顔に落ちた桜
私は口を噤んで、一本の桜を見ました。
それは狂い咲きし、まるで群れから外れた孤独なもので、誰もそのことに気が付かないようにその根元には人の姿が見当たらないのです。
どこか遠い記憶に、満開の桜の下に人気がないような、そんな桜が怖いと言った人がいたかと思いますが、はて定かに思い出せないことが苛立たしくありました。私は他人のそういう呑気な態度を軽蔑していましたので、余計に腹立たしく遣る瀬無いばかりに、肩を落としました。
秋の終わりでした。季節を言葉にすると信じられないような開花でした。暖秋が嘘かのように北の海で冷えた空気が南下して肌寒さを感じた日と記憶しています。どこかからか金木犀の香りがして、桜の香りと混じるのを初めて嗅ぎました。それは甘さの抜けた、青く熟れないままの果実に似た、そんなものでした。
私はその日、三人の同僚に解雇を言い渡しました。三人を解雇した理由はまちまちですが、一言にすれば会社に相応しくない能力や資質を持っていたためです。そして私はその三人の他に五人の同僚から退職勧奨への合意を得ました。彼らは他と比べ能力が劣っていたことと会社の経営状況から判断して退職を勧奨しました。
そのうちの一人は、気の毒だとは思いますが、女性社員で妊娠したのではという噂が聞こえた者です。本人が申し出を行う前についでに退職勧奨をしたものでありまして、まあ結果としては事実とは違っていたのですが、しかし不可抗力でした。
なぜなら、それらは皆、吉木が木偶だ愚図だと言う者たちだったためです。その女性社員も、妊娠云々だけでなく、放って置くと問題になると吉木が断言するので、彼女がそう言うのであれば辞めて貰うが賢明というのは、ここ十年ほど数値にして当たり前に証明されて来たことでした。
彼女の言葉通りに人事を行えば、業績は鰻登りという以外に他ならず、社の成長のためには致し方ありません。今のこの経営難さえ、彼女の言葉を聞かずに、社長がとある社員を解雇も退職勧奨もしないと拘り続け、そんな中でその社員の態度や問題行動が大きな損害を生み、陥ってしまったものでした。
「もう逆らわないでください。」と吉木が口にすれば社長は頷くしかなく、全ては速やかに解決する方向に向かうだけでした。
とにかく、職場がクリーンになったのです。そして、部屋も、人数が減った分だけ、少し広くなりました。広く清潔な場所というものは労働にとって最も大切なファクターの一つです。それだけでも十分な価値はあったことでしょう。
「もう辛気臭い顔を見なくていいと思うとせいせいする。」
吉木が晴れ晴れとした顔で言い、私はこれでまた会社に貢献できると嬉しい限りでありました。なぜか森の精霊のような衣装をいつも来ている吉木が、ケラケラケラケラ笑うとカタカタと彼女の椅子が音を立てて、その小さな身体が小刻みに揺れて鬱憤が空に放たれると、まるで巨大な喋るファンガスのようなでした。
「本当に皆使えない奴らだった。出川はのろまだし、浜口は調子だけよくて、山田はサボってばっかり。困ったものよ。」
彼女の甲高い笑い声は黄色く響きました。とても楽しそうでした。
「皆いなくなりました。これでしばらくは安定します。」
私は言いました。吉木はこっくりと頷きました。
「貴方と小倉だけいればいいのよ。貴方たちだけはなんでも完璧にやって見せる。人の何倍も働いて見せる。」
私は胸を撫で下ろし、会社からいなくなった同僚の退職手続きを終えました。
「すっきりすっきり。」
吉木は私が作った書類に承認の判を押しました。そこには空白になった彼らの机だけが残されることになりました。でもそれはあって困るようなものではありません。
それで全てが終わったのです。
そのあとで、意気揚々と帰宅の途について油断したのか、安易な考えで近道のために大通公園を横切ることにして、その桜の木の麓まで来てしまったことだけが、私の誤算でした。
不気味だ、不気味だ、と繰り返し思って満開の桜を見上げた所で、会社を出たところから私を追って来た様子の与那に話し掛けられました。直ぐにでもその桜の木の前からはなれたかったのですが、与那は同僚でありましたし大事な話が私にあるのだと言いました。
頼られるのは、悪い気はしません。もともと頼りがいがあると人から良く言われます。些末なことから深刻なことまで相談に乗るのは得意でしたので、私はそれほど大事な話ならと彼女の話を聞くこととしました。
それに与那はとても美しい女性でした。まるで白い骨が構成しているような丈夫で滑らかな肌、真っ直ぐ長い黒髪は重力のままに落ちるかようで、涼しげな目元とこげ茶色の瞳が見据えたものを透かすような、そんな印象がありました。身体もシリコンでできた彫像のような美しさと滑らかなシルエットを持っていました。
そんな女が、私と二人きりで話したいというのです。どうして断ることが出来ましょう。
与那の話は滔々と続きました。言葉は滑らかでしたが心の奥底に燻る感情は漏れ出ることもなく、冷静に論理的に話そうとしている様が彼女からは見受けられました。
「私は会社に関わる全ての人が罰せられるべきだと思っています。」
彼女は静かなトーンで言いました。与那は私を咎めるように無言になるのです。
それで、それは相談の名を借りた、私への非難の言葉に思えました。
「それは私を否定しているのですか?」私は訊きました。
私は訊き終えたところで、与那の目が私を見据えているのを捉えると、なぜだか黙らなければならないと思いました。彼女の前では固く口を閉じ続けていなければならなかったのです。
私はそのことに気付くと無意識に口元をキュッと結んで黙りこくっていました。そして一度口を閉じたら力を込めてもなかなか空くことができませんでした。
それが何故かは分かりません。今思うと与那は私より職位も低く勤続年数も短く年下で、何一つ彼女のいう言葉を気にする必要はなかった筈でした。
可笑しいだろう、と言ってやればよかったのです。
しかし、私は彼女に対して沈黙し、何かを言うことはありませんでした。
私がしばらく黙ると、彼女は何事もなかったかのように、話を再開させました。
私である必要があった筈です。なぜ彼女は私を追って来たのでしょう。それが分からないまま私は彼女の深刻な話を聞き続け、まるで私語厳禁を言い渡されたかのように、口をはさむことは許されないのです。
「どれもこれも小倉さんが私にしたことです。小倉さんは私を保険営業活動のパートナーにした上で、その立場を利用して私に対してセクシャルハラスメントを繰り返しています。彼は私のスカートの中に手を入れ、力で無理矢理抑え付けてシャツの上から身体に触り、また露出した身体を見せ付けてきます。」
つまり、私は腹の中で独りごちました。
「貴方は私が解雇すべき相手を間違ったと考えています。」与那は言いました。
私の印象とは大きな隔たりがありました。小倉は惜しいほどに誠実な男でしかありません。結婚していて妻も子供もおりとても大切にしている筈なのでした。
遠くに同僚たちの姿が見えました。創業記念パーティーを終え帰宅している最中の様でした。久屋大通公園沿いの遊歩道をお喋りしながら地下鉄の駅に向かって歩いて行きました。
私は正気を取り戻しました。それほど確信がありました。
「そんな馬鹿な。小倉がそんなことする訳がないでしょう。」
「いえ他の社員がいる前でもお構いなしです。多くの証人がいるのです。直ぐに分かります。」
なぜ貴方は彼の首をまだ切っていないのでしょう?
私は与那の声を聞いたような気がしました。
与那は確かに小倉からのハラスメント被害を訴えましたが、それからしばらくの間、何事もなかったかのように日々は過ぎていきました。
私は次第に、その日の出来事を、幻だったのかと思い始めました。
思い出してみると、それは現実離れした光景でしかなく、桜の下で話し込んだことだけが鮮明に脳裏に焼き付いていて、どのように会話を終えたのかさえ何故だか抜け落ちてしまったかのように、なにも思い出せないのです。
私は酔っていたのかもしれません。創業記念パーティーでほんの少しですがシャンパンを口にしました。久しぶりにアルコールを口にしたため良いが早かったようにも思われました。
与那は会社でいたって普通にしていて、なんなら小倉とも普通に言葉を交わし、仕事をしていました。被害を訴える女性がそんな風に一ミリも態度に表さないなど、私には俄かに考えられないことでした。私はこれでも人を見る仕事をしてきたのです。本心が見えないことなどそうそう経験にありませんでした。
あの日の桜も、会話も何もかもも、全てが全て狂っていて、私は疲れから幻覚でも見ていたのかと考えれば、その方が納得できるものでした。
そんな私が一つだけ、与那について明確に気になっていたことは、解雇しまたは退職勧奨した8名のメールアドレスをとっかえひっかえ利用しながら、彼女が仕事を進めることでした。
それは例えば、出川が言い訳ばかりでなかなか仕事に手を付けず、たまたま浜口が手が空いているからと客との間に割って入って連絡を取り、調子よく出川の仕事を引き受けるのですが浜口は給付に際して程度の軽いミスをして、出川の補佐役である山田に連絡がいくのですが山田はサボってばかりで連絡を返さない、そして与那がトラブルに対応する、というようなことです。
もちろん、吉木が対外的な心証を気にして戒厳令を敷き、顧客には8人を辞めさせたことを秘密にしていたことも起因していました。しかし、与那は辞めたと秘匿するだけではなく、さも8人がまだ仕事をしているかのようにメールで連絡をやり取りし、仕事を進めていくのです。
ときにはCCやBCCを利用して、さも皆で情報共有しながらおままごとでもするかのように仕事をし続け、さらには欠員によってできた穴を一人で埋めてしまいました。
私には、与那のやっている仕事の意味は分かりませんでしたが、結局は幾つかの仮想の人格を使い相手を誘導し、スケジュール調整を上手くこなしながら仕事をしているのだと言われ、なおかつ実際に上手く回っているのですから文句の付けようがありませんでした。
吉木も、与那を高く評価し、素晴らしい社員を採用したと私を褒めました。
「あんなにできる子だとは思っていなかったわ。去年採用した子だったわよね。」吉木は興奮して言いました。
与那がいないと仕事が回らないという噂が一気に広がりました。彼女も満更ではなくあれこれと人に指示を出し職場を仕切るようになりました。
私は与那に持っていた華奢で可憐な印象が、どうやら間違っていたと考えました。とてもとても能動的に動き回っていくのです。
私はこのまま日々が続けばいいと、そんな風に思うようになりました。それほど、それはかつてないほど、会社が安定していたからでした。
そんなとき、一人の古株だった社員が、年金への不満を口にして辞めていきました。彼は外国籍でシステムのローカライズを担当していたために、翻訳者としての特殊な契約で働いていた者であり、日本の年金制度が二つあることを知らなかったことが揉めた原因ということでした。
個人事業主が加入し補償が不利な国民年金、会社員が加入し補償が幾分も有利な厚生年金があり、自分は国民年金しか入っていない、というのを定年間近に知ったということです。
「いくらカナダ人だって、奥さんが日本人ならそんなこと知っていたでしょう。納得して業務委託契約をしていたんだと思っていたわ。そんなにバカだったなんて知らなかった。」
吉木は言いました。
私も気の毒だとは思いましたが、入社して十年経たない身としては契約当初の事情については何も知らないために、そして国の制度で当たり前に知っているべきことを知らなかったことのために、彼にも非があると考えました。
そして彼の評価を減点しました。減点さえされてしまえば会社にとってはもういらないに等しいものです。いらなくなった彼が帰国すると言っても引き止めなかったのは無理もありません。激昂する彼の背中にクエスチョンを思い浮かべながらお見送りをするほかないのです。
「どうぞお国にお帰り下さい。」
吉木は彼に告げました。彼は素直に頷き仕事を辞め妻と一緒にカナダに渡りました。
「金は人を変えるものね。」
吉木は私に向かって寂しそうに言いました。人間の醜い本心を見てしまったのだという風でした。
「全く。」と私も言いました。
つまり、その頃にあったトラブルと言えばそのくらいで、もっぱら安定期だったと言えるでしょう。
そして与那は、この社員のメールアドレスも使い始め、なにやら英語で外部とメールをやり取りするようになりました。
私には本当に未踏の世界です。私は彼女が英語を扱えることを初めて知りました。誰にもどのくらい扱えるかは分かりませんでしたが仕事に支障は出ていないようでした。
与那が楽しそうなので私はそれでいいような気がしました。そうやって楽しそうにしていてくれれば、あれが幻だったというのも現実味が増してくるようでしたので、どこかで歓迎していたのだと思います。
しかし、私が幻だと思い込もうとしたあの出来事は、決して妄想などではありませんでした。
「そろそろ小倉さんを解雇して貰っていいですか?」
与那がそう私に問い詰め直してきた、いえ初めて明確に問い質して来たのは、年が明けてから直ぐのことでした。
私はそう、白日に晒されてしまえば、全てが正しい方向に行くことを願いました。そしてこの件を吉木に告げることにしました。
「小倉さんを解雇したいのですが。」
私は恐る恐る吉木に言いました。
吉木は何故という顔をし私を詰問しました。その詰問に応える形で私は与那が受けている酷い仕打ちについて吉木に伝えました。
「つまり小倉は変態野郎ってこと?」
吉木の言葉が乱暴で、私は少々面食らいましたが、概ねそういうことらしいですと頷きました。
「もちろん、与那さんの言うことが本当であればの話です。」
「証拠はあるの?」
「ここに保存してあるようです。私も男なので見て欲しくないと直接吉木さんに渡すことを条件に彼女から預かりました。どういうものが保存されているのか確かめて貰えますでしょうか。」
私は与那に吉木に渡すように言われたデータを彼女に渡しました。そして私は一度吉木のデスクを離れどういう結論が出されるか考えながら時間を過ごしました。
暫くすると、吉木に呼び出され、小倉を解雇しなければならない、と言われました。私は自分で提案した身でありながらその結論に驚くことになりました。なぜなら小倉は黒だったということになります。
「あいつ、間違いない変態野郎だよ。」吉木は言いました。しかし翌々思い出してみればその血相は何かに怯えているようでした。
その日の夜、私は与那に呼び出され、小倉の件について吉木の結論を共有しました。私は与那がこれで安心するのだと思っていました。
しかし与那は、もう知っています、とだけ言いました。そして付け加えたのはこんな言葉でした。
「ついでに吉木さんも解雇してしまいましょう。」
私は、与那が何を言っているのか、分かりませんでした。
「吉木さんも解雇ですか?」
「そうです。」
「でも何を言っているのです? そんな権限は私にはありませんし、そんなこと違法でしょう?」
「今まで違法でなかったとでも?」
「いや、でも。」
「私が解雇と言っているのですよ。解雇してくれなければ困ります。」
「困る?」
「そう。貴方が私を雇ったのですから責任を取って貰わないと。一度雇ったら責任があるのですよ。」
「責任ですか?」
「いやなのですか?」
「いえ、少々意味が不鮮明で。」
「彼女を解雇することは簡単です。他の社員を解雇するよりずっと適法ですよ。実際彼女は理由をでっち上げて何人もの人を辞めさせている。それを問題にすればいいのです。」
「それは、そうですが、でも。」
「もう社長とは話が付いています。きっと明日には話が来るでしょう。」
「社長と?」
「ええ。話は付いています。それなら問題ないでしょう?」
「はあ。」
「そうですね。春が良いと思います。二人共春までに辞めて貰いましょう。」
与那はそう告げると、私の前から泡のように消えていきました。いえ、確かに彼女の後姿を見送りはしましたが、まるでそのように見えただけですが、そうです。
次の朝、私は社長に呼び出され、小倉と吉木の解雇について相談を受けました。小倉も吉木も解雇されることに納得しているという話でした。
私は、何かの奇跡が起こったかのように、懸案事項が一気に解消されていったように感じ、心が軽くなりました。
「分かりました。早速解雇の手続きを進めていきます。」
私は吉木の解雇理由には納得でした。私も断片的に知っていた限りですが、吉木は総務課の最年長者として好き勝手やり、会社の金の一部を使い込んでもいたためです。
しかし小倉がなぜその解雇に納得しているのかは考えても考えても分かりませんでした。彼は、解雇に応じはしましたが、なにか特別に退職金が出るなどもなかったため、小倉は本当に与那に対してハラスメントを繰り返していたのかとも考えました。しかし同僚の誰もそんな話をする者はいなかったのです。むしろ誰もが彼を心配していました。
私は小倉が変態野郎というのは嘘じゃないかと思い始めました。与那も、まるで自分はそんなことは言っていない、という趣旨の話をするようになりました。私が何度問い詰めても、自分は関係がない、の一点張りに終始し理由を話すことを拒否するのです。彼女が嘘を吐いているのかもしれませんでしたが、それはもう知りようのないことになっていました。
そして春、小倉と吉木は会社を去りました。同僚たちは小倉のことを残念がり、吉木のことを軽蔑交じりに語って清々したと言いました。
与那は、二人のメールアドレスを譲り受け、また演技をしながら仕事を進めるようになりました。
「貴方と小倉だけいればいいのよ。貴方たちだけはなんでも完璧にやって見せる。人の何倍も働いて見せる。」
与那は笑いながら言いました。そしてまた大量のメールを送信するのです。彼女が吉木の名前で送ったメールには、総務課が企画する毎年恒例の花見の誘いがいつもと同じ形式あり、出欠連絡がしばらく飛び交っていきました。
私の下へは、私が毎年出席したがらないからと、心配する風の小倉からのしつこい誘い風の与那お手製メールまで、受信ボックスに届いていました。
「花見が嫌いなんですか?」
満開の桜の木々の下、与那は妖艶なほどに美しく立っていました。私は振り返ってその姿を見たことを後悔し、目を逸らして本当は見たくもない桜を見上げました。
私が中座した花見の席で、また与那は私を追うように後ろを付いてきました。
夜の不気味さの中で街燈に照らされた桜の花弁の雨が、まるでボロボロと崩れ落ちる命の様で儚く、涙のように冷たく見えました。
微かな光だけが全ての人をシルエットだけに変えていました。そこには孤独があるように私は思いました。そう果てしない孤独があるのです。
「誰も桜など見ていないでしょう。」私は言いました。
「皆、木の根元で、飲んで喰って酔っぱらっているからですね。」
私は、それも無論ありましたが、桜を正視するのが怖いのです。桜を正視することが怖いという感情を知られるのも恐ろしかったのです。
「それとも逃げて来たのですか。」
私は、どういう意味か分かりませんがと、そう言いました。
でも、逃げている、確かに桜から逃げている、そして花見の席から逃げていると言えば、確かにそうでした。
私は何かを考え、結論を出さなければならないような、そんな気になりました。
「至急、もう一人、解雇しないといけない人がいます。」与那が私の思考を遮るように言いました。
私はその言葉が、きちんと聞き取れたのにも拘らず、きちんと趣旨を把握することが出来ませんでした。
「なんですって。」
「ですからもう一人辞めて貰わないといけません。」
「それは、誰のことを言っているのですか? もういいじゃありませんか。」
私は、苛々して、もう冷静さも隠さずに、なぜか与那が自分のことを言っていると思いました。吉木も小倉も解雇されましたからには残るは私しかいない気がしたのです。
もう誰もいなくなったのです。もし私のことでなくてもうんざりでした。これ以上解雇など勘弁して欲しいというのが本心でした。
「いいえ。いけません。もうひとり辞めて貰わないと。」
「何故そうまでして首を切りたがるのですか?」
「その方がいいからです。皆のためになるのです。」
そのとき、突風が吹き、砂塵が目に入りました。桜吹雪が小さな竜巻のように私を覆いました。私は痛みと共にブラックアウトしたかのように視界がなくなり、しかしそれは単に瞼をきつく閉じてしまっただけでした。
「誰もがそれを望んでいる。皆、誰もが、望んでいるのです。」
与那の声だけが響きました。
私は暗闇の中で頭の整理が追い付きませんでした。
数秒して目を開くと、先ほどまで与那が立っていた場所には、一人の老婆がこちらを見据えて立ち竦んでおりました。その老婆は鬼のような形相で、血に塗れていました。
それは吉木、小倉、出川、浜口、山田、そして数々の同僚たちの生首を腰にぶら下げ、楽しそうにそれを撫でながら言うのです。
「首を切って集めないといけないのです。全ては貴方が始めたことです。分かるでしょう?」
老婆の声は桜の木の根が唸っているような音でした。私の内臓をぶるぶると振るわせるような音圧を持ち、それはごろごろと喉を鳴らしていました。
「貴方だけいればいいのよ。」
「貴方だけはなんでも完璧にやって見せる。」
「人の何倍も働いて見せる。」
老婆の腰にぶら下がっていた生首が喋り出しました。それは本当に喋っているようにも思えましたし、あるいは腹話術のようにも思えましたが、もう真実は何も分かりません。それほどの恐怖でした。
桜の木の下で、人気のない公園の端で、老婆はニヤッと笑いながら私の方へ歩みを進めました。私はもう感情を隠すことも出来ずに老婆から逃げるため走り出そうとしましたが、何故だか足が重く根を張ったように動かないのです。
老婆はすぐ目の前まで来ました。老婆は私を殺すのだと確信を持ちました。だからです。
私は気が付くと老婆を突き飛ばし、覆い被さりその首を絞めて力いっぱい振り絞り、思わず殺してしまいました。
老婆が完全に息を引き取った後、その死体を再び眺めるとそれは与那の身体でした。もう遺体となり眼球運動も鼓動もなにもありませんでした。
私は、何故だか涙が溢れてきました。涙などいつ振りに流したのでしょうか。
涙は私の頬を伝い、重力のまま空気中に放り出されると、桜の花弁と一緒に与那の死体の顔に落ちました。
まるで無限のような有限の終わりでした。涙と花弁は留まることがなく、与那の顔に滴り落ち続けました。
私は、与那の顔に触れ、その花弁と涙をぬぐい、そして桜が全てを覆ってしまうことを恐れて、木の根元に蹲り花が散り切るのを、散った花が枯れて崩れ去るのを、ただ待っていました。