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死ぬならひとりだ 生きるならひとりじゃない
仕事から帰ってきて、バニラ風味の煙でほっと一服。
2月14日0時48分。
今日は月が綺麗ですね。
友達の話をしたい。
私には友達が少ない。
人生の中で「心の底から友達だ」と思える関係を築くことが出来る期間は、例外はあれどなんだかんだ限られていると思う。
大体その期間というのは幼児〜20代前半ではなかろうか。
学生でいる期間。
おそらく、最も友達を作るチャンスが訪れる期間だと私は考える。
学校、クラス、部活など、義務教育だかなんだか知らないが、何かのコミュニティに所属を強制されるからだ。
強制的に所属させられ、振り分けられ、既に決まっているも同然の選択肢が目の前にぶら下げられる。
そんな匣の中で、きっと日本中の大半の人が20年近く生きることになる。
私もその匣の中で、数少ない友達を見つけたわけだけれども。
自ら選んだものでないという事実は、どうしても「やらされている感」が否めない。
「強制的に所属させられたコミュニティ」も同じくだ。
仲良く"しなくちゃ"いけない。
話さ"なくちゃ"いけない。
嫌いでなくても、自ら選択したものや自ら気付いたこと以外は"しなくちゃ"精神になってしまう。
私は当時、のほほんと何も考えていない自分と、恐ろしいほど冷めきっていた自分の2人を心に飼っていた。(理由はなんとなく察しがつくがここでは関係ないので割愛させて頂く)
冷めきった私の意見で、「別にここで仲良くしようが悪くなろうが、いずれ二度と会うことはなくなるのだからオールオッケー」という方針となり、学び舎からの卒業とともに築いてきた人間関係とも卒業した。
それが冷めてるなあと気が付いたのは大人になってからだ。
話は友達に戻る。
地元でも地元でなくても、どこにでも一定数変な奴はいるもので、そんな私に「会おう」と言ってくれる奴が現れ始めた。
結婚したり、子供が出来たり、仕事で遠くに住んでいたりするけど
悩んだら話を聞いてくれて
くだらない話を一生引きずってゲラゲラ笑って
死にそうになったら死ぬなと言ってくれる
それが今の友達なのだけれど。
正直に言うと、今でもたまにこの冷めた感覚が顔を覗かせて「全部投げ出してふっと消えてしまおうか」とか思う。
つらくて逃げたくて思う。
私という存在が消えてもきっと世界は変わらないから。
ただ同時に、突然いなくなった後の生活を覗きたいな、とかちょっとワクワクした感覚で思うときもある。
でも、人は脆いものだから、やっぱりひとりはさみしいのだ。
友達も学校も
家族も社会も 恋人も
世界との繋がりが煩わしかった
僕らを縛り付けていた無数の糸は
繋ぎ止める為のものだった
この世界へと
友達の話をしたい。
私には友達が少ない。
だけど最高で、私をこの世界に繋ぎ止めてくれている人の話を。
RUNはYouTubeで見られないのが残念。