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離散(一)


 
 ——私の首を貴方は真綿で絞めます。それがディアスポラを生み出した最大の要因です。
 望希は壁の落書きをぼおっと眺めた。
それは極細の油性ペンのような筆跡だった。老朽化した学校の教室はペンキがはがれ所々綻んでいる。そのせいで文字は一部が欠けていた。
 きっとこれは六年前の豪雨の後のことが書かれたもので、この落書きをした人物はもうこの街にはいないのだろう。あれ以来この街から多くの移住者が出て、街の人口は大きく目減りしていた。
 望希には移住するという感覚がどういうものかまだ測り兼ねた。ようやく十八歳になるところだ。未来はまだまだ長く、それでいて猶予がある訳でもない、そんな時の流れの中に彼女はいた。
 でももうすぐ彼女はここを離れ都心にある大学に通う。
 そう決まっている。
 「つき、まだ帰らないの。」
 弓香が帰りの支度をしながら望希に訊いてきた。
 午後三時半。白く大きな月がまだ明るい空に浮かんでいた。丸くとても近い。
 グラウンドではサッカー部がストレッチを始めている。校庭の隅の草むらが山風に吹かれて寒々と震えていた。
 「うん。帰るよ。」と返答した。
 「じゃあ帰ろ。」
 「分かっている。」
 望希は生返事のように言い、だけども立ち上がる気になれなかった。
 「帰る気ないじゃん。」
 そう言って、呆れたようにため息をつかれた。とても深いため息だったので、望希は目を少し丸くして笑った。


 『中島望希』。彼女の氏名は『なかしまつき』と読む。命名は希望から来ている。
 希望が反転しているのは望むことを優先して欲しいから。希うことは憧れのような感情なので少し優先度が低いから。きちんと地を踏みしめて歩いて欲しいというもの。
 望希は自分の名前が少し重荷だった。子どもの頃から望希には現実的な自分が想像できなかった。彼女に想像できるのは最後にはいつも足を止めてしまう自分だった。
 こんなので大学でやって行けるのか、しかも一人暮らしをすることになる、最近もそんなことばかり考えて不安になることがあった。
 望希の暮らす町は山に囲まれている。住民の多くが観光業と農林業で生計を立てていた。彼女の父親は地銀の職員で、母親は地元の建築会社の経理担当だった。二人が出会ったのは仕事を介してだったという。その仕事の誠実さに人を見たらしい。それもお互いにだった。
 それは自然と始まった関係だった。二人は休日に会い、日々言葉を重ねていって、自分たちの直感が単なる勘に留まらないことを、一つずつ確認していった。そしてそのチェック作業が終わる頃、二人はそのまま結婚することを決めた。
 だから、二人が結婚するまでの道筋は、とても簡潔で寄り道のないものだったと言える。実際に決断は出会って一年もしない内になされていて、事が決まると同時に生活の基盤も整えられていった。
 望希が住み続けている家も婚約期の最中で建築された。もともと母が所有する土地に建て、二人は貯金が趣味で結婚式も簡素なものにしたため、建築費用については頭金を多めに用意でき、ローンは比較的に早く返済された。それほど豊かではないが貧しくもない暮らしだと言っていい。
 それでも二人は子どもをつくることには慎重だった。そのため望希は結婚から五年ほど経った二人が三十代の頃に生まれていた。
 「もうそんな時代じゃない。」
 それが二人の口癖で、望希が一人っ子である理由でもあった。子どものことを問われるたびに親戚にいつもそう語っていたのだそうだ。
 二人共が非常に堅実な考えの持ち主で、望希の少しだけ暢気な性格がどうして形成されたか、当事者はもとより誰にも分からなかった。
 だから、「不思議なものね」と噂されることもあった。
 望希は、自分のぼんやりとした性格が嫌いではなかった。きっと両親も彼女のパーソナリティを否定したい訳ではないのだ。ただ心配なのだ。
 父親は望希によく、早く自立しないとな、と言った。望希はいつも自立というものがよく分からないまま曖昧に頷いていた。
 母親は望希に、勉強だけは怠らないように、と諭した。望希は自分なりに努力はしているつもりだったが目立った成績を取る訳ではなかった。
 二人のようにちゃんとした大人になれそうにない。それはただただ漠然とした不安でしかなかったが、なぜかじわじわと望希の心の奥底で燻り続けていた。
 「本当にずっと同じことで悩んでいる。」
 望希は一人頭を抱えた。思えば小学生だった頃も全く同じことを考えていた。なんて成長がないんだと自ら呆れた。あのとき悩んでいた彼女は、突然来た災害に巻き込まれて、いつの間にか恐怖と共に、悩みを抱え続けてしまっている。
 あの日から徐々に廃墟が増えた。人がいなくなったのは子どもの頃から時々通った喫茶店が最初だった。それから駄菓子屋がなくなり、自動車整備を行う町工場がシャッターを下ろし、書店がなくなりレコード店がなくなり、老舗の和菓子店がなくなりと寂れてしまい、人が寄り付かなくなった建物は朽ちていった。
 望希にとって幼い頃から慣れ親しんだ風景から零れ落ちていくように消えていく現象は、心の傷を一つずつ深く大きく刻まれているようで、心苦しく、辛かった。
 ——大人が困り途方に暮れてしまうのに、子どもはどうして悠然と構えていられるのだろうか。
 彼女の心象はその一言に尽きた。そして彼女はまさに子どもだった。
 もしあの日、豪雨災害がなかったとしたら、望希はもうちょっと臆病さのない性格だったのかもしれない。でもそれは起こってしまったのだ。

 

 六年前、集中豪雨がこの町を襲ったとき、望希は学校にいた。大雨が降ることは前日から予報されていたが、これほどの雨になるとは誰も考えていなかった。
 午前中の授業が終わる時間になって、まるで地面をバンバン叩くような雨が降って、昼食を食べている途中で大雨洪水警報が出た。また土砂崩れが起こったらしいという情報がそのとき届いた。それで午後の授業は休校となり下校することになった。
 望希は弓香と一緒にいた。その頃はそれほど仲が良い訳ではなかった。でも二人は家が近所で一緒に帰るように指示されていた。
 「行こう。」
 弓香は短くそう言った。望希は黙って頷いた。
 二人が通っていた小学校は川沿いにあった。水位が高まり濁流となった川はまるで別物のようで二人で怯えた声を出した。特に橋を超えるときには足元が竦んだ。
 「…大丈夫かな。」
 「さあ。でもきっと大丈夫。すぐ雨止むよ。」
 弓香の声はとても優しいが、望希も人見知りでなかなか人付き合いも上手くなかったために、なんだか少しだけ緊張しているようだった。
 望希は弓香のことを普段からよく目で追っていた。彼女は白くてすらっとした身体を持ち、小さな耳から首筋の美しさがまるで子どもでないみたいに、とても洗練されて見えていた。なんだか大人みたいだった。
 橋を渡り切り、坂道を登り始めると、少しだけ脅威が緩んだ。そこで二人は初めてまともに会話をした。激しい雨音に掻き消されるので叫び合うみたいな会話だった。
 「今日寒いね。」
 「うん。雨が冷たい。」
 「まるで秋じゃない。」
 「というか、昨日までは普通に暑かった。雨が全部…」
 「冷ましたみたい?」
 「そう。」
 「確かにね…」
 そうして二人は沈黙した。弓香は小学五年の頃にこの町に引っ越してきていた。望希とはクラスが違ったのでほとんど話したことはなかった。だから会話は上手く方向性を定められなかった。
 「あの川、氾濫したことあるの?」弓香は質問した。
 「ううん、多分ないと思う。」望希は返した。
 「そっか。」
 望希と弓香はその後で中学校のことを話した。二人が住む町にそれほど多くの選択肢がある訳ではなかったが、なんとなくお互いが私立の学校でないことが少し意外、と言い合った。特に目立って成績の良い弓香は、私立に行くのではと噂されていた。
 「中学では同じクラスになるかもね。」
 弓香は言った。それはただの感想のような言い方だった。そうなれば嬉しいという感じではなかった。そういう意味では最初から望希にとって気を遣わない相手だったということなのかもしれない。
 坂を登りきると行先で倒木が起こっていた。木は完全に道を塞ぎ、道幅が狭かったので通り抜けられそうになかった。
 「ダメだ。」
 弓香が言う。望希はどうすると問い掛けて、二人は迂回することにした。
山上公園を抜ければ二人が住む町に抜けることができた。でもそのためには一度坂を下り別の坂を登る必要があり、さらにそこから道を下らなければならなかった。
 公園の近くまで来ると二人は少し休んだ。子ども向けに文房具やお菓子などを売っている小さな商店があり、そこのベンチで雨宿りをした。
 「中島さんって、下の名前なんて言うの。」
 弓香はなぜかそこでそんな質問をした。名簿などで氏名を見掛けることがあったが、ずっと読み方が分からなくて気になっていたという。
 「つき。変な名前でしょ。」
 プラスチックの雨避けを突き立てるような水の音がしていた。耳を劈くその音はまるでノイズみたいに二人の間に流れていた。
 「つき、か。」
 「佐々木さんは弓香だよね。」
 「うん。そう。」
 望希はなぜだか子どもの頃、名前を『のぞき』と読まれ揶揄われたことを思い出した。弓香はそのことを知らないので笑ってくれるかもしれない。でもそんなことを言い出す気にはなれなかった。
 雨は一向に弱まる感じがなかった。二人は諦めるみたいに豪雨の中に飛び出して公園を抜けるため駆け出した。

 

 弓香の家は望希より遠かった。坂を登り切った先にあるアパートに住んでいるということだった。そのアパートのことは知っていたのですぐに場所が頭に浮かんだ。
 望希は弓香に少し家に上がらないかと提案した。弓香はそれを断り弟が待っていると言った。
 「今風邪引いて休んでいるの。」
 両親は共働きで、父は今日帰れない、母は昼過ぎまで看病していたがどうしても仕事に行かねばならず、夜まで帰って来ないと連絡があった、弟は一人で部屋にいてもしかしたら不安がっているかもしれないとのことだった。
 面倒見ているんだ、と望希は感心した。
 二人が別れると、望希の周りには雨音や風音以外に何の音もなかった。彼女の両親はおそらく早めに帰宅するだろうが車で通勤しているので大丈夫だろう。
 留守電に母からメッセージが残されていて、雨戸を閉めて置いて、とのことだった。彼女は家中の雨戸を閉め切り一人部屋に籠った。
 夕方になると落雷があった。望希は雨戸のない小窓の外を見詰め雷が落ちるのを見た。遠くの稲田に落ちたようだった。
 午後五時頃、両親は立て続けに帰宅した。二人共道が浸水していて迂回したと言っていた。
 午後七時半、土砂崩れがあった。地鳴りの音は望希の住んでいる場所からも聞こえた。微かに地震のような揺れもあった。その揺れは強風の中で簡単に見過ごせるものだった。でも望希は確かに感じた。
 午後九時頃、河川が洪水で決壊した。雨水は近隣地域に浸水した。住宅約二百三十棟が被害を受け望希の小学校も水没したと連絡があった。この時点で翌日の休校が決まった。
 望希はその地域に住む同級生である祐一のことを思っていた。もう町は暗闇に覆われて何も見えなくて、入ってきた情報が本当に正しいのか分からない。かといって彼に連絡をするのは適切でないと分かっていた。きっと避難しているだろう。そう願った。
 二日後、雨が止んだ。雨が降り始めた次の日の夜からは小ぶりになっていたが、完全に止むのにはそれだけ時間が掛かった。住民は自宅に閉じ籠るか、避難場所での生活を余儀なくされていたが、川の氾濫と土砂崩れの映像はテレビを通して見ていた。
 その災害で町が受けた被害は、死者一名、重軽傷者十六名、行方不明者はおらず、建物の被害は住宅全壊十八棟、半壊二百五十棟だった。亡くなったのは農家を営む八十代の男性で、重軽傷者は強風等によるものが十二名、残りは土砂崩れに巻き込まれた人たちだった。住宅の全壊は十六棟が浸水によるもので、二棟が土砂崩れによるもの。半壊はほとんど浸水によるものだった。
 学校の授業が再開したのは三週間後だった。校舎の一階部分は完全に水没し、水位は二階の廊下まで来ていたようだった。
 授業が再開するまでには色々な経緯があった。学校関係者と地域のコミュニティで有志を集い学校の清掃活動をした生徒もいた。望希は土砂崩れがあった地域の近くに住んでいたため、彼女に参加を呼び掛ける人はいなくて、それを知ったのは復学した後だった。
 弓香も、例の水没した地域に住んでいた祐一も、再開初日に登校していて望希は少し安心した。望希は友人に挨拶をしてから二人にそれぞれ声を掛けた。弓香は帰宅した後のことより彼女の父親のことを話し、消防局員だから大変だった、と言っていた。祐一は思いの外明るく、大丈夫、とだけ言っていた。
 集中豪雨による被害者は町に直訴した。堤防の決壊の責任の所在を巡る補償の訴えだった。なぜなら住民たちは十五年前に川が氾濫したとき堤防の増強を求めて意見書を提出していて、その意見書が氾濫の可能性が極めて低いという理由で突っ撥ねられていた。
 しかし町は反論し、県も国も最低限の補償をするだけで、住民たちは裁判を起こしたが判決が出る前に多くの住民が生活苦に陥った。言うまでもなくとても小さく貧しい町だった。豪雨がなければゆっくりと時間を潰しながら錆びていくような町だった。限られた仕事しかなく倹しい生活ばかりがそこにあった。
 だから、全国的に見れば、その災害補償がとりわけ不平等だった訳ではなかったが、それが命取りになる環境でもあった。とにかく被災者生活再建支援制度による給付や災害援護資金などの貸付制度を利用し、どうにか生活を再建するしかなかった。
 しかし生活を組み立て直せる人は少なかった。理由は町が社会保障費の増加を理由に住民税の税率を割高にし、公共サービスを削減したからだ。病院がなくなり、介護施設がなくなり、コミュニティバスの本数が減りと生活は不便になり、それに比例して仕事もなくなっていった。
 そもそも集中豪雨の直前に隣町に大きな商業施設が建ち、その近隣に大きく綺麗な集合住宅が出来て、そこに高速道路が山の麓まで引かれ、温泉目当てに来ていた観光客が宿泊より日帰りを選ぶようになりと、町の経済にとって不利な状況は重なっていた。それによって引き起こされたのは、被災していない人が先に街を離れていくという現象だった。
 農業では高齢化による廃業が、観光業では小さな旅館から一つずつ倒産し始めると、それが決壊となった。それを引き止めるような未来はそこにはなかった。
 ディアスポラという言葉が使われ始めたのは、イラク出身の住民が災害補償に対する抗議運動の中心メンバーで、彼女がもともと難民支援を受けて移住した離散者だったからだ。戦争から逃れ日本に行き着いた先で今度は被災し、それに同情した住民たちが支援を勝ち取ろうと協力し合い、それなのに十分な支援をしようとしない自治体に痺れを切らした人々を見た、その象徴としての表現だった。
 でもそれは皮肉のように離散者を見送る被害者の会になって行かざるを得なかった。政治は遅々として動かずまるで見捨てるようだった。
 そして見送る側が見送られる側になるのにそう時間は掛からなかった。被災者は徐々にその町を離れ別の地域で暮らすようになった。あるいは最悪の場合においては行方が不明になった。彼らが何処で何をしているのか。今把握されている人は少ない。
 そのときに散見された問題は、被害者と非被害者、離散者と定住者といった間で対立があったことだった。ロビー活動を迷惑がったり、移住する人を罵ったりという行為が頻繁に起こった。そしてそれは暴行事件や脅迫事件に発展することさえあった。
 祐一が行方不明になったのは中学を卒業する頃だった。望希たちが新生活に期待や不安を抱きながら、残り少ない中学生活を送っている最中に突然、彼は出席しなくなった。彼の友達もその行方を知らず、家を訪ねても蛻の殻というありさまで、連絡さえ付かなかった。
 望希は、とても恐ろしいなにかがこの町の根底に絡みついて、地中に引き摺り込もうとしているような、そんな印象を受けた。
 そして大切ななにかを失った気がしていた。

 

 「つきはさ、この町が好きだった?」
 弓香は望希に訊いてきた。望希はどう返していいか分からなかった。
 二月の終わりの陽気にしては外が暖かかった。望希は自分の体温が歩調と共に少しずつ高まって行くのを感じた。
 「もう引っ越しの準備は終えたんでしょう。つきはきっとここを離れた方が上手く行くと思う。」
 「そうかな。」
 「うん。きっとそう。」
 弓香は市内の外国語大学に行くことになっていた。一時間も掛からない場所にあったためここを離れることはなかった。
 「そんなの分からないよ。」
 なぜだろう。弓香はその日帰りに迂回路を取りたがった。望希と話したいという気持ちがあるのか、それとも弓香に時間を挟みたい事情があるのか、その感情は量り兼ねるものだった。
 二人は話をしながらかつてよく歩いていた道をなぞった。子どもの頃から慣れ親しんだ道もあれば、少しだけ成長した後になって初めて使い始めた道、そして弓香と知り合った後に知った道もあった。改めて歩くと風景は大きく変わっていた。
 「私たちは恵まれているね。」
 弓香が祐一のことを言っているのだろうと望希には分かった。あるいは他のこの町を離れた同級生のことも意味しているのだろう。
 弓香は祐一のことが好きだったのかもしれない。祐一は性格もさっぱりとしてとても快活で明るく、頭もよく運動も出来て整った顔立ちをしていたために、誰かが彼が好きだ、という話は絶えなかった。
 でも望希は弓香とそういう話をしたことがなかった。望希はもともと人に恋愛の話をするのが好きではなかったし、弓香はあまり誰かと付き合うことに無関心というか、どこか人との間に線を引いて関わっているところがあった。
 「うん。」と望希が言うと話は途切れた。
 そう、私たちは恵まれている、と思ったが、本音を語れば望希にはとても大きな違和感があった。それがなにか上手く言葉には出来そうになくてただ頷いていた。
 三月に入ると途端に、静かな生活が望希を待っていた。まさに卒業を迎えるという独特の緊迫感の中で望希は日に日に冬が春に変わり、芽吹きのようなイベントの片鱗を傍に感じていた。
 望希にとって卒業式は思い出深いものにはならなかった。ただ通り過ぎ去ったような式で、まるで他人事に感じていた。どちらかと言えばその後の引っ越しの方がなにかと記憶に残った。新しく住む家は大学から少し離れた場所にある小さなアパートで、学生が多く住むような所は避けてそこを選んでいた。
 三月の後半に移り住んだ後は、アルバイトを探したり入学のための準備に時間を使ったりして、気が付くと桜が咲いていた。彼女の住処の直ぐ傍に小さな公園があり、そこに桜の気が三本だけ植えられていて、それまでは気付きもしなかったのだが、ある日近隣の住民がそこで花見をしていて余りに五月蠅く、外を除いたときに桜の花が満開なのを見た。薄い紅色が綺麗で煩わしく思った感情を忘れてしまった。
 大学が始まると日々に忙殺されるようになるのは一瞬のことだった。仕送りもあったのでアルバイトは週三日程度でよかったが、大学の講義や課題などをこなしながら働いていると、不器用な望希にはスケジュールの整理が上手くいかなくなることがあった。それでも期限ぎりぎりでいろいろな作業を間に合わせていた。
 そんな生活にも慣れ始めた頃、望希はある連絡を友人から受けた。それは弓香に関することだった。


——(二)へ続く――

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