に日常になってしまう。
そんな幸福順応に恐怖すら感じていたこの頃だった私だけど、この一文を読んで、スっと霧が晴れたような気分になった。
そうか、私は一年前の私とは別のステージに突入していたんだ。
ステージが変わったら目指すものが変わるのは当たり前じゃん!
ゲームだって、場面ごとに目的が変わる。
一年前、IT系OLだった私は、以前から憧れていたハーブ専門店に念願の異業種転職した。
憧れていた日々が日常になってしまったことに、ずっとモヤモヤしてしまっていたけれど…
これはハーブショップスタッフというステージで、新たにやりたいことを考えていく"夢の種まき”フェーズに入ったということだったのか…!!
私って飽きっぽいからなぁ…燃え尽き症候群だろうか…なんて、ちょっと、いやだいぶ落ち込んでいる日々だったから、中山先生のこのお言葉にはものすごーく救われました。
「すでに成長した自分の丈に合う、より素敵な"夢の種まき”の時期が近い」
そうだよ、憧れが日常になったっていうのは、あたいが成長してきた証なんだぜ?と思ったら、めちゃめちゃ息がしやすくなった。まったく単純な奴である。
また改めて、夢ノートを開いて自分会議をする時間を作らなきゃ。