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1880年代生まれ 建築家 58名

1.葛野壮一郎

1880年: 大阪府豊島郡池田町(現在の池田市)に生まれる。先祖は平安時代の遣唐大使、藤原葛野麻呂。
1905年: 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、横河工務所に入社。
1905年 - 1919年: 神奈川県技師、大阪府技師を歴任。
1919年: 葛野建築事務所を開設。
1944年: 逝去(享年65歳)。

2.中村伝治

1880年: 東京葛飾小菅に生まれる。
1904年: 東京帝国大学工科大学建築学科卒業、卒業後、横河工務所に就職。
1914年: 三越日本橋本店(本館)の設計を担当。
1917年: 東京高等工業学校講師兼務。
1919年: 横河工務所理事。
1934年: 旧日本建築士会会長。
1936年: 日本建築士会会長(以降、1939年、1942年、1944年にも歴任)。
1941年: 東京美術学校講師(1950年まで)。
1944年: 日本建築設計監理統制組合理事長。
1947年: 日本建築設計監理協会理事長。
1952年: 東京建築士会会長、日本建築士連合会会長。
1953年: 横河工務所代表取締役会長。
1961年: 横河工務所相談役。
1964年: 第1回日本建築祭で日本建築界先覚者遺徳顕彰5氏のうちの1人に選出され、記念品贈呈を授与。
1968年: 逝去(享年88)。

3.中村與資平

1880年: 静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に生まれる。
1889年: 下堀学校(現・浜松市立与進小学校)卒業。
1893年: 浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)卒業。
1899年: 静岡県浜松尋常中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)卒業。
1902年: 第三高等学校を卒業。
1905年: 東京帝国大学建築学科を卒業、辰野金吾と葛西萬司の共同経営による辰野葛西建築事務所に入所。
1907年: 第一銀行韓国総支店(後の朝鮮銀行本店、現・韓国銀行貨幣博物館)臨時建築部工務長。
1908年: 京城(ソウル市)に移り住む。
1912年: 朝鮮銀行本店が竣工、朝鮮銀行建築顧問となる。京城黄金町に中村建築事務所を開設。
1917年: 大連市に出張所及び工務部を開設、岩崎徳松を京城事務所から送り込む。
1921年: 欧米視察旅行(Anton Fellerが往路同行)。
1922年: 東京市に中村工務所を開設し、東京に転居。京城事務所は岩崎徳松に任せ、大連出張所は宗像主一に譲る。
1923年: 児童科学教育会を設立。
1934年: 工事部を廃止し、設計部を中村與資平建築事務所と改称。
1944年: 建築事務所を閉鎖し、浜松市に疎開。
1952年: 静岡県教育委員に当選。
1963年: 浜松市で逝去(享年83)。

4.横濱勉

1880年 - 岩手県盛岡市に生まれる
1903年 - 第二高等学校(旧制)を卒業
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に岡田信一郎、松井貴太郎、本野精吾)
1908年 - 司法省技師となる
1918年 - 建築材料調達のためにアメリカに渡る
1922年 - 司法省を休職し、住宅改造博覧会の運営に関わる、横濱松下建築事務所を設立
1923年 - 司法省を辞職し、横濱建築事務所を設立
1930年 - 日本エレベーター製造に入社
1933年 - 大阪橋本組に入社
1936年 - 鹿島組に入り、大阪営業所顧問となる
1940年 - 鹿島組台湾営業所長となる
1945年 - 鹿島組本社に戻る
1960年 - 逝去(享年81歳)

5.前田松韻

1880年 - 京都市に生まれる
1904年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業
1904年 - 日露戦争中、軍倉庫の建設に携わる
1905年 - 大連軍政署の嘱託技師、同年10月に関東都督府技師となる
1907年 - 東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科教授に就任
1909年 - 日英博覧会の装飾を担当し、12月にロンドンに出張
1910年 - 文部省より2年半の欧米留学を命じられ、1913年に帰国
1925年 - 東京高等工業学校教授を依願免官し、講師として教壇に立つ(同校は1929年に大学昇格)
1931年 - 再び東京工業大学教授に就任
1943年 - 東京工業大学名誉教授に任命される
1930年 - 論文「日本古代邸宅ノ考究」により工学博士号を取得(京都帝国大学)
1944年 - 逝去

6.置塩章

1881年 - 静岡県志太郡島田町(現・島田市)に生まれる
1904年 - 静岡県静岡尋常中学校から第三高等学校(旧制)に進学
1910年 - 東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業し、陸軍技師として陸軍省に入る
1910年 - 第四師団(大阪市)経理部に配属され、営繕全般に従事
1916年 - 大阪砲兵工廠に勤務
1920年 - 兵庫県庁に移り、都市計画地方委員会技師、内務部営繕課長などを歴任
1921年 - 欧米各国を視察
1928年 - 兵庫県庁を退職し、置塩章建築事務所を開設
1952年 - 兵庫県建築士会初代会長に就任
1952年 - 兵庫県文化賞、兵庫県建築功労者賞を受賞
1955年 - 兵庫県建築士会会長、日本建築士連合会理事、兵庫県文化財審議会委員、都市計画兵庫地方審議会委員などを歴任
1958年 - 藍綬褒章を受章
1968年 - 逝去

7.倉田謙

1881年 - 東京に生まれる
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)
1911年 - 九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に従事
1918年 - 九州帝国大学の臨時建築掛が建築課に改組され、その初代課長に就任
1928年 - 工学部本館建設のため欧米各国を視察
1929年 - 九州帝国大学を辞任し、倉田建築事務所を開設
1940年 - 逝去(1月9日)

8.久野節

1882年 - 大阪府堺市に生まれる
1907年 - 東京帝国大学建築学科を卒業し、千葉県技師となる
1911年 - 鉄道省技師、中部鉄道管理局に勤務
1920年 - 鉄道省の初代建築課長に就任
1924年 - 大連駅コンペ審査員を務め、欧米に停車場視察のため派遣される
1926年 - 逓信省技師を兼務し、3月に高等官二等に叙せられる。9月、中央諸官衙建築準備委員会幹事、12月、御大葬委員会工事部委員に任命される
1927年 - 従四位に叙せられ、勲四等瑞宝章を受勲。鉄道省を退官し、久野設計事務所を設立(1941年頃閉鎖)。鉄道省嘱託を務める
1948年 - 戸田利兵衛に誘われ、戸田建設相談役に就任
1962年 - 死去(80歳)

9.小林福太郎

1882年 - 東京に生まれる
卒業年不明 - 工手学校(現・工学院大学)を卒業
入省年不明 - 内務省に奉職後、宮内省内匠寮に転任し、特別保護建造物の修繕に従事
1913年 - 御料車内部装飾設計を鉄道院から嘱託され、両陛下御同乗車(皇室用客車 §7号御料車)および賢所奉安御車の設計を担当
1919年 - 日光廟大修理工事の主任技師となる
1925年 - 小林建築設計事務所を設立
1938年 - 死去
没後 - 息子の小林謙一が事務所を継ぎ、大物忌神社吹浦宮や浅草寺雷門などを設計
また、平安神宮増築の際に本殿および社務所の改築計画案を作成したが、実現しなかった。明治神宮宝物殿競技設計では二等首席となった。

10.古橋柳太郎

1882年 - 東京府に生まれる
1910年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業
1911年 - 清国政府から技師として招かれるが、辛亥革命が勃発し帰国
1911年 - 曽禰中條建築事務所に勤務
1914年 - 独立して建築事務所を設立
1961年 - 東京都内で亡くなる
主な作品には後楽園球場、麻布中学高等学校、日本基督教団甲府教会などがある。

11.本野精吾

1882年 - 東京に生まれる(読売新聞社創業者・2代目社長の本野盛亨の5男)
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に岡田信一郎、松井貴太郎、横濱勉など)
1906年 - 三菱合資会社(三菱地所)技師となる
1908年 - 武田五一の招きで京都高等工芸学校(後の京都工芸繊維大学)教授に就任
1927年 - 日本インターナショナル建築会(関西のインターナショナル・スタイルの中心的存在)に参加
1944年 - 逝去
モダニズム建築に影響を受け、建築だけでなく家具、舞台、船室の設計など幅広く活動。川崎造船のデザイン顧問を務め、エスペランティストとしても知られている。

12.阿部美樹志

1883年 - 岩手県一関市に生まれる
1892年 - 札幌農学校土木工学科に進学
1905年 - 札幌農学校を最優等で卒業し、恩賜の銀時計を受ける
1905年 - 逓信省鉄道作業局に入局
1911年 - 農商務省海外練習生としてアメリカのイリノイ大学大学院に進学
1914年 - イリノイ大学で「鉄筋コンクリート結構に関する学理的研究」によりドクター・オブ・フィロソフィーの学位を取得
1914年 - ハノーバー工科大学に入学を志すが、第一次世界大戦のため帰国
1916年 - 鉄道院技師に復帰し、東京~万世橋間の鉄筋コンクリート高架橋設計に着手
1920年 - 「鉄筋混凝土緊定桓構の理論及其実験に関する研究」で工学博士号を取得
1920年 - 阿部事務所を開設し、鉄筋コンクリートの研究と設計を行う
1934年 - 東京の日比谷映画劇場、梅田阪急ビル、阪急西宮スタジアムなどの設計を担当
1947年 - 貴族院勅選議員に任じられ、同年5月2日の貴族院廃止まで在任
1949年 - 特別調達庁長官
1951年 - 阿部設計事務所を設立
1960年 - 全国住宅協会公社会長、翌年に首都圏不燃建築公社会長
1964年 - 勲二等瑞宝章を受章
1965年 - 逝去(享年82)
主な作品には後楽園球場、東京の日比谷映画劇場、阪急梅田ビル、九州名島川橋梁などがある。

13.岡田信一郎

1883年 - 東京市芝区宇田川町(現在の港区浜松町・芝大門付近)で出生。父は陸軍薬剤官の岡田謙吉。
1900年 - 高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1903年 - 旧制第一高等学校卒業、東京帝国大学工科大学建築学科に入学。
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に本野精吾、松井貴太郎、倉田謙、井手薫、横濱勉など)。卒業に際して恩賜の銀時計を受ける。大学院に進学し、警視庁嘱託として新築計画に関与。
1907年 - 東京美術学校(現在の芸術大学)の講師に就任。
1908年 - 日本銀行建築事務嘱託(1911年まで、小樽支店等の設計に関与)。
1909年 - 日英博覧会の事務を嘱託されるが、病気のため辞任(前田松韻が後任)。
1911年 - 早稲田大学講師(翌年に教授に昇進)。
1912年 - 大阪市公会堂の指名設計競技に参加し、1等当選。
1915年 - 日本赤十字社設計顧問。建築学会に建築条例実施促進に関する意見書を提出。
1916年 - 建築学会の建築条例実行委員に就任し、建築法規の制定運動に尽力(運動の成果により、1919年に都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建築基準法の前身)が公布)。
1923年 - 東京美術学校教授、建築科主任。
1928年 - フランス装飾美術展覧会委員を務める。
1931年 - 早稲田大学を辞任、気管支拡張症の病状が悪化。
1932年 - 逝去(享年50、満48歳)。墓所は護国寺。

14.北見米造

1883年 - 生まれる。大工の修行をして建築や木工技術を修得し、伝統的な大工技術と近代的な設計施工技術を身につける。
1904年 - 磯野敬に腕を見込まれて21歳で棟梁として旧磯野家住宅の施工を担当。
1920年代 - 高村光雲の弟子となり、近代的な建築技術を学ぶ。
1950年(昭和25年) - 社団法人茶道文化振興会の初代理事長に就任し、新宿区高田馬場に茶道会館を完成させる。
1950年代 - 明々庵・静寧亭の移築を担当。
1964年 - 死去。

15.後藤慶二

1883年 - 東京市小石川に生まれる。父は物理学者の後藤牧太。
1900年 - 東京高等師範学校附属小学校・中学校を卒業。
1904年 - 旧制第四高等学校(金沢)第二部甲組を卒業。
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科に入学。
1909年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。同期に山崎静太郎、長谷部鋭吉ら。
1909年 - 司法省に入り、営繕技師として豊多摩監獄の建設に従事。
1914年 - 白光会を組織(佐野利器、内田祥三、内藤多仲らと)。
1915年3月 - 豊多摩監獄が竣工し、後藤に300円の賞与が贈られる。司法技師を依願免官し、朝鮮総督府嘱託として古墳調査に参加。
1915年 - 明治神宮宝物殿の建築設計競技に応募し、3等1席に入選(後藤案のデザインは現宝物殿の基礎となった)。
1916年 - 司法省に復職し、東京区裁判所の設計を手がける。同年、早稲田大学講師として内藤多仲の構造の講義を代講。
1917年 - 国民美術協会理事に選出される。
1919年 - スペイン風邪と腸チフスを併発し、36歳で死去。墓所は東京都港区赤坂の澄泉寺にある。
1925年 - 妻芳香により作品図案を含む「後藤慶二氏遺稿」が発行される。岡田信一郎が巻頭言を寄稿。

16.佐藤四郎

1883年 - 山形県米沢市に生まれる。
1907年 - 東京帝国大学(現・東京大学)に入学。
1913年 - 同大学を卒業(罹患により、同級生より遅れて卒業)。
1913年 - 横浜市の山田七五郎のもとで開港記念会館の設計に携わる。
1917年 - 工場建築を主とする野村建築事務所(大阪市)に入所。
1921年 - 福澤桃介に招かれ、大同電力に入社。木曽川沿いの水力発電所建設に関与。
1929年 - 大同電力の顧問に就任。
1931年 - 佐藤四郎建築事務所を開設。
1974年 - 死去。

17.松井貴太郎

1883年 - 大阪市で堆朱職の家に生まれる。
1906年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に岡田信一郎、本野精吾、倉田謙など)。
1906年 - 横河工務所に入所し、大阪出張所勤務となる。
1913年 - 東京に戻る。
1914年 - 欧米に建築視察旅行。
1918年 - 大阪出張所勤務。
1928年 - 三信ビルディング設計のため、米国建築視察旅行。
1943年 - 横河民輔が退いた後、中村伝治・横河時介とともに横河工務所の経営に当たる。
1954年 - 横河工務所代表取締役。
1956年 - 黄綬褒章授与。
1961年 - 株式会社横河工務所会長。
1962年 - 逝去。

18.鈴木鎮雄

1884年 - 東京府士族鈴木信一の長男として生まれる。
1910年 - 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(同期に内藤多仲、安井武雄など)。
1910年 - 宮内省内匠寮に勤務。
1914年 - 宮内技師に昇進。
1924年 - 欧米各国を視察。
1931年 - 臨時帝室博物館造営課長に異動した北村耕造の後を継ぎ、工務課長に就任。
1943年 - 工務部長、宮内技監に就任(1946年3月まで)。
戦後 - 宮内庁調査員、工学院大学講師などを務める。

19.西村伊作

1884年 - 和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に生まれる。父・大石余平、母・ふゆのあいだの長男。
1887年 - 西村家の当主となる(4歳)。
1889年 - 新宮が洪水に見舞われ、家族は愛知県熱田町に移る。
1891年 - 名古屋市に引っ越し、名古屋英和学校で教育を受ける。
1898年 - 広島市の明道中学に入学。
1903年 - 明道中学を卒業。
1904年 - 大石誠之助が新宮で洋食屋「太平洋食堂」を開業、伊作が手伝う。
1905年 - 兵役を逃れるためシンガポールに脱出。
1907年 - 材木問屋の娘、津越光恵と結婚。
1909年 - 世界一周の旅をする。
1911年 - 叔父の大石誠之助を大逆事件で失う。
1915年 - 自ら設計した洋風の自邸を建てる(現在の西村記念館)。
1919年 - 著作『楽しき住家』を出版。
1920年 - 西村建築株式会社を創業(兵庫県御影町)。
1921年 - 与謝野夫妻の『明星』に「『家』のこと」と題した建築論の連載を開始。
1921年 - 文化学院を創立。英国のコテージ風の校舎を設計。
1923年 - 関東大震災で文化学院の校舎が全焼。土台の上に新しい校舎を建設。
1943年 - 反政府思想による不敬罪および言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反の容疑で拘禁され、文化学院閉鎖命令を受ける。
1945年 - 戦後、文化学院を再興。
1962年 - 文化学院の新校舎が完成。
1963年 - 78歳で亡くなる。

20.安井武雄

1884年 - 千葉県佐倉市に生まれる。父は陸軍軍人安井信胤。
1907年 - 東京帝国大学建築学科に入学(同期に高松正雄、内藤多仲、波江悌夫、木子七郎など)。
1910年 - 東京帝国大学建築学科を卒業し、南満州鉄道に入社。
1919年 - 片岡建築事務所に入所。
1924年 - 安井武雄建築事務所を開設(野村財閥の創始者野村徳七の後援を受ける)。
1945年 - 野村建設工業株式会社の社長に就任。
1946年 - 安井建設株式会社の社長に就任。
1951年 - 株式会社安井建築設計事務所の代表取締役に就任。
1955年 - 逝去。

21.渡辺節

1884年 - 東京府麹町区(現・東京都千代田区)に生まれる。天長節(後に明治節)に生まれたことから「節」と名づけられる。父は相馬藩士で後に陸軍中将。
旧制二高 - 学業を修める。
1907年 - 東京帝国大学建築学科を卒業。
1907年 - 鉄道院に入社し、京都駅などの設計を担当。
1916年 - 独立して大阪に設計事務所を開設。
1920年-1921年 - 欧米を視察。
1920年代 - 日本勧業銀行、日本興業銀行、大阪ビルヂング「綿業会館」などの設計を手がける。
戦時中 - 建築統制によりオフィスビルの設計機会が減少し、第二次世界大戦末期には福井県へ疎開。
戦後 - 大阪府建築士会会長などを務める。
1967年 - 逝去。
没後 - 日本建築士会名誉会長に顕彰され、若手建築家のための「渡辺節賞」が設立される。

22.薬師寺主計

1884年 - 岡山県賀陽郡刑部村(現在の総社市刑部)に生まれる。
1903年 - 第六高等学校(旧制)を卒業。
1909年 - 東京帝国大学工科建築科(現・東京大学工学部建築学科)を卒業。同年、河合浩蔵建築事務所に入所。
1910年 - 河合浩蔵建築事務所を退所し、陸軍省経理局建築課陸軍技師に就任。
1917年 - 陸軍省経理学校教官に就任。
1919年 - 社団法人建築学会理事に就任。
1920年 - 第一合同銀行倉敷支店(現・中国銀行倉敷本町出張所)の設計に着手。
1921年 - 陸軍省から欧米視察へ派遣され、ル・コルビュジエとパリで遭遇。
1922年 - 第一合同銀行倉敷支店(現・中国銀行本町出張所)竣工。
1923年 - 欧米視察より帰国。陸軍震災善後委員会特別委員長に就任。
1926年 - 陸軍省を退職し、倉敷絹織株式会社(現・クラレ)取締役に就任。
1927年 - 第一合同銀行本店(旧・中国銀行本店)竣工。
1930年 - 大原孫三郎の依頼により、大原美術館(現・大原美術館本館)が竣工。
1935年 - 財団法人大原美術館理事に就任。
1936年 - 倉敷絹織株式会社を依願退職。
1942年 - 第21回衆議院議員総選挙に岡山2区から翼賛政治体制協議会推薦で立候補するも落選。
1943年 - 株式会社藤木工務店監査役に就任。
1945年 - 株式会社藤木工務店監査役を辞任し、熱海の別邸に隠居。その後、公職追放となる。
1965年 - 3月11日、熱海の自邸にて死去。享年80。

23.内田祥三

1885年 - 東京深川に生まれる。4歳で父を亡くす。
1901年 - 旧制開成中学校を卒業し、旧制第一高等学校に入学。
1904年 - 東京帝国大学工科大学建築学科に入学。在学中に三菱ビジネス街で建築実習。
1907年 - 東京帝国大学を卒業。三菱合資地所部(現・三菱地所)に入社し、オフィスビル等の建設に従事。
1910年 - 東京帝国大学大学院に進学。佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究。
1911年 - 東京帝国大学講師(嘱託)および陸軍経理学校講師。
1916年 - 東京帝国大学助教授。
1918年 - 論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与される。
1921年 - 東京帝国大学工学部教授。
1923年 - 東京帝国大学営繕課長を兼務し、関東大震災後のキャンパス復興を指導。
1924年 - 財団法人同潤会理事(中之郷アパートを設計)。
1935年 - 日本建築学会会長を務める。
1943年 - 東京帝国大学第14代総長(1945年12月まで)。
1972年 - 文化勲章を受章。

24.木田保造

1885年 - 千葉県君津郡大貫町(現・富津市)の網元の家に生まれる。
1906年 - 工手学校(現・工学院大学)造家学科を卒業し、大蔵省臨時建築部に就職。
1911年 - 木田組を創業。
1940年 - 南京において脳溢血のため客死。

25.高松政雄

1885年 - 出生。父は鳥取県士族で工部大学校化学科出身の工学士、高松政正。
1907年 - 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学工科大学建築学科に入学。
1910年 - 東京帝国大学工科大学を卒業し、曾禰中條建築事務所に入所。
1911年 - 病気のため曾禰中條建築事務所を退所。
1914年 - 曾禰中條建築事務所に再入所。
1918年 - 工手学校建築科で建築構造法を講義(1920年まで)。
1920年 - 1921年 - アメリカ合衆国へ視察旅行。
1922年 - 病院建設研究所を開設。
1928年 - 早稲田大学建築学科で病院建築の講義。
1934年 - 逝去。

26.波江悌夫

1885年 - 東京市小石川区水道端町に生まれる。
1903年 - 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1905年 - 熊本の第五高等学校を経て、東京帝国大学に入学。
1910年 - 東京帝国大学工科大学建築学科卒業。安田商事会社大阪支店に技師として勤務。
1913年 - 片岡建築事務所に入所。
1919年 - アメリカ・カナダにオフィスビルの建築視察旅行。
1925年 - 大阪市営繕建築課長に就任。
1931年 - 合資会社清水組大阪支店長に就任。
1934年 - 波江悌夫建築事務所を設立。
1946年 - 進駐軍技師嘱託として勤務。
1960年 - 置塩建築事務所顧問に就任。
1965年 - 逝去。

27.長谷部鋭吉

1885年10月7日 - 北海道札幌に生まれる。父は長谷部辰連で、母は可禰(坐摩神社の社司・渡邉資政の三女)。
1903年 - 東京市立第一中学校卒業。
1906年 - 第一高等学校卒業。
1909年 - 東京帝国大学工学部建築学科卒業。住友総本店に入社。
1915年 - 住友銀行兵庫支店竣工、大阪倶楽部(設計は野口孫市と共同、焼失)。
1930年 - 住友ビルディング(旧住友銀行本店・現三井住友銀行本店)竣工。
1933年 - 住友合資からの出資と移籍者により(株)長谷部竹腰建築事務所を設立、竹腰健造と共に常務取締役に就任。
1944年 - 大阪北港(株)と(株)住友ビルディングが合併し、住友土地工務(株)と改称。竹腰健造が専務取締役、鋭吉が取締役に就任。
1945年 - 住友土地工務を日本建設産業(株)と改称し、商事部門を増置(住友商事の前身)。竹腰健造が社長、鋭吉が取締役に就任。
1947年 - 竹腰健造が公職追放。鋭吉は平取締役として難を逃れる。
1950年 - 同社建築部が分離独立し、日建設計工務株式会社発足、顧問に就任。
1958年 - 黄綬褒章受章。
1960年10月24日 - 逝去。
1963年 - 大阪カテドラル聖マリア大聖堂竣工。
1970年 - 社名が株式会社日建設計に改称。

28.山崎楽堂

1885年1月19日 - 和歌山県に生まれる。山崎家は旧紀州藩士で、父・九一郎は狂言を学んでいた。
1909年 - 東京帝国大学建築学科を卒業(同期に後藤慶二、長谷部鋭吉など)。
1912年 - 千葉高等園芸学校講師に就任。
1917年 - 法政大学教授に就任。
1921年 - 梅若能舞台、細川家能舞台、染井能楽堂、久良岐能舞台などの設計に携わる。
1944年10月29日 - 死去、享年60。

29.望月庄五郎

1886年 - 生まれる。
1910年 - 内匠寮に場所仕雇として入る。
1921年 - 技手に昇進。
1923年 - 関東大震災後の復旧工事で旧江戸城の富士見櫓、辰巳櫓、旧大手門渡櫓の修復を担当。
1933年 - 朝香宮邸の建設工事において、技手として工事の仕様書作成および監理を担当。
1973年 - 死去。

30.大中肇

1886年 - 3月28日、熊本県天草郡楠浦村(現・天草市楠浦町)に生まれる。
1904年 - 福岡県立工業学校建築科に入学。
1907年 - 同校卒業後、農商務省製鐵所で特修実務練習を行い、建築学会に准員として入会。
1908年 - 官営八幡製鐵所に入社。末期に愛知県営繕係に転職。
1910年 - 愛知県営繕課に技手として勤務。
1919年 - 愛知県立第八中学校の設計を担当。
1921年 - 刈谷町立高等女学校(現・愛知県立刈谷北高等学校)の設計を担当。
1923年 - 愛知県立津島中学校(現・愛知県立津島高等学校)の設計を担当。
1924年 - 愛知県営繕課を退職し、大中建築事務所を設立。
1930年 - 山中従天医館を設計。
1937年 - 戦時統制経済の強化により、大中建築設計事務所が開店休業状態となる。
1941年 - 長谷部竹腰建築事務所名古屋支所の仕事を手伝う。
1950年 - 9月15日、逢妻川での投網中に脳溢血で倒れ死去。

31.辻岡通

1886年 - 福井市に生まれる。
1908年 - 名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)建築科を卒業。
1933年 - 福井市役所三代目庁舎や公会堂を設計(現存せず)。
1934年 - 福井城三の丸跡に旧福井信託銀行(現・三井住友信託銀行福井支店)を設計。
1936年 - 福井銀行本店を竣工。
1955年 - 死去。

32.内藤多仲

1886年 - 山梨県中巨摩郡榊村(現・南アルプス市曲輪田)に生まれる。
1904年 - 旧制甲府中学(現・山梨県立甲府第一高等学校)卒業。
1907年 - 第一高等学校卒業。
1910年 - 東京帝国大学卒業(同期に高松政雄、安井武雄)。
1913年 - 早稲田大学教授に就任。
1917年-1918年 - アメリカに1年間留学。耐震構造理論を考案。
1924年 - 「架構建築耐震構造論」で工学博士号を取得。
1923年 - 日本興業銀行本店の構造設計(渡辺節設計)。
1938年 - 溶接学会会長に就任。
1941年 - 日本建築学会会長に就任。
1943年 - 早稲田大学理工学部長に就任。
1954年 - 日本学術会議会員に選出。
1960年 - 日本学士院会員、東レ科学技術賞受賞。
1962年 - 文化功労者に選ばれる。
1964年 - 勲二等旭日重光章受章。
1970年 - 従三位に叙勲、8月25日に国立国際医療センターで死去(享年84)。
内藤多仲は、名古屋テレビ塔、二代目通天閣、さっぽろテレビ塔、東京タワーなどの鉄骨構造の電波塔や観光塔を設計し、「塔博士」と呼ばれました。

33.永山美樹

1907年 - 京都高等工芸学校図案科卒業後、宮内省に入省。
1912年 - 内匠寮技手として国会議事堂コンペで三等を受賞。その後、国会議事堂建設の設計嘱託となる。
1922年 - 株式会社髙島屋に入社、長堀店装飾図案部に勤務。
1932年 - 長堀店家具装飾部設計部主任に就任。
1934年 - 長堀店設計部長に昇進。
1938年 - 長堀店商事部設計部長に就任。
1942年 - 商事部設計課長を経て、1943年に定年退職。
永山美樹は、国会議事堂の設計や髙島屋での装飾設計に関与しました。

34.西村好時

1886年 - 東京府に生まれる。
1902年 - 高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。
1912年 - 東京帝国大学建築学科を卒業し、真水工務所に入社。
1913年 - 曾禰・中條建築事務所嘱託として、大正博覧会の設計に携わる。
1914年 - 清水組に入社し、設計部技師として勤務。
1920年 - 第一銀行に転職し、建築課長に就任。本店及び支店三十数か所の設計を担当。
1921年 - 銀行建築の研究のため、アメリカに出張。
1926年 - 欧米各国を視察。
1931年 - 第一銀行を退職し、西村建築事務所を開設。
1951年 - 日本建築士会会長、中央建築士審議会委員に就任。
1961年 - 死去。

35.吉武東里

1886年 - 大分の士族の家に生まれる。
1907年 - 京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)卒業。
1910年 - 宮内省内匠寮技手に就任。
1918年 - 議院建築(国会議事堂)の公開設計競技において、デザインに優れた吉武は中心的な役割を果たし、渡辺福三の案が1等、永山美樹の案が3等1席に選ばれる。
1919年 - 大蔵省臨時議院建築局技師に任命され、国会議事堂の設計・建設に携わる。
1937年 - 大蔵省営繕管財局技師を辞任。
1945年 - 死去。

36.木子七郎

1887年: 木子七郎は大分県の士族の家に生まれる。
1907年: 京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)を卒業。ここで武田五一に建築を学ぶ。
1910年: 宮内省内匠寮技手に就任。
1918年: 国会議事堂の設計競技において、宮内省内匠寮職員の有志として設計案の作成に参加。吉武が中心的な役割を果たし、渡辺福三の名で出した案が1等、永山美樹の名で出した案が3等1席に当選する。
1919年: 大蔵省臨時議院建築局技師に抜擢され、国会議事堂の設計・建設に携わる。
1937年: 大蔵省営繕管財局技師を辞任。
1955年: 逝去。
また、聖徳記念絵画館葬場殿趾記念建造物競技設計で四等四席、明治五十年大博覧会敷地内配置懸賞計画で一等に当選した実績もあります。息子の吉武泰水も建築計画の研究で知られています。

37.杉野繁一

1887年: 愛知県海部郡佐屋町(現・愛西市)に生まれる。
愛知第三中学校(現在の愛知県立津島高等学校)を中退後: 単身でアメリカ合衆国へ渡る。
スタンフォード大学で土木工学を専攻: 卒業後、アメリカで建築家として活動。
1914年: アメリカに留学中の杉野芳子(旧姓: 岩沢)と知り合い、結婚。
1920年: 夫妻で日本に帰国し、日本統治時代の朝鮮、平壌(現・北朝鮮)で建築家として活動。
1926年: 杉野芳子がドレスメーカー学院を設立。杉野繁一は初代理事長に就任し、専修学校や各種学校の法的地位を確立するために尽力。
杉野学園の校舎、体育館、衣装博物館: これらの設計を手掛ける建築家としても活動。
1965年: 故郷の佐屋町が町制施行10周年を迎えた際に、個人的に1000万円を寄付。
1966年: 寄付により佐屋町立杉野図書館が開館。
1973年: 逝去。墓所は多磨霊園(22-1-79-1)。
東京都品川区上大崎4-4: 杉野夫妻の旧宅が「杉野記念館」として公開され、目黒駅西にあるドレメ通り沿いに位置し、杉野芳子の遺作展などが開催される。

38.角南隆

1887年: 岡山県に生まれる。
1915年: 第六高等学校を卒業。東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、卒業制作として「日本美術博物館」を制作。
1916年9月: 明治神宮造営局嘱託に就任。
1917年9月: 明治神宮造営局技師に就任し、外苑課に勤務。佐野利器の指導のもとで競技場などの設計を担当。
1919年: 内務省技師として神社局に勤務。同年11月から翌年3月まで富士屋ホテルの山口正造と共にアメリカへホテル視察に出かける。
1939年: 神社局造営課長に就任。
1940年: 官制改組により神祇院総務局造営課長に就任。
1946年: 終戦後、GHQの指令により国家神道が廃止され、退官。
1946年以降: 日本建築工芸設計事務所を設立し、取締役社長に就任(後に会長)。明治神宮や戦災を受けた各地の神社の復興、伊勢神宮の式年遷宮に携わる。
1980年: 逝去。

39.徳永庸

1887年12月18日: 福岡県糟屋郡青柳村(現・古賀市)に生まれる。
1907年4月: 辰野金吾・葛西萬司建築事務所に1年間入所。
1908年3月: 福岡県立福岡工業学校建築科を卒業。
1909年3月: 早稲田大学高等予科理工科を卒業。
1913年7月: 早稲田大学理工科建築学科を卒業。
1913年10月: 辰野金吾・片岡安建築事務所に勤務(1917年8月まで)。
1917年: 早稲田大学で助教授、教授、講師を務める。
1919年4月: 佐藤功一事務所が設立され、そこで主任を務める。
1927年9月: 徳永建築設計事務所を創設し独立。
1929年4月: 武蔵高等工業専門学校(現・東京都市大学)教授に就任(1940年3月まで)。
1931年4月: 早稲田高等工学校の講師に就任(1940年3月まで)。
1951年4月: 関東学院大学の教授に就任(1953年まで)。
1965年3月20日: 逝去。

40.中村順平

1887年: 大阪府大阪市で三男二女の末子として生まれる。
旧制天王寺中学に進学: その後、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)に進学。
1910年: 名古屋高等工業学校を卒業。卒業後、曾禰達蔵・中條精一郎の曾禰中條建築事務所に入所。
1910年12月: 大阪高槻工兵第四大隊第一中隊に入営。
1914年: 東京大正博覧会の第一会場の設計を担当。
1919年: 一ツ橋如水会館の設計を担当。
1920年: 岩崎財団の助成を受け、フランスに渡る。
1921年: 33歳でエコール・デ・ボザールに留学し、クロモール&エクスペールのアトリエに所属。下級課程を1年で修了。
1922年: 上級課程に進級し、イタリアにも足を運ぶ。
1923年: 卒業制作「日本学生会館」を制作。関東大震災が発生し、師である中條精一郎からの帰国要請により早期帰国。卒業制作は1924年春のサロンで展示され、市民から高い評価を受ける。
1924年: 東京日本橋に中村塾を設立し、多くの建築家を育成。横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)に新設された建築学科の主任教授に就任。
1950年: 横浜国立大学の非常勤教授として教壇に立つ。
1977年: 逝去。晩年には日本芸術院会員に推されるも、表情は無関心に近かったとされる。
このように、中村順平は生涯を通じて建築教育と設計活動に精力的に取り組み、多くの後進を育成した人物です。

41.福田重義

1887年: 生まれる。
横浜市開港記念会館
三楽病院
四谷見付橋
1971年: 逝去。

42.藤村朗

1887年: 長崎県に生まれる。
1908年: 東京帝国大学工科大学建築学部を卒業。同年、住友総本店臨時建築部(現日建設計)に就職、その後三菱合資会社地所部(現三菱地所設計)を経て、東京市技師となる。
1913年: 横浜港開港50周年記念事業の公募設計で1等当選し、設計原案ならびに基本構造設計を手がける。
1924年: 関東大震災後、市場施設視察のため欧米に出張。
1928年: 東京市の建築課長から復興事業局長に昇進。震災復興事業に従事。
1930年: 東京市を退職し、麹町区富士見町に自宅を構え、藤村朗建築事務所を開設。
1937年: 万国博覧会の工営部長に就任(博覧会は1940年に開催予定だったが、戦争激化により中止)。
1938年: 日本建築学会副会長に就任。
1940年: 同潤会建築部長に就任。
1941年: 住宅営団理事・建築部長に就任。
1953年: 逝去。
藤村朗は、東京市技師として震災復興や都市計画に関わり、その後も建築や都市計画の分野で活躍した建築家です。

43.渡辺仁

1887年: 2月16日、新潟県佐渡で生まれ、東京で育つ。
1912年: 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。卒業後、鉄道院に勤務。
1917年: 12月、逓信省に入省。大臣官房経理局営繕係に勤務。
1920年: 逓信省を退職し、同年4月に独立して渡辺仁建築工務所を開設。
1926年: 建築研究のために欧米を視察。
1929年: 渡辺仁建築工務所内に渡辺・久米建築事務所を開設。
1943年: 三井土建総合研究所を設立。
1953年: 渡辺高木建築事務所を開設。
1967年: 渡辺仁建築事務所に改称。
1973年: 9月5日、死去。墓所は品川寺。

44.吉田享二

1887年: 兵庫県に生まれる。旧姓は宮脇。
1912年: 東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、早稲田大学理工学部建築学科に勤務。母校の講師や助教授も務める。
1914年: 助教授となり、東京の吉田家に養子に入り吉田姓に改名。
1916年: 早稲田大学教授に就任。
1921年-1922年: 欧米に留学し、帰国後に自身の建築設計事務所を開設。
1925年: 北但馬地震後、城崎町の復興事業に関与し、城崎温泉の一の湯・まんだら湯、城崎小学校などの設計を担当。
1931年: 建築設備総合協会会長に就任。
1932年: 「建築物の耐久性」で工学博士を取得。
1936年: 建築保全会社を設立。
1939年: 早稲田高等工学校校長に就任。
1943年: 大東亜建築研究所理事長、木材工業協会会長に就任。
1947年: 日本建築学会関東支部の設立に寄与し、初代支部長に就任。
1949年: 日本建築学会長に就任し、1年間務める。
1950年: 日本建築材料協会会長に就任。
1951年: 死去。

45.下元連

1888年: 福岡県小倉市(現在の北九州市)に生まれる。
1914年: 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、学士号を取得。
1914年以降: 大蔵省に採用され、建築設計の仕事を始める。
1920年代-1930年代: 内閣書記官長官舎、警視庁庁舎、内務省庁舎、大蔵省庁舎、横浜税関庁舎、門司税関庁舎、長崎税関庁舎などの設計に関与。
1936年: 大蔵省庁舎の工事が一時中断される。
1943年: 大蔵省庁舎が完成。日本建築学会の副会長に選任される。
1945年: 太平洋戦争後、戦災復興院(後の国土交通省)に転任し、技監・営繕部部長として活躍。
1945年以降: 退官後、自身の事務所「下元建築事務所」を設立。工学院大学で教授として奉職し、後進の育成に尽力。
1984年: 死去。
下元連は、日本の近代建築に多大な影響を与えた人物として評価されています。

46.竹腰健造

1888年6月25日: 石川県金沢市に生まれる。
1909年: 第一高等学校を卒業。
1912年: 東京帝国大学工科大学を卒業。
1913年: ロンドンのアーキテクチュラル・アソシエーション・スクール(AAスクール)に留学。
1917年: 帰国し、住友総本店に入社。
1933年: 住友合資から資金とスタッフを得て、長谷部竹腰建築事務所を設立し、常務取締役に就任。
1944年: 大阪北港株式会社と住友ビルディング株式会社が合併し、住友土地工務株式会社となり、専務取締役に就任。
1945年: 住友土地工務を日本建設産業株式会社に改称し、社長に就任。長谷部鋭吉が取締役に就任。
1947年: 公職追放。
1950年: 双星社竹腰事務所を創設し、建築業界に復帰。日本建設産業の建築部門が独立し、日建設計工務株式会社が発足。
1962年: 日本芸術院賞を受賞。
1970年: 社名が株式会社日建設計に改称。
1981年7月28日: 93歳で逝去。
竹腰健造は、神戸海星女子学院礼拝堂、聖心女子大学、大阪市長公館、大阪能楽会館、法隆寺聖徳会館など、数多くの重要な建築物を手掛けました。

47.藤井厚二

「聴竹居」の設計で知られています。
1888年: 広島県福山市で生まれる。父は「くろがねや」の酒造家・金融業の岩村高俊男爵。10歳の時に小倉藩士竹腰虎太郎の養子となる。
1909年: 福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業。
1912年: 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。
1913年: 竹中工務店に就職し、大阪朝日新聞社などの設計を手掛ける。
1919年: 竹中工務店を退職し、約9ヶ月間欧米諸国を巡遊。環境工学への関心を高める。
1920年: 京都帝国大学工学部建築学科に教授として招かれる。
1926年: 京都帝国大学で教授に就任。
1920年頃: 京都府大山崎に1万坪の土地を購入し、自邸を4回建てる。
1928年: 最後の自邸「聴竹居」を完成させる。近代住宅建築の名作として評価される。
1936年: 満蒙開拓移民向け住宅の研究をしていた満州医科大学に教え子の前田敏男を送り込む。
1938年: 「聴竹居」での生活を経て、49歳で逝去。
藤井厚二は、環境工学の先駆者として再評価されており、その設計作品は日本の気候・風土に適応し、近代的な空間構成と融合させた優れた手法を示しています。

48.堀内貞

1910年: 東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業し、三越呉服店の意匠係に就任。
1913年: 工手学校(後の工学院大学)を卒業。
1915年: 宮内省内匠寮に勤務し、匠生として任命される。
1919年: 宮内技手に昇進。
1931年: 宮内技師と帝室林野局技師を兼任。これと同年に退官。
堀内貞は、宮内省における建築および工芸の分野で重要な役割を果たしました。

49.矢部又吉

1888年: 横浜市元町に生まれる。建築請負人の矢部国太郎の子。
1906年: ドイツに渡り、シャルロッテンブルク工科大学(現・ベルリン工科大学)で学び、ドイツ人建築家ゼールに師事。
1911年: 帰国し、父・国太郎の跡を継ぎ、横浜市内に建築設計事務所(日本庭園会社)を開設。
1910年代: 川崎財閥系の建築物を多く手掛ける。代表的なプロジェクトには、日本興亜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)、旧三菱銀行横浜支店(旧第百銀行横浜支店)などがある。
1941年: 逝去。享年53。墓所は青山霊園。
矢部又吉は、日本の近代建築に重要な貢献をした建築家です。

50.山下寿郎

1888年4月2日: 山形県南置賜郡米沢に生まれる。
1917年: アメリカ、カナダに出張。
1923年: 芝浦製作所に勤務。
1925年: 三井合名会社の嘱託に就任。
1928年5月: 山下寿郎建築事務所(現・山下設計)を創立。
1931年: 帝都復興記念章を受賞。
1948年: 山下寿郎建築事務所を株式会社に改組し、社長に就任。
1959年: 同社取締役社長に就任。
1964年: 「建築工事における報酬加算式施工契約制の歴史的考察とその実際的運用に関する検討」で工学博士の学位を取得。
1974年: 株式会社山下設計へと組織変更し、同社最高顧問に就任。
1981年: 同社名誉顧問に就任。
1983年: 逝去。
主なプロジェクト
霞が関ビルディング(1968年完成、日本初の超高層ビル)
NHK放送センター(1956年完成)
米沢市役所庁舎(設計)
仙台市役所庁舎(設計)
その他の活動
1920年~1948年: 東京帝国大学工学部で教鞭を執る。
1925年~1927年: 秋田鉱山専門学校で建築施工の講師を務める。
1953年: 極東建築士会会長に就任。
1955年: 日本建築文献センター理事長に就任。
1955-1956年: 日本建築設計監理協会会長に就任。
1956-1966年: 建設省中央建設工事紛争審査会会長に就任。
1960年: 東京都建築士審議会会長に就任。
1964年: UIA要請により工業建築国際ゼミナールに参加(プタペスト)。
山下寿郎は、日本の近代建築の発展に大きく貢献し、多くの賞を受賞しました。

51.増田清

1888年: 福島県伊達郡桑折町に生まれる。父は大日本帝国陸軍に所属し、東北地方各地で勤務。
1906年3月: 旧制青森県立第一中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業。
1909年3月: 旧制第一高等学校を卒業。
1913年7月: 東京帝国大学建築学科を卒業。佐野利器に学ぶ。
1913年: 安藤組(後の安藤建設、現・安藤ハザマ)大阪支店に入社。
1914年: 佐野利器の下で内務大臣邸の設計に従事。
1917年10月: 大阪府土木課に建築技師として着任し、府立大阪医科大学建築事務所に所属。府立大阪医科大学病院(現・大阪大学医学部附属病院)が火災で全焼したため、その再建の設計に関わる。
1919年: 大阪府営繕課の大阪医科大学建築事務所長に就任。
1924年3月: 大阪府技師を依願免官。
1924年4月: 大阪市で増田建築事務所を設立。
1925年6月: 広島市土木課建築事務として嘱託契約。
1928年3月: 広島市嘱託契約終了。
1935年9月: 増田建築事務所を閉鎖し、東京に移り安藤組取締役技師長に就任。
1941年2月: (社)軍建協力会常務理事として出向。
1942年3月: (社)海軍施設協力会常務理事として出向。
1948年頃: 安藤組を定年退社。
1949年5月: 全国建設業協会と嘱託契約。
1959年頃: 増田建築事務所を再開。
1966年4月: 日本建築学会より感謝状と終身会員の名誉を受ける。
1977年: 逝去。

52.遠藤新

1889年: 福島県宇多郡福田村(現・相馬郡新地町)に生まれる。
1908年: 第二高等学校(現・京都大学)に入学。
1911年: 東京帝国大学(現・東京大学)建築学科を卒業。
1912年: 建築界の大御所、辰野金吾による東京駅建築の批判を発表。
1914年: 明治神宮の建設に関わる。
1917年: 帝国ホテルの設計を引き受けたフランク・ロイド・ライトの建築事務所に勤務。
1919年: ライトとともにアメリカに渡る。
1920年: 日本に帰国し、帝国ホテル設計・監督中のライトの助手として働く。
1922年: 建築事務所を開設。
1923年: 関東大震災後の応急建築に従事。賛育会産院・乳児院などのバラック建築を手掛ける。
1935年: 満州と日本を行き来しながら設計活動を行う。
1945年: 満州で第二次世界大戦の終戦を迎える。
1946年: 心臓発作で入院し、その後日本に帰国。
1949年: 文部省学校建築企画協議会員として戦後占領下の日本の学校建築に提言を行う。
1951年: 体調を崩し、東大病院に入院。6月29日、心臓病により死去。
彼の葬儀は自身が設計した新宿区下落合の目白ヶ丘教会で行われた。

53.北沢五郎

1889年: 長野県長野市に生まれる。
1916年: 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。陸軍省に技手として入省(翌年、技師に昇格)。
1922年: 警視庁技師に転任。
1923年: 関東大震災後、帝都復興院建築局技師を兼任。
1929年: 警視庁保安部建築諜長となる。
1936年: 退官。
1930年 - 1946年: 東京工業大学講師を務める。
1935年: 東京工業大学より工学博士号を授与される。
1941年: 三井不動産の嘱託となる。
1948年: 渡辺仁と共に協同建築研究所を設立。
1953年: 北沢建築研究所を設立。
1964年: 死去。

54.関根要太郎

1889年: 埼玉県秩父市に生まれる。母の実家で育つ。
1904年: 秩父大宮尋常高等小学校を卒業。
1907年: 秩父郡立農学校(現・埼玉県立秩父農工高等学校)を卒業。
1908年: 神田の正則学校(現・正則高校)に入学し、英語を学ぶ。
1910年: 三橋四郎の三橋設計事務所に就職し、奉天領事館(1911年)などの建設に従事。
1913年: 東京高等工業学校(現・東京工業大学)に選科生として入学。
1914年: 東京高等工業学校を修了。
1914年: 日本建築株式会社(後に日本勧業会社)に入社し、不動貯金銀行の建築に多く関わる。
1920年: 同社解散により独立し、関根建築事務所を設立。
1929年: アメリカへ視察。
1931年: 関根建築事務所を解散し、不動貯金銀行の営繕課に勤務(1942年まで)。
1951年: 事務所を再開し、埼玉県内の公共施設を多く手掛ける。
1959年: 2月20日、埼玉県浦和で死去。享年71。

55.竹田米吉

1889年: 東京市神田区で生まれる。父親は棟梁。
1904年: 大工職人として修行を始める。
1911年: 築地の工手学校(現・工学院大学)を卒業。
1911年: 横河工務所(現・横河建築設計事務所)に勤務し、横河民輔に師事。鐘紡東京工場や王子製紙苫小牧工場の建設を担当。
1921年: 横河民輔の学費援助を受けて早稲田大学建築学科で近代建築学を学ぶ。
1947年: 竹田建設工業を設立。
1956年: 著書『職人』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
1976年: 死去。

56.武村忠

1889年: 宮城県に生まれる。
1921年: 京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)を卒業。
1922年: 内匠寮に入る(匠生として)。
1923年: 宮内技手に任命される。
1941年: 宮内技師に昇格。
宮内省京都地方事務所工務課長を経て、内匠寮廃止後に設けられた主殿寮に勤務。
退官後: 宮殿造営に際して専従調査員として委嘱される。

57.三上武之助

1889年: 京都に生まれる。
1924年: 京都帝国大学工学部建築学科を卒業。
1924年: 鉄道省に入るが、同年に技手として宮内省に転職。構造設計を担当。
1931年: 技師に昇進し、臨時帝室博物館造営課に勤務。

58.松田昌平

1889年: 生まれる。
1909年: 名古屋高等工業学校建築科を卒業。
1909年: 南満州鉄道株式会社建築課に勤務。
1910年: 日本ゴム(現・アサヒシューズ)嘱託、その後福岡市嘱託。
1931年: 松田建築設計事務所を設立。
1968年: 九州共立大学工学部の教授に就任。
1976年: 死去。
主要作品には、北九州市旧門司三井倶楽部(1921年)、杤木ビル(1920年)、旧日本足袋久留米第三工場(1930年)、旧九州医学専門学校本館(1929年)が含まれる。

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