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2019/8/6TUE

昨晩はNEWS ZEROで、広島の高校生たちが被爆者からその経験談を聞き絵に起こす取り組みについて特集されていたので、一緒に見ていたパートナーと原爆について話をした。

以前にも書いたけれど、私の父方の祖父母は広島の出身で被爆者であり、私の本籍は10歳頃まで広島にあった。
そしてパートナーの出身は奇しくも長崎県である。でも長崎県の中でも佐世保市で、原爆が投下された長崎市とは近くなかったようで、身内に被爆者はいないようだった。
私自身は、身内に被爆者がいたことや、母方の祖父母宅を訪れる時に利用する駅に降り立つと、米軍による大規模な無差別爆撃について描かれたノンフィクション文学作品「ガラスのうさぎ」の少女像が佇んでいて、幼少期から身近に戦争の話があったように思う。

ただ、近頃あいちトリエンナーレで平和の少女像がメディアで大きく取り上げられている事例や、かつてイギリスで見た「VJ(Victory Japan)」のことも一緒に考えると、現代の日本における戦争の「伝え方」には少し疑問がある。
この戦後数十年に及ぶ戦争伝承は、メディアにおいて「被害者」としての意識がすごく強く押し出されているのではないだろうか。
日本はもちろん、世界で唯一原子爆弾が使用された国で有り、その悲惨さや「二度と原爆は使用されてはならない」ことを伝えていく必要性やその役割を担っていると感じるけれど、同時に自分たちもまた「加害者」であることを忘れてはならないんだと思う。
例の少女像に対していわゆる「慰安婦」の存在の有無やその認知に対する議論が巻き起こっているけれど、きっとこの話は大きい組織間ではずっと平行線を辿るのだと思う。
でも人々がこの議論に対しそれぞれに考えることは自由なはずだ、と私は思う。
存在の有と無と2つの主張が昔から今までずっと平行線を辿っている歴史があるということ。
それに対して今、人々が何を思うのかは自由なはずだ。
私自身はというと、女性はいつ・どこでも・誰もが「消費」されてきた存在であると考えている。
昔も、そして今も。

私はこれまでの6年弱、美術大学に所属しながら色々な芸術に関する学びを得てきたけれど、芸術の存在意義は、この人々の「考える」ことを促す作用を持っていることにあると思う。
表現や作品によってこの世界に存在する、人間の思考や認知の複雑さ、偏り、しがらみ、世界を構築している微妙なバランスについて、ときに間接的に、ときに直接的に提起したり想起させる。
あとは鑑賞した人々が受け取ったその感受性に任せる、それで良いと思う。

だから今回、河村市長の発言を始めとする過剰な反応を発端として「表現の不自由展・その後」そのものが中止に追い込まれてしまったことは本当に残念に思う。
別に「気分を害した」とか「認められない」と主張してもらう分には構わないけれど、それを首長の立場である人間がそのことを忘れたみたいに公の場で発信したことで、人々が自分の目で見て考える機会、そのものが奪われ取り上げられてしまうのはどうなんだろう、と思ったのだ。
気に食わないとか自分は認めないというのはあなたの立場であって、他の人がどう感じるのか、それは一方的に決められるべきものではない。
表面的・外見的に「気に入らない」とか「不快だ」とかだけで騒ぎ立てて、考えることを放棄しようとしてしまう姿をすごく幼稚に感じてしまう。
この世界が全て一本の道理だけではないことは大人の方がよく知っているはずなのに。

芸術作品は、見た目がただ美しいものばかりではない、と思う。
時に衝撃的な表現もあれば、一見しただけでは分からない表現もある。
音楽にもクラシックやパンクやロックやポップやテクノやエレクトロニカがあるみたいに。
色々なものが絡み合って見えてくるからこそ面白い。
どうしてそう表現されているのか、それについて考え読解することにも芸術の魅力や面白さがある。
それが伝わらないのは寂しいな、と思うし、日本で芸術家たちが「食っていけない」とされたり、芸術家の社会的地位が市場価値でほとんど計られていたりするその理由を、今回の一件を通して垣間見たような気がした。

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かどかわまほこ
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