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桜、落ちるとき

 私のことを『のの』と修一は呼ぶ。それは結婚してからも変わらなかった。
 ——おいで、のの。
 ——こっちだよ、のの。
 ——ののは何時までも変わらないね。
 私の旧姓が野々村だった頃から、修一の私の呼称は『のの』だった。野々村野乃というふざけた名前だったから『のの』と呼ばれることは自然だった。
 「のの、車に気を付けて。」
 私がぼんやりしていると、修一は背後を確認するように促した。車は私の右横のギリギリを掠めて通り過ぎた。だから少しヒヤッとした。
 員弁川沿いの桜並木を眺めながら歩くと、氏神の社に続く細く長い小道があった。それは人の足に踏まれて慣らされていたが、剪定されていない木の枝が道の上にかかり、まるでその道を知らない人から隠れているようだった。
 私は修一より歩幅が小さく足が遅かったから、いつもその背中を眺めているような気持になった。幾何学模様があしらわれたグレーのセータ―が少しずつ遠くなっていくと思うと、ふと修一は立ち止まり私を振り返った。黒々とした髪が春風に揺れて、眉がゆっくりと弧を描いていった。
 「もう満開だね。この辺りではここにしか桜は咲かないのに散り始めている。明日から雨が降るから今年はもう終わりなのかもしれない。」
 修一はもうその道のことを覚えていないかのように言った。お参りに行くにしても猪名部神社を利用しているし、氏神の社は山の中に建てられていた。その社の傍に咲く枝垂れ桜のことはもう意識の外にあるだろう。
 「あと五十回くらいはののと桜を見たいと思っている。」
 私はそういう脩一の言葉を聞いて、もう十年の月日が流れたのだと実感した。修一の発言の原形が『あと六十回くらい』だったはずのものが、もう十回も予定が減ってしまって、十回の経験の積み重ねがあった。そのたった十回の経験のあいだに二人は結婚をし、一緒に暮らし始めて、十歳も年を取った。
 私も変わった。私の身体は形をそのままに、なにかが変化して戻って来なかった。そして身体の在り様が変わってしまえば、心の在り様も変わったみたいに感じていた。つまりは歳を取ったのだ。
 それは何かを忘れるには十分な時間なのかもしれない。でもそれより残酷なことは、出来れば修一が全てを忘れてくれていればいいと、私が思っていたことだった。全てを忘れて修一が私のこと以外に、なにも思い出せなくなればそれでよかった。
 修一はその細身の身体で素早くターンをし、また私から遠ざかるように歩き始めた。
 そう、忘れられないのは、私だけでいいのだ。
 私は、桜の紅葉も好き、と言おうと口を開いたが、その背中に掛ける筈の声は出なかった。
 それを言うことは許されないような気がしていた。

 

 

 「あの枝垂れ桜の木の下に化け猫がでるらしい。」
 そんな噂を最初に聞き付けたのは桜だった。
 「化け猫?」
 私はそう言った。でも桜は修一のことばかり見ていた。仕方なく修一が口を開いた。
 「化け猫って、猫の妖怪とか幽霊のこと?」
 「うん。そう!」
 桜は修一の反応を見て、黄色い声を上げていた。
 「どうやらその猫は見た人が最も恐れているものに化けるらしいんだ。」
 桜は春のように明るい髪色をしていた。私や修一が持つ黒髪とは違って、地毛が明るい茶色だという。そして肌が白く身体の線全てが細長く、目も灰色と緑色混じり、宝石のようだった。
 それは中学生としても普遍的な容姿ではなかった。全てがまだ純粋でちょっとした皺や傷さえもないもので、修一はそれをまるで貴重品みたいに扱っていた。だからこのときの私は修一の横顔ばかりを見ていたように記憶している。
 「面白そうじゃない?」
 桜は同意を求め、修一にその化け猫を見たいと言っていた。だからそのために山を登りたがっていた。でも一人では怖いのだそうだ。
 「化け猫なんて本当にいるのかな?」
 「それを確かめに行くんじゃない。」
 「うん。まあ、いいけれど。」修一は本当は嫌そうなのに、そんなことを言っていた。
 「そんなのただの噂でしょう?」私は言った。
 放課後に山に登れば日が暮れてしまうから、私にはとても億劫な話だった。
 「じゃあ、ののは来なくていいよ。修一、見に行こうよ。」桜は冷たく言った。
 「え、でもののが行かないなら、意味ないんじゃない? 三人で遊ぼうっていう話だったじゃない。」
 「でもノリが悪いじゃん。」
 私は桜から浴びせられる視線に嫌気が差していた。もうどうでもいいから二人で何処かに行ってしまえ。そう思って俯くと、修一は修一で、ののも行こうよ、ののがいないとつまらないよ、と言った。
 いつもそういう感じだった。修一は優柔不断で、全部が私のせいか私のためみたいに語るのだった。私はそれが嬉しくもあり、けれども本音はとても嫌だという、相反する感情の中にいた。
 もう少しはっきりしてくれれば迷わなくてすんだのに、私たちはまだ思春期らしくすることしかできなかった。
 私は脩一に対する自分の気持ちを打ち明けることが出来ないまま、彼からの言葉を待ち続けているだけだった。
 「ねえ行こうよ。」
 桜はもう一度言った。

 

 

 あんまり桜と修一がしつこいから、私は枝垂れ桜の木本に出るという化け猫を探しについて行くことになった。
 「のの、お願いだからついて来て。」
 私が断ろうとすると、桜は修一といたいがために私にそう耳打ちして、ずっと幼馴染みとして育ってきた桜のことを、見捨てられなかった。
 私の気持ちを知っているはずの桜のことは、応援までは出来なくても、認めることは出来るつもりだった。
 「ののは大人だね。」と桜は私の返事を聞いて言った。それは頷いたばかりの私を後悔を感じさせるのには十分な言葉だった。
 私たちは授業が終わると同時に北勢中学校から員弁川まで下り、川沿いの道から氏神神社へ続く道を探して、道を自転車で走っていった。
 木の枝で覆われた神社に続く小道を見付けると三人は少し躊躇しながら、その奥へ入って行った。
 藤原岳の中腹にある氏神神社は長い階段を上った先にあった。その階段は自然歩道というウォーキングコースと並走しながら、藤原岳の登山道に続いていた。
 落椿が丸太と大石でできた階段の上に無数に転がっていた。それを桜は落ちた首のようで不気味だと言いながら、修一の服の袖を掴んで話そうとしなかった。
 「危ないよ。」
 私は、余り力強く桜が修一を掴むので、段差の大きな階段でふざけてなんか欲しくなかった。
 でも桜は聞く耳を持たなかった。

 氏神神社への分岐まで付く頃、しとしとと雨が降り始めた。
 桜がまた怖がって、私は桜に帰りたいなら引き返すよと言うと、大きく首を振られていた。
 「ううん。行く。」
 枝垂れ桜は見事なまでの満開だった。社はむしろきれいに整備されていて、幽霊が出るような雰囲気でさえなかった。
 「どうする? 一通り探してみる?」
 修一は二人に提案した。みんなで頷きあうと社を一周して回った。
 化け猫はいなかった。
 やはり噂はただの噂だった。
 修一は濡れた身体で残念がっている桜を慰めた。
 「でも楽しかったよ。」
 そう修一に言われた桜は笑い、ちょっとだけ調子に乗って、今度は武平峠のトンネルに出る怨霊の話をし始めていた。
 私は桜の話を聞いて笑った。
 「今度は怨霊なの?」
 「いいじゃん。今度休みの日に三人で行こうよ。」
 桜が言うので、私はしょうがないなと思い、修一もそんなに悪い気はしていないみたいだった。
 でも私はそれをすぐ撤回したくなった。だけれど撤回するまでもなくその話が現実になることもなかった。

 雷が落ちたのは下山のときだった。
 桜が修一に甘えだして、最後尾にいた私はそれを見てまた少し嫌な気持ちになっていたところに、轟音は響いた。
 桜は慌てて身を屈め、修一は桜が足を滑らすのを見て手を伸ばし、私は何が起こったのか暗くなり始めていたために分からなかった。
 私は突然、足を止めて、二人の声が遠ざかって行くのを茫然と眺めていた。
 「雷怖いんだ。」
 「怖くないよ。」
 「うそ。今怖がっていたよ。」
 「怖くないもん。」
 二人は喋るのに夢中になりながら、下山を続けていた。暗闇だけが私の視界に入り、二人の影を吸い込んでいった。
 私は一瞬の内に逸れていた。逸れてしまえば方角さえにも自信が湧かなくなり、どちらに行けば登ることになり、どちらに行けば下れるのか、それさえ分からなかった。
 だから私は立ち竦んでいた。暗闇の中でただ二人の影を見付けようと目を凝らして見回った。微かにそこに居るらしき影があったので後を追った。それが何の影であるかなんて考えなかった。
 そのとき私の目を奪ったのは鬼火だった。ふわふわと眼前を横切り山の中へと火が逃げていった。それを目で追うとまるで幻だったように火は消えた。
 私の目は、一度灯りを見たせいで、暗さに対応できなくなっていた。そうなれば微かに見えていた影を見失うのは訳もないことだった。
 二人は私の目の前から完全に消えていた。いや、二人が私の前から消えたのではなく、私が二人の前から消えたようだった、と言った方が正しいかもしれない。二人の声はまだ聞こえていたが、何を言っているかまでは聞き取れなかった。でも私の話をしていないことだけは確かだった。
 桜と修一が自分たちの世界に入り込んでしまったように見えて、私はとても孤独だった。そのせいで、身体が拒否するみたいに歩みが止まり、完全に道が分からなくなっていた。
 そのときまた微かに光が見えた。それは鬼火よりもっと人工的な光に見えた。例えば車のヘッドライトの光のようだった。二人が携帯電話でも取り出して照らしているのかと思った。
 私はその光を追うようにまた歩き出して、修一と桜の名前を呼んだ。
 そのとき私は迷ってしまったのだろう。修一も桜も私が道を外れていくのに気が付く訳がなかった。
 私が光を追うと、そこにあったのは神社の社にあったのとは違う枝垂れ桜だった。それは発光しているみたいに妙に明るく花を咲かせていた。
 ゆっくりと近付くと、木の幹で化け猫が寝ているのが見えた。巨大な猫で、白い毛並みを持った、球のような猫だった。その猫は少しだけ空中に浮き。眠そうに眼を開いたり閉じたりしながら、私の様子を伺っていた。
 私は何故だか怖くなかった。化け猫の目が琥珀のように美しく見惚れてしまった。足を一歩進めると、化け猫は目を覚ますかのように地上に降り立って、毛を逆立てた。私はそれでも止まらなかった。だから猫は私を威嚇した。
 再び現れた鬼火のような光が猫の背後でゆらゆら揺れていた。
 「本当に化け猫なんだ。」私は思った。
 それでも怖くはならなかった。なにひとつも怖いことなどなかった。
 だから次の瞬間に化け猫は私に向かって飛び掛かり、その牙が私の身体を突き刺そうとするのを黙って見ていた。

 私は気が付くと山の中腹で一人いた。遠くから桜と修一の声が聞こえて、二人ははぐれた私を探しているようだった。
 私は声を出した。修一と桜の名前を読んだ。
 「のの、ごめん! 足を滑らした! そっちに戻れない!」修一はそんなことを叫んでいた。
 「大丈夫? 怪我していない?」私は言った。
 「大丈夫! 桜も無事! ののは?」
 「私は大丈夫!」
 「よかった。俺たちはここから下っていく。ののはそのまま道を下って行って。多分舌で合流できる。」
 「分かった!」
 私は何が起こったのかが分からなかった。でもそのときなにかが起こったことだけははっきりと理解していた。
 私たち三人は山の麓で合流できた。合流した後は少しだけ言葉を交わし、疲れ切っていたためにそのまま解散となった。私は化け猫の話を誰にもしなかった。誰かに話してはいけないような気がした。
 でも私は分かっていた。私は何かを奪われていた。それが何なのかは分からないが、身体の中から何かがなくなっていた。
 それは化け猫に食われてしまった。

 

 

 それからしばらくして、桜と修一は付き合い始めた。ある日、修一がそのことを私に報告して、これからは余り会えなくなる、と告げられた。
 私は三人の輪の中から外れて、一人でいることが多くなり、たまに人に会うとしてもその二人ではなくなった。
 私たちはそのまま中学を卒業し、そのまま物別れになった。
 私が修一に再会したのは同窓会だった。その頃には桜と別れ修一は独りになっていた。
 私は嘗て言えなかった想いを初めて口にした。どれだけ私が修一を想って来たのかを告げた。修一は本心では私を想っていたとそんなことを言った。
そして私と修一は付き合うことになった。その関係は社会に出た後も続き、今こうして結婚までしている。
 桜の影を見るようになったのは修一と私との間に結婚の話が出始めた頃からだった。桜を見る度に私は桜を思い出し、その影を見るようになって言った。
 修一も桜とは中学卒業からしばらくして別れたことを境に会わなくなっていて、今何処で何をしているのかは分からなくなっているとのことだった。
桜は何処かでは生きているはずだった。誰からも噂を聞かなかったし、連絡先が使えなくなっても、生きているはずだと考えていた。それにSNSだけは更新され続けていた。
 私は自分が見る影を生霊だと思った。桜が私をどこか知らない場所で呪っているのだ。
 私と修一は桜の話をなぜだか禁句のように扱っていた。禁句にすることが自然だという思いが無意識にあった。
 「ののは昔の彼女のことなんて気にしないよね。」
 修一がずるいのはそんな一言に要約できてしまうことだった。
 「私も修一の過去のことは知りたくない。というかもう十分過ぎるほど知っていると思う。」
 私はそう答えるしかなかった。
 私は脩一のことを知り尽くしている。これでも幼い頃から一緒にいて、会わなかった空白の期間は数年あるけれど、それ以外は何時も一緒だった。
 ただ修一が私を呼ぶ『のの』という呼称が野々村という苗字から来ているのか、野乃という私の下の名前から来ているのかは、今まで一度も聞いたことがなかった。
 そしてなぜ桜と別れることになったのか、何一つも知らないままだった。それらのことを私が修一に訊いたら、全てが露にされて崩壊してしまう気がしていた。
 修一にとって私が何であるのか、知らないままだった。
 「大丈夫。俺ははしたない女は嫌いだからね。ののみたいな女性が一番だと思っている。」
 いつか修一が口にしたそんな言葉が、ただ耳障りなほど脳裏に残り続けていた。
 修一は桜の写真を撮っていた。それをSNSにアップロードするのだろう。
 桜は圧巻なほど美しかった。
 寒くなって来たしそろそろ帰ろう、と修一が言い出すまで、私はその桜を見上げていた。その木の下にいる別の桜の存在に、気が付かない振りをしていた。

 

 

 私は秘密を持っていた。脩一のプロポーズを受けたとき、一度だけあの枝垂れ桜を探しに山に入ったことがあった。
 私は結婚をする前に化け猫に奪われたものを返して貰わなければならなかった。化け猫が奪っていったものは私にとってとても大切なものだったからだ。
 神社に続く階段は大人になった身体にとって、想像していた以上に軽いものだった。そして道の途中で見付けたあの枝垂れ桜も、すぐに見つけることが出来た。
 でもそこには桜の木の下に住む化け猫はいなかった。代わりに私が見つけたのは桜の形をした生霊だった。それは何時も見る生霊と同じものだった。同じ服を着て同じ髪形で同じように私を見詰めていた。それはまだ中学生のときの桜のままだった。細く美しい身体を制服に身を包み、陰鬱な森の中に立っていた。
 私は桜の木の前で立ち竦んだ。桜は私を見詰めたまま蔑むみたいに微笑んでいた。
 「桜、ごめん。」
 私は桜に言った。
 「私は修一を桜から奪った。」
 桜の目は私を咎めているみたいに見えた。そして彼女の右手の人差し指が桜の木の根元を指さした。ただ黙って指を差し続けるのだ。
 私は突然怖くなり、後ずさりしてその場所を離れた。
 桜は花弁を風に乗せて飛ばして、私を引き止めるみたいに私を追い越して行った。
 その桜の木の下に、何があるのか。桜は何を指さしたのか。
 私はそれを知りたくはなかった。

 

 

 いつものようにコーヒーを入れると、いつよのように修一が重たく瞬きをして、いつものように深く呼吸をしてからお礼を言い、いつものように一口だけ啜って、あとは飲まないまま捨てられた。
 私は修一が写真を加工している間に家事を片付けていった。
 家事が終わった後は歯医者を予約して、修一の両親から電話が掛かって来て、回覧板を回して、それからようやく一休みできる。
 「回覧板はあとで俺がお隣さんへ渡しに行くよ。」
 修一は背後に目でもついているかのように喋った。
 桜のSNSが更新された。桜のつぼみの写真が表示されていた。
 その桜は何処かで見覚えがあるような、それとも知らない街の桜かなのか、懐かしいような真新しいようなそんな写真だった。桜が何処にいるかは写真だけでは判別がつきそうもなかった。
 私が携帯電話をタップしてハートを付けると、修一は自分の携帯電話を拾い上げて通知を確認しながら、書斎に引っ込んでいった。
 「会社からだ。」修一は言った。
 修一が嘘を吐いているということは分かっていた。
 そして、私が全てを確信したのは、そのときだった。
 ——桜はもう終わる。
 私は桜の写真に添えられた言葉をただ黙って眺めていた。


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