27歳から地元は作れるか
地元をつくりたい。
そんな矛盾を感じるようなことを、24歳くらいからぼんやりと思うようになった。
「地元は出生と密に接している概念だから、そもそも作るものではないですよね」と言われたりするものなら、そうですね、、、、となってしまう。
でも、「第二の故郷」とか「アナザースカイ」みたいな言葉があるように、「地元をつくる」という言葉にも権利が与えられてもいいような気がする。
今も地元がある。
そこには友達もいて、一定の思い出もある。だし、好きだ。
けど、地元っていうほど地元なのだろうか、とふと思う瞬間がある。
今の地元にはそんなに文化がないからというのが主な理由。文化はあるんだろうけれども、根ざしてない。土地の歴史自体が浅いから仕方がないけど。
自分の人格形成に少なからず土地性は関わるはずだけれども、心が育つ地元ではなかったなと振り返ると思う。
そもそも地元は土地に限定されるものではないのではないか、という話がある。
GOMESSが「Hoodは土地だけに限定されるものではなくて、カルチャーや人などに拡張できる」という話をしていたけれども、その言葉は個人的には救いだった。
自分を形成するために歩んできた道のりにあったことがすべてHoodになる。
そんな解釈を進めていくと、土地というオフラインの場所だけではなくて、関わってきた人たちや自分の血肉になっている文化を故郷と呼べるようになり、結果的に地元への渇望が薄れていった。
でもそれでも、なんとなく地元への憧れみたいなものがずっとある。これには明確な理由はなくて、ただなんとなく。
潤っているようで潤っていない、心の砂場みたいな憧れに水をやりたい。そんなことを思っている。
最近中野に引っ越した。先週引っ越したばかりで、まだ余裕でよそ者。
でも、ちょっと地元の気配を感じることがあった。
今日家で料理をつくっていたら、大家のおばちゃんがきて、ごみ捨ての日を教えてくれた。
手書きのゴミ捨て周期表をくれて、「そういえば達筆じゃないおばあちゃんみたことないな」とか思いながら、ペラペラ話した。
そしたら「料理するの?えらいね〜〜〜」と言ってくれたので、嬉しくて「めちゃくちゃうまいから今度食べにきてよ〜〜」と伝えたら、ほんとに今度家にご飯食べに来ることになった。
てなわけで、この2時間くらいはおばあちゃんに出す献立を考えてる。
揚げ物は胃もたれするかなとか、なんかカブとかおばあちゃんぽいなとか、味の素アンチだったらどうしようとか。
なんとなく、中野が地元になる匂いがして、少しだけ嬉しい出来事だった。
心が育つ地元を見つけたい。
そんなことを脳の片隅で思いながら、中野での生活を積み上げていくんだろうと思う。
この家を出るときに、心の砂場が乾いたままか、それとも小さい湖に変化しているか。
わからなけれども、なんとなくオアシスくらいにはなっているような気がしている。
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