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行き過ぎたデフォルメ.

ある一定の水準まで重ねられた意匠はデフォルメを繰り返しミニマルになる。
日本建築の場合、安土桃山の数奇屋建築や明治以降の西洋建築達がデフォルメを繰り返して今の公共建築や住宅に濾されている。

狩野探幽的な意図して量産が必要だった為のミニマライズかと思っていた。(震災や津波、戦後の復興の際の量産化の為のミニマライズ)
が、それだけじゃなく単純な「伝言ゲーム」においての簡略化されて伝わった弊害としてのデフォルメもありそうな気もする。
(単純に人から人へと伝わる時、情報は削ぎ落とされるものだし)

西洋建築の場合、スクラップビルドより既存建築の保全と利用が主な為デフォルメを感じにくい。
が、一部建築されている美術館や図書館といった近現代の建築はやはりガラスや鉄、コンクリートといった近現代の資材の性格に添う形でミニマライズされている。

いかに機能に準じていようが過度な意匠はデフォルメされていく流れにあるように感じる。

行き過ぎたデフォルメは、反発する様に華美な意匠を求める揺り戻しが待ち構えてる。
奈良時代の質素な建築から平安時代の絢爛な寝殿造への揺り戻し。
垂直均等のゴシック様式から凹凸と曲線のバロック様式へよ揺り戻し。

意匠に影響与えているのが「思想」。

例えば、大東亜共栄圏や戦後の復興に構想されたり実際に建築された意匠は、「日本国における建築とは」と言った思想がこれでもかと入力されている(はず)。(国家政策だったし)

バブル期の意匠においても、建築が軍事から民衆のものに移って行く過渡期の為、思想も民衆のものになっていった(気がする)。
そこには「持続可能性」や「自然との調和」、「表現の自由」や「社会の活性化」の様な、民衆の思想が煩雑に入り混じった躍動感があった(気がする)。

平成〜令和にかけての「民主化された資本に準じた意匠」がスイッチとなり、近現代のデザインのデフォルメの流れが生まれた様にも思う。
要は思想すらもデフォルメされるということ。

乱暴に読み解くと、
質素で思想の強い意匠の時期は社会主義。
伸び伸びと自由な意匠の時期は民主主義。
平成後期〜令和のミニマルな流れは社会主義的と言える気がする。

デフォルメされたミニマルなデザインから、自由な意匠への揺り戻しは経済の変化か新しい技術の登場か、災害か戦争の様な大きく国が変化する時期に訪れそう。

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