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生むこと、生まれることは愚か?

反出生主義(アンチナタリズム)−―21世紀の哲学者デイヴィッド・ベネターは、誕生は生まれてくる人にとって常に害であるとし、人類は生殖をやめて段階的に絶滅するべきだと主張した。このベネターの主張は、誕生害悪論とも呼ばれる。

引用:Wikipedia


鬱々とした気分のときは、何故だかこうして何か書きたい衝動に駆られる。

何を表現したいのか、何を残しておきたいのか、自分でもあまりよくわからないのだけれど。

自分語りがしたいわけでもない。こうあるべきだなどと語るつもりもない。

ただ何かに没頭したくなる。
現実逃避がしたいだけのような気もする。


反出生主義

反出生主義という考え方は、少子化が進む近年、ひっそりと注目を集めている思想のようだ。

まあ、偉そうに詳しく語れるほど、この思想がどれくらい根深いものかは語れる知識は無い。なので冒頭は、みんな大好きWikipedia様から拝借させて頂いた。

私はこの思想を、誰しもは一度はぶつかる(であろう)「生」への疑問や不安についてのある種の答え、優しさであり希望とも取れるのではないかと思う。

これが、私がこの思想の魅力に取り憑かれている理由だ。

しかし私もこの思想について語るのであれば少なからず誤った知識を拡げないためにも、現在、早稲田大学 人間科学学術院 人間科学部 で教鞭を執っている森岡正博氏の「反出生主義とは何か」という論文にさらっと目を通してみた。

そこでまず明言して起きたいのが、
『反出生主義とは、"すべての人間"、或いは"すべての感覚ある生き物"について考える思想であって「私は生まれてこなければよかった」「私は生きている意味がない」というのは反出生主義と呼ばない』
ということ。
同様のことを、森岡氏も名言している。


少しだけ反出生主義についてご紹介しようと思う。

反出生主義という日本語が最初に使われたのは2011年頃らしい。デイヴィッド・ベネターの「生まれてこなければよかった」という論文の中で使われていた言葉だという説が濃厚。
以降少しずつ認知度は高まっていき、2013年に森岡氏が上記の論文に対して批判的に紹介した「生まれてくること」という論文を発表。しかし森岡氏はこのときに発表した論文はあちこちに不正確な理解があったと語る。

ベネターの立場は、分析哲学においては「反―出生主義 anti-natalism」 というカテゴリに属しており、彼の考察は英語圏の哲学において最近と みに注目を集めている。(反―出生主義のもっとも有名な主張者は、アル トゥル・ショーペンハウアーである)。

反出生主義とは何か その定義とカテゴリー
森岡正博


ここで私は、哲学者・ショーペンハウアーについて調べてみた。

ショーペンハウアーの思想は、
この世に起こる事象はすべて非合理的であって、多種多様な人間が存在してしまう世界では誰かが他の誰かによりその意思は阻まれることを阻止出来ない
=生きている時点で苦しみは生まれざるを得ない。その苦から逃れるためには種の絶滅以外に道はない。

とまあこんな内容だ。

これだけ端的に説明してしまうと少し度が過ぎる考え方だと感じる方も多いだろうが、今回はこの考え方を元に、あくまて私の思う「反出生主義」について意見を述べてみたい。


苦しみ>喜び


私は、反出生主義という思想に出会う前には既に近い感覚を掴んでいたんだと思う。

生きていてよかったと思う日があることや、それが訪れる日を待つよりも、その間にある苦しいが無い方が幸せだと二十数年間ぼんやりと感じていた。生きている以上、幸せだと感じることはあれど、苦痛だという感覚があること自体が嫌だった。

ならば、せめて生まれない方が幸せだ、と
そう思っていたときにこの思想に出会った。


反出生主義の中でも、提唱される理論にはざっくり2つのジャンルがある。

  1. 我々が生まれてきたこと自体の否定

  2. これから新たな生命を産むことへの否定

この2つ。


私の場合、どちらかと言えば1の思想に近い。

人間という存在は厄介で、皆それぞれ異なる"常識"を持っている。
その"常識"とは、生まれた場所、時代、環境など様々な事象によって感覚が異なる。それにより、文化や習慣、倫理観すら異なる。

アインシュタインが言うように
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション
でしかないのだ。まあ、これは余談。

多様性を重要視する現代では、その"常識"と呼ばれる偏見により人々の意見が食い違ったり、それにより争いに発展したりする。
戦争だの環境破壊だの、そもそも人間が存在するからこそ起こり、悩み、苦しむのだ。

しかも生んでいいですかなどと聞かれて生まれたわけではない。
望まずに人間という生命体は存在してしまった。


ここまで話をしていて、まるでショーペンハウアーの思想をただ噛み砕いて説明しているだけのような気もしてきて、自らの語彙力と想像力の無さを恥ずかしくも思う。

だからと言って今から皆仲良く死にましょうというのも無理な話だ。
どうにかして生きようとしてしまう。それは人間に備わった本能で、死に対する恐怖は当たり前の感情だ。

という訳で、2の思想に行き着くのだろう。
苦しみが必ず待っていることが確定している世界に、また新たな生命を生み落とすことは如何なものか、ということだ。

「生んでいいですか」
「はい、いいですよ」
などと事前に打ち合わせが出来たならいい。そんなことを想像している自分自身が滑稽になるのは一旦置いておく。

ただ、生まれてきて苦しいことだけではない。
もちろん喜ばしいことだってたくさんあるだろう。
それを奪ってしまうのも如何なものか、という反対意見ももちろんある。
それは至極真っ当な主張だ。

しかし語弊を恐れずに言えば、私の中では苦しみと喜びには優先順位があるのだ。

苦しみ→無い方が良い
喜び →あってもまあ問題はない

生まれてこなければ苦しみは無い(良い)、それに喜び(あっても問題ないもの)に遭遇することすらないのだ。

そもそも親(となる予定の人間)が子供を生むこと自体がエゴだと言われているのだから、生んでも生まなくてもどちらにせよ親のエゴだ。

だったらあっても問題ないものを欲するより、無い方がいいことにわざわざ遭遇しにいく、させにいく必要は無いと、私は考える。

緩やかに人口が減っていって、最終的に人類は絶滅するのが色々な問題を解決する最善の方法だ。


追記


ここまでだらだら綴っておいて今更言い訳がましいのだが、これは思想の強要ではないことを改めて追記しておく。

あくまで「私は産まないかもね」というレベルの話で、この思想に特に固執しているわけでもなければ、他者が産むことに関して特になんとも思わない。
今この瞬間私自身がこうして文章を綴っているように、既に人間がこの世に存在してしまっていることは、私の力ではどうすることも出来ない事実で今更変えられるものではない。

むしろ、現在周囲にいる人間が、育児や妊娠、新たな生命を育てるにあたって苦しい、つらいと感じているならば、その苦しみを最小限に留められるよう喜んで協力しよう。


この記事を読んでくださっている人は、「反出生主義」についてどう考えるのだろうか。

それだけは少し、気になる。

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