働き蜂
赤い光が点滅し、肇は瞬きと同時に目を覚ました。それが車のテイルランプなのか、頭上にある信号機の光なのか、バス停の掲示板の灯りなのか、その一瞬では分からなかった。
逆算して初めて、自分が二時間近くそこに立っているたことに気が付いた。深夜のバス停で来ることのない路線バスを待つように、ただ直立したまま意識を失っていた。
夜中でも激しかった筈の車の通行は既に疎らになっている。シグナルの色が変わり動き出した三台の車の内、一人の運転手が肇のことを訝しがって見た。その目の血走り方からしてきっと飛び込んできて自殺でもされたらたまらないと考えているのだろう。
栄で最も意味不明なオブジェ的建造物であるオアシス21が、全てがガラス張りというその透明な身体を妖艶に色を変えながら光らせていた。黄色、緑色、青色、紫色、オレンジ色とまるで都会に突如として現れた不気味なオーロラのようだった。肇も何度かその建造物の屋上に行ったことがあったが、そこには大きな人口溜池と噴水があった。わざわざ屋上にそんなものを作るのだから排水も不便だろうし金が掛かっているが、見どころが分かり難いアート建造物は、肇にはとても馴染めそうもないものだった。
隣接した芸術文化センターの敷地内にある公園のベンチで一組の男女が話しているのが見えた。毎日のように路上ライブを行っているドラマーは、つい先ほど見たような記憶があったのに、既にどこかに消えていた。
肇は自分を笑うように口元を緩めた。自分が何を考えているのか、もはや何も分からなかった。今肇が置かれている状況は、死ぬほど忙しいという一言で収まるくらいに非常に鮮明で簡潔なのに、不鮮明であるようだった。まるで自分がメタ表現や抽象表現に陥っているようだと肇は思った。死ぬほど忙しいという言葉に偽りはない。ただそれが冗談ではないことが冗談みたいだった。
バス停のある歩道とは反対車線を走っていたトヨタの乗用車が、夢から起こすようにヘッドライトを強く照らして、肇は目を激しく瞑り光に目を焼かれるのを避けながら、陸玖に連絡を入れなければならないと、それだけ考え出した。
「I missed the last bus. I can’t go home today.」
漢字が分からないといけないと思い、肇はメッセージを英語で書いた。そして文末に「きょうはかえれない」とひらがなを添えた。ラインのアプリはバグの多いメッセージアプリらしく、通知を消しても消しても緑のアイコンに赤い丸を表示させ未確認の通知を強調して、肇はそれを端末ごと全て消し去りたいとイラついた。
陸玖がこのメッセージを読むのは夜が明けてからかもしれない。画面端に表示されている時計を見ると深夜三時だった。明日の出社は朝の六時に同僚と合流し、八時までに二人で全ての事務処理を終わらせ、三十分で出来上がった資料を出力して纏め、九時までに中村区にある会社に届けなければならない。そしてプレゼンを行い、それが終わったら新しいビルの施工現場へいき、それが終わったら今施行中の住宅の現場に行き工程管理表を埋め、一度帰社して資材の発注を行いつつ新規設計デザインの確認とコストについて会議を行い、資料の整理と幾つかの書類を作成し、そんなことをしているとまた上司の櫓に次の仕事を回されるのだろう。
気の遠くなる作業だった。考えるだけでまた意識を失いそうだった。そして肇はもはやいつ倒れてもおかしくないくらいの状況だった。
「せめて倒れるのなら倒れていい場所で倒れるべきだ。」
肇は考える必要もなく近くのネットカフェへ向かって歩いた。そこでなら快活に倒れられ、快活に死ねた。
バス停から徒歩で5分ほどの場所に複数のネットカフェがあった。噴水広場を横切って道を下ると広小路通りで左に曲がり、ただ直進するだけだ。肇がいつも利用している場所その大通り沿いにあった。
カラオケや居酒屋のネオンだけが目立って、オフィスビルは寝静まったように半消灯状態だった。しかし幾つかのビルにまだ人がいるような気配があり、おそらくはまだ働き続けているのだろうと分かった。
肇は入店する前に財布の中身を確認した。財布が薄く残金は3千円、何処を探しても割引券もなにもなかった。受付でポイントカードを取り出すと3時間コースでブースを一つ借りた。ソファチェアと旧型のPCが一つあるだけの最も安い部屋だった。
ブースに入り、荷物を置いて、投げ出すようにチェアに身を投げると、肇は暫く放心して酷く喉が渇いていても飲み物を取りに行く気力さえ湧かなかった。
隣のブースから何かが擦れるような音が聞こえていて、その音の主である人がしているらしいヘッドフォンから出ている誰かの声が漏れ聞こえていた。何処かからか汗が発酵したような酸っぱい匂いがして、たまにいるホームレスが今日もいるのかと肇は思った。防音室が開いたのか男女のカップルの声が何やら楽し気に笑いながらブースの前の通路を通り過ぎて行った。大学の講義がどうのこうのと言っていたので大学生かもしれなかった。
そこは不健全の塊のような場所だった。いやに明るく小綺麗で狭苦しく安価で、無数のブースが所狭しと敷き詰められ、都会にあるのに貧乏人しか集まらない、不自然な場所だった。家のない人と夜中に徘徊する若者と肇のような疲れ果てた社会人の溜まり場にでしかない。まるで蜂の巣の中にいるようだった。ここで生まれここで死ぬのだと言われても、肇はなにも疑うことなくそういうこともあるかもしれないと、きっと思うのだろう。
肇は陸玖に送ったメッセージが”未読”であることを確認すると、携帯電話を鞄にしまおうとした。するとその”未読”は”既読”となる瞬間を捉えた。だから祈るように目を瞑った。
陸玖はきっと返信をしないだろう。肇は陸玖がそういう性格の弟であることを知っていた。まだ肇に気を遣っているのだ。
朝、そのまま起きられなければよかった。ずっと眠り続けて仕事なんてすっぽかして全てを終わらせてしまえばよかった。
でも肇は、朝が来る度、そんな風に思ったことを全部忘れて、仕事に行ってしまう。
それは全て陸玖のためだった。でも肇はもう二週間以上、陸玖の顔を見ていなかった。弟は一人でどうしているのだろう。ちゃんと生き残っていてくれるのだろうか。肇にはいつもそんなことが心配だった。
肇が陸玖の存在を知ったのは、肇が十歳になろうとしているときのことだった。それは肇の母親が前夫との間の子である肇を祖父の家に残し、新しい夫としてカナダ人と結婚してトロントでの生活を始めてから二年目のことで、実は弟が生まれたのだと祖父を伝って聞いただけの話だった。
だから当時の肇にとっては弟が出来た実感などなにもなかった。それどころか母親の顔も実際にはよく覚えてはいなかったので仕方がない。カナダ人の新しい親戚のことも何も知らなかった。肇にとっては父方の祖父が育ての親で、父はその当時既に五年も中国に単身赴任をしていて、母は一度目の離婚をした後、ほとんど肇の前に姿を見せなかった。
それから何年もの間、肇は陸玖の存在を忘れていた。ただ陸玖が十歳になる前に一度だけ会う機会があったくらいだ。それは一日だけ一緒に遊びお互いを紹介し合ったというものだ。つまりはただの顔合わせだった。
そんな肇と陸玖が兄弟二人で暮らし始めたのは、一年程前のことだった。肇は祖父と暮らし続け、高校生のとき祖父が亡くなってからは小さな部屋を借りて一人で暮らしていたし、陸玖は両親と一緒にトロントで暮らしていた。
そこには何の接点もなかった。そんな陸玖を迎え入れることになったのは、簡単に言えば弟が放棄されたからだった。陸玖は母が二度目の離婚をした後から日本で暮らし始め、中学に行くはずの年齢だったが上手くなじめず、高校受験もせず働くこともせず母と暮らしていたのだが、母が陸玖の父と離婚の手続きを終え新しい男と暮らすことになって、肇に押し付けるように彼を家から追い出したのだった。
ある日、突然肇の家の扉を叩き、母さんがここに暮らせって、と陸玖は語った。そう語ったと同時に母から写真付きでメールが届いて、見てみると目の前にいる少年と同じ顔が画面に映し出されて、これは君の弟今の姿だからあとはよろしく、という一文だけが添えられていた。
肇は状況が良く分からなかったが、陸玖を迎え入れない訳には行かなかった。陸玖はまだ子供だったし、肇にとって陸玖は、血は半分しか繋がっていなくても、唯一無二の弟だった。それにあのちょっと話を聞くだけで無茶苦茶な母親に振り回されていると分かり切っていたために同情もしたのだ。
「とりあえず入れよ。」
肇がそう言うと、陸玖は眉を顰めて申し訳なさそうに頷いた。肇は陸玖がそういう大人しい少年なのかと思ったが、イントネーションが少し不自然だったので、日本語に慣れていないのかもしれないとも思った。
そのとき肇が聞いたのは肇のことを覚えているかとか移動手段だとか食事はとったのかだとか他愛もない話だった。具体的になにがあったのかは訊くこともなかった。
「母さん、また結婚、するんだって。」
陸玖の説明はそれで十分だった。
「いつまでも好きなだけ此処にいろよ。」
肇はそれだけ言って説明を求める気にもならなかった。
そのとき肇は二十四歳で、陸玖は十五歳になろうとしていた。その日はとりあえずソファに陸玖を寝かせて、あの人に連絡をするのは後にしようと考えていた。
陸玖は小さな部屋の小さなソファで蹲るように眠りについた。そしてその日から陸玖の寝床はその部屋のその場所になった。そのパッチワークのような柄のソファは肇の大学時代の同級生が要らないから捨てるというので貰ったものだった。肇は詳しく知らなかったが有名なメーカーが作ったものらしく、とても丈夫で安定していて長く使えるものだった。陸玖はそのソファを気に入ったのかそこ以外で寝ようとはしなくなった。ベッドを買っても、引っ越しをしても、それは変わらなかった。
肇と陸玖はよく似ていた。二人共が母親似なのか、お互いの父親の面影をほとんど持たず、そうなればそっくりと言わざるを得なかった。はっきりとした二重瞼も、太く真っ直ぐな眉毛も、堀の深い鼻筋も、痩せ型で手足の長いの体格も、まるで二人は成長する途中と成長し切った後みたいな感じで、如何にも兄弟といったところだった。ただ、陸玖の方が髪の毛が細く、少しだけ茶色がかっていて、肇の髪は一色の黒だった。それはカナダ人の血がそうさせているのかもしれない。そして日本人の血がそうさせているのかもしれない。
そして性格は殆ど真逆で、陸玖は肇と違い繊細だった。きっとそれは肇の父は肇が物心がつく前に母と既に離婚していて、肇が無神経でいられるほど何も覚えていなかったのに対して、陸玖は母が二番目の夫であり肇の育ての親でもある二番目の夫との間にできた子で、陸玖の話を聞く限り学校に通い始める頃には既に夫婦の関係はぎくしゃくしていて、別れるまでの長い間いつも家庭内で気を遣い続けていたせいかもしれなかった。
肇は繊細な陸玖が好きだった。この一年間、兄弟だけでの暮らしは、肇にとって悪くないものだった。陸玖がどう思っているかは訊かなかったが、弟は自分に出来ることを全てやろうとして、実際に肇は家事もままならないほど滅茶苦茶な働かせられ方をしていたから、もはやいないと成り立たないくらいになっていた。
でも、もちろん、このままではいけないことは肇にも、そしてそれ以上に陸玖にも分かっていることで、だけれど陸玖は高校に行くことも働くことも、また肇はもっとまともな仕事を得ることも、まだ考えられなかった。
「兄ちゃん、俺お荷物だよね。」と陸玖は言った。
「そんなことはないさ。」
「俺は生きて来て本当に良かったのかな。」
「何言っているんだ。俺たちはこれからだよ。これからまともになるんだ。」
二人は今だけで精いっぱいだった。ただそれだけのことだった。
肇は朝の五時に目が覚めた。トイレに行きたくてしょうがなかった。
ネットカフェのブースの中で酷い姿勢で寝ていたせいで身体中が痛んだ。のろのろと立ち上がりトイレに向かうと酷い頭痛までして暫く便座の上に座って休んだ。
肇の携帯電話が何度もアラームを鳴らすので見てみると、上司の櫓が何度も何度も肇に電話をして幾つもメッセージを送っていた。櫓は仕事の進捗がどうなっているのか報告がないが大丈夫なのかと留守電で繰り返し、メッセージアプリには直ぐに電話しろという言葉に溢れていた。
「納期が今日なんだから今日連絡しても遅せぇだろ。」
肇は悪態を吐いた。しかし直ぐに電話をし、ちゃんと納期に間に合わせます、と従った。そのあと同僚と事務所で合流し、予定通りに作業を終わらせると顧客の下へ急いだ。
顧客はそれを礼も言わずに受け取り、そう言えばと請求書の件でクレームを披露した。肇は請求書を作ってはいないが、たいぶ多く金額を請求していたらしく、何度も何度も謝ることになった。
その間違いだらけの請求書を受け取ると、確かに桁は間違っているは商品名は間違っているわで酷いものだった。おそらく事務員ももう意識も朦朧としている中で作ったのだろう。
「私が振り込む直前に気が付いたからいいものを、本当だったら大変なことになっていたんだぞ。分かっているのか?」
その客はもっともなことを言い、最後に肇はもう一度だけ深く頭を下げて謝った。
それから一度帰社し、その請求書の件で営業事務と相談し、今度正式に謝罪しに行くということになった。その事務員の子はまだ入社したばかりの新卒の女性で、肇に一緒に来て欲しいと何度も繰り返していた。肇は忙しさのあまり眩暈がしそうだった。そしたら櫓がひょっこり現れて、その新卒の子の顔を覗き込み、身体を眺めて厭らしく笑うと、肇に一緒に行くようにと粋がっていた。
「おい、お前あの子と仲良くなって連絡先を聞いておけよ。」
櫓は肇に耳打ちしていた。気味が悪いと肇は思ったが、直ぐに自分の乏しい預金額が頭に浮かんだ。もし仕事を辞めることになったら、肇と陸玖は餓死することになるかもしれなかった。どうにか純情振って誤魔化すしかなかった。
無駄な仕事の連続で構成された激務は永遠に続いていった。肇がきちんと家に帰ることが出来たのは土曜日になってからだった。
二週間以上ぶりに帰ると陸玖はお気に入りのソファに座って肇を待っていた。部屋は綺麗に片付き塵一つないほどに掃除がされていた。
肇は頭の中がオーバーワークで完全にこんがらがって、なにも言葉が出て来なかった。
「お帰り。」
陸玖は肇にそう言って、なにかもじもじしていたが、肇がそれに気づくことはなかった。
「ただいま。」辛うじて言った。
「ご飯作ったよ?」
肇は陸玖を黙って見詰めた。何かを言おうとしたが何を言おうとしたのか忘れていた。
「どうしたの?」陸玖は言った。
「いや、忘れた。」
「え?」
「何を言おうとしたのか忘れた。」
「なにそれ。」
陸玖は肇の顔を覗き込んだ。肇もたまたま食器棚のガラスに映った自分の顔を見た。それは酷くやつれ今にも死にそうだった。
「ごめん。疲れているみたいだ。」
「うん。」
肇は、とにかく先に休むよ、といって自分の部屋に入った。肇は何かを言いたげだったが、今ではないと諦めたようだった。
肇はベッドに寝転ぶと死んだように眠った。明日は日曜日だったが朝9時に現場に顔を出さなければならなかった。夜中の十二時に帰ることが出来たのだ、せめて6時間か7時間は眠りたかった。それくらいなら寝る時間はあった。しかし見たのは酷く暴力的な悪夢だった。夢の中で、肇の目の前で陸玖が同級生たちにリンチされ殺されてしまうのだ。そしてうなされた。
陸玖が上手く社会に馴染めなくなった直接の原因はいじめだった。日本に来て中学行ってみたが同級生から暴力や恐喝などをされ不登校になり、そこから復学出来ないまま中学を卒業したのだった。だから肇にとってその分リアルな夢だった。
それが夢だと分かると、肇はほっとして現実に戻ることが出来た。
朝起きてスーツに着替えると、食事をとっている時間はなかった。出掛けようとして玄関に向かうと陸玖が目を覚まし肇のことを心配していた。
「最近、忙しすぎる。」
陸玖は言うが、肇はちょっとしたら落ち着くからと出て行こうとした。
そしたら陸玖は肇のことを引き止めようとした。
「たぶんこれ以上は無理だと思う。」
「いや、大丈夫だって。ずっともう何年もこんな感じで働いているから。」
「でもダメだ。」
「大丈夫大丈夫。それにお金稼がないと。」
「無理だって。」
「そんなに心配すんなって。」
肇はそう言って現場に向かった。移動中、肇は陸玖が心配し過ぎだと思っていた。
でも陸玖の心配症は仕方のないことなのかもしれなかった。それまでに歩んできた人生を考えれば悪い方に物事を予測しがちになるのだろう。
陸玖に対するいじめの原因は学習障害だった。陸玖には言語に馴染みがないのと同時に学習障害があり、クラスの授業から大きく遅れてしまっていた。それを揶揄う同級生がいて、陸玖は日本語でそれに反論できず、気が付くと皆が陸玖を笑うようになって、エスカレートしていったらしい。
その日の仕事は現場に行くだけだった。夕方には帰ることが出来るだろうと思っていたら、ちょうど帰宅しようとしていたときに櫓から電話が掛かって来て、肇の監督している現場で事故があったということだった。
肇はそれを聞いて急いで駆けつけ、怪我人はいないことを確認したが、幾つかの資材がダメになり発注のし直しになるということだった。それにコストが増えるため、上司に連絡をすると電話越しに怒号が飛び、謝りに来いと言われた。
その日も肇は家に帰ることが出来なかった。肇は陸玖のノートを誤って自分の鞄に入れてしまっていたことに気が付いた。そのノートの表紙を眺めながら陸玖のことを心配することしか出来なかった。ラインでメッセージを送るとやはり返信はなかった。ノートは次に返った日に渡すとだけ追伸し、深夜のオフィスで溜息を吐き、仕事をしなければならなかった。
肇は陸玖と死について話したことがあった。死を無と捉えるか、死後の世界を信じているか。
ノートにはそのときの会話の切れ端が走り書きされていて、たった一言結ばれた言葉が、雪みたい、というものだった。
肇にはその言葉の意味が分からなかった。それは雪のようだという意味なのか、雪を見たいという意味なのか。
そう言えばと、肇は思い出した。陸玖がトロントに住んでいた頃にケベックに行って雪の降り積もる町を見たのだという。それは陸玖が見た最も綺麗な景色だったそうだ。
いつか仕事が一区切りついたら、陸玖を連れて何処か雪を見られる場所へ行ってみたかった。
それから肇の怒涛のような連勤が続く。仕事仕事仕事に次ぐ仕事の連続で、朝早くから深夜まで仕事をし続けなければならなかった。もはやネットカフェさえ行く時間がなく、会社のデスクで仮眠を取りながら仕事をし、それは気が付くと二十連勤になっていた。そんな連休の旬版には給料日があり、百時間を超える筈の残業はたったの五時間に改ざんされて、給料をもらっても手取り十七万、そこからはもう記憶も朧だった。肇は朦朧とした意識の中なにも考えられなくなっていた。
肇はその間に何度か死にかけた。工事現場で転落しかけ、通勤途中に車に轢かれ掛け、二度ほど酷い吐き気や熱に犯された。でも何とか乗り切った。
「人間は意外と丈夫だ。」
肇はそんなことを考えていた。でもそれがたまたまであることに気が付くのにそう時間は掛からなかった。
陸玖が事故死したのはその連勤が終わったときだった。陸玖は近所の交差点で自動車事故に巻き込まれたということだった。事故の原因は分からないが陸玖は即死した。
肇は陸玖のいない部屋で、夕方前に帰ることの出来た元の生活の入り口で、茫然としながらその知らせを受けた。
それは自殺なのかもしれなかった。あるいはただの事故なのかもしれなかった。二十一日ぶりに見る陸玖の顔は死に顔だった。病院でその顔を確認して幾つかの書類にサインをした。
肇は父を頼った。弟が死ぬなんて思ってもみなかった。どうしていいか分からなかった。父は事情を聴くと急いで帰国する待っていろと言った。
母にも連絡を取ろうとしたが、母は電話に出なかった。折り返しの電話が来たかと思えば、それは肇の上司の櫓だった。櫓は仕事のことを連絡してきて、またなにかに対して激怒していた。それを聞いて肇は自分が謝罪に付き添うことになっていたのをすっぽかしていることに気が付いた。
肇は何も感情が起こらなかった。ただ黙って電話越しに聞こえる叫び声を聞き流していた。
肇はまた立ち止まった。立ったまま意識を失ったように立ち止まって、あの日深夜のバス停で立ち止まったままいればよかったと、そんなことを考えていた。