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同じ「赤」が好きではない可能性すら出てくる

顧客とのやりとりを思い返すとコミュケーションの不足や不一致だと感じていた問題が過去にいくつか思い出す。
落語の蒟蒻問答を初めて聴いた時に「人は分かり合えないが、分かり合えているように錯覚することが重要」と、妙に納得してしまったことがあるがそこで止まっていては改善も適応もできないので考える。

他人にはなれないのだから精度の高い共感は難しいのは否めないとして、少しでもコミュケーションの精度を高める方法はないものかと考える。
しっくり来たのはユクスキュルという学者の先生のウンベルトという概念で、日本語だと環世界と訳すそう。

生き物によって世界を認知している領域が違っているという概念で、固有の感覚器官によって認識や記憶を行っているという考え方。
犬の場合、嗅覚で認識や記憶しているため、知り合いが亡くなっても電柱に彼の匂いが残っていれば、まだ生きていると認識する〜みたいな。

人の場合は、(おそらく)感覚器官が優れていないため、脳でその多くをイメージ(記憶)で補っている(気がする)。
そうなってくるとイメージ(記憶)によって環世界が作られる人という種は、種としての環世界ではなく一人の個体ごとに環世界を持っているのではないかと考える。

となると、一人一人認知領域に差が生まれるのは否めないし、それによってコミュケーションの齟齬が生まれるのも否めない。過去の経験と記憶によって認知領域は変わるからだ。

粗い解像度で例えると、生まれてからいちごジャムパンしか食べてこなかった人に、二郎系のラーメンは作れない。存在は知っていても経験も記憶もしていないからだ。
少しだけ解像度を上げて例えると、「赤色が好き」という姉妹がいた場合、姉が「母親が買ってくれた赤いワンピースがきっかけで赤が好きになった」とすると、妹は「姉が赤が好きだからなんとなく私も好き」だとした場合、その「赤色」に対する解像度が違ってくる。
同じ「赤」が好きではない可能性すら出てくるしそこから姉妹喧嘩に発展するかも知れない。

重要なのは、自分のアイデンティティとなる背景を伝えること、相手の背景を知ること、可能なら経験すること。
「好き」も「嫌い」も「なんとなく」も何かがある。
ここの解像度でディテイルも随分違ってくる。

いつから?何がきっかけ?どんなところが?
みたいな同じ経験を共有できると自信の認知領域も広がる。
「いろんな経験をするといい」というのは人の認知領域と重なる部分が増えるからで、教養とかそういうんではない気がする。

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