自分の道徳観(地雷)、他人のモラル(地雷)、社会のルール(地雷)
何もかも悪いことは法律で禁止されてくれればいいのに。社会的にしてはいけないこと(ルール)、モラルに反すること、マナー、道徳。今回は道徳寄りの話かもしれない。
SNSなんて、未だに取り締まるような法律が少ないから自由の塊だし、だからこそ誰かが作って支持されたようなマナーやモラルで排除されたり、炎上したり、批判される。正義の鉄槌である。もちろん更正の余地など与えられず、嫌い、という感情をたっぷり含めて徹底的に排除される。
自由に見える国なのに、何が見えないもの縛られながら生きている気がする。見えないものとはなにか。それは一人一人に存在する道徳心だ。そしてその誰かが身につけてきたマナーで今日も誰か計られている。
いかなる人も傷つけることをしてはいけません。例えば、悪口を言ったり嘘をつかないことは、人間として最低限のマナーです。それは精神的暴力のひとつです。
私は見栄っ張りの嘘つきで、人の悪口を言ったこともある。そしてそれで大切にしていた人は傷付けてしまったし、私の元から去っていった。
正直、私は何が悪いのかわからなかった。
確かなのは、ひたすら怖くて仕方のない人間社会の中で、唯一私自身を守りながら生きていくための方法だった。
嘘で身を固め、ひたすら心を隠し、他人の悪口に同調したり、愚痴を言ったりすることで嫌われないように生きる。私の周りには優秀な人が多くて劣等感に苛まれる日々をなんとか見栄を張って生きてきた。数少ない友達や先輩の悪口を言う姿を見ながら、仲間外れにされたくないと虚勢すらはるようになった。
自分に正直に生きてきた人なら、なんてみっともない人間だと思うだろう。自分に酷く甘い卑怯者だと。
もちろん、そうやって取り繕って生きている自身を到底肯定はできないし、反吐が出るほど醜さを感じていた。
今ではとてつもなく最低人間だったと、間違っていたと後悔している。自分自身が積み上げてきた汚い部分だ。淘汰されてもそりゃ仕方ないとさえ思う。反省して嘘や悪口を言わない為に、自分に素直に生きるリハビリをしている。
嘘も悪口も法律では個々の禁止されていない(組織単位とか、裁判とかは別)。悪口においては最近SNSでやっと法律ができ始めたくらいだ。結局のところ、モラルもマナーもこれまで自分自身が親や学校や自分の生きてきた社会の中で学んできたものが全てになる。それをあくまで自分個人の信条として留めておくか、相手に振りかざすかは自分で選択することになる。そして、自分にとって許せないことでも、その人にとっては今まで生きるための術になってきたこともあるかもしれない。自分の信条の中に他人への在り方についてのルールがある人は、少し関わりにくいなと思うことがある。けれどそれも相手のルールだから仕方がない。
そもそも人としてダメですよ、なんてことを誰かのルールで善し悪しを決められ、排除されるのは本当に辛い。相手の地雷を踏まないように生きるのは、めちゃくちゃ難しい。
特に私のように、ルールやマナーにこだわりがないような人間ほど、SNSのような自由な世界で物事を判断するのはものすごくリスクが高い。選択肢を他人に委ねてしまいがち(依存気質)な人も、いつの間にか他人のルールに嵌められて地獄を見ることもあるだろう。多種多様な考え方というのは、人間関係では全く機能しない考え方なのかもしれない。
そういった道徳的な細かいルールもどこぞの国のように法律で禁止されてしまえば(あるのかは分からないがありそう)、いちいち悩む必要も減るし、お互いの地雷を踏み抜くことも少なくなるのかな、なんて自分勝手なことを考えてしまった。それは、たぶん私が私に自信を持てずに育ってきたからなんだろうなぁと。永遠に考え事は尽きない。
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