私の端折りがちな創作について
note、ステキブンゲイでの小説の創作について、私は基本的には行き当たりばったりで書いている。
普通だったら、プロットとかキャラクターの設定を詰めてから書くのだけれど、いきなり書き始めどんな風になるのかを試すことが、これらの媒体でやりたいことであるからだ。
そんな私は、小説を書く上で、大きな問題を抱えている。
それは、とても簡単に言ってしまえば、書きたいことが理解され難いことばかりであることだ。
同時に、私の文章は、内容が複雑化していき、分かり難さが極まっていくことが多い。
それは平素においてもそう。
ちょっとした文章を書いたとき、
「どこの文豪だよ」
などと言われたこともある。
自分では、自分の文章がそういう気取ったものだとは思わない。
本当に奇をてらった文章や、本当に知的な文章からすれば、私の文章はまだまだシンプルだとさえ思っているし、シンプルを心掛けてさえいるつもりだ。
だが、私は他人ではないので、分からないと言われれば分からないのだろうと思うしかない。
アドバイスに従って文章を直したりするのだが、そうやって直した文章が本当に理解されるものなのか、結局は分からなかったりする。
そもそも最適解などないのだからしょうがない。
しかし、私は元来から、昨今の会話劇的や物語性を重要視した創作が支持され評価される傾向が、本音としてはたまらない。
そんな考えが透けているとされれば、否定のしようがない。
正直セリフやストーリーは読んでいて苛々するし、書いていてむず痒くなっていく。
ああ、なんだこいつらうじうじとと、そんなことを読んだり書いたりしながら思ってしまい、特に書くにおいてはできるだけ端折りたがるのである。
これは堪え性の問題なのだと思う。そして人間性の問題でもあるのだろう。
淡々とキャラクターの発言や行動を文章で追うのは、飽きやすく辛抱できない私にとって、脇の下をくすぐられている気持ちになってくる。
もう勘弁して、というメンタリティだ。
だから、例えば登場人物が話の中で喧嘩をしたとして、喧嘩中どう口論しどんな行動を取ったのか、を実際に書きするのではなく、
―AとBは口論になり喧嘩をした。
の一文か、
―AとBは口論になり喧嘩をした。BがAを打ちのめした。
の二文で終わらせたい。より詳細にするにしても結果報告するだけだろう。
―AとBは口論になり喧嘩をした。BがAを打ちのめした。Aは攻撃する間もなくBに抑え込まれたため双方に怪我はない。
きっと、喧嘩する前から文脈的に、どちらがどれだけ強いかわかるでしょ、と思っている。
私は、なるべくしてなるという理屈を信用して、予想だにしない番狂わせが嫌いだ。
BとAは何度喧嘩してもBが勝つ、という筋しか提示したくないし、その筋には前提があり意味がある、としか考えたくない。
もしそんな筋を追えない小説があったとして、それが不条理小説でなかったら、私は最後まで読めないし書くことはできない。
ときに主人公補正ばかりの少年漫画が不条理小説に思えることさえある。
私自身はそんな状態なのに、私の物語はなんだか複雑で、私の文章は複雑を簡潔にしようと忙しい。
自分の小説への理解を得たいと思っていても、結局は理解されているのか、よく分からない。
そしてシンプルで奇妙だが魅力のある話にも、あまり興味がなかったりする。
これもまあ、問題だろうなと思ったりしているが、それはまた別の話だ。
さて、話は戻るが、このnote、そしてステキブンゲイは、そういう私の拙い精神性を克服するために、習作の場として使っているものである。
だから割と、話も文章も簡単に書いているつもりである。
正直に言えば、登場人物の発する言葉や、登場人物の取る動作などへ割り当てる文章は、いつも一人で書いているものより、多くなっている。
人が情報を落とすのは、人が言いたいことを纏めた意見ではなく、それ以外のところにあったりするが、それも熟知している。
熟知した上で、私は自分が書きたい文章を書いているのに拘らず、キャラクターの言行を書くには億劫で、伝えたいことを伝えるための手間を、ただただ省きたい。
全く以て反省するばかり。それを矯正すべきだ。
そんなモチベーションのはずだったが、やはり私はセリフやストーリーを書けば書くほど、そこに対するディテールを多用する気は失せていく。
そこに重きを置きすぎるのは、そこはかとない疑問があるからだ。
私たちは、思っている以上に、自分の見たいもの聞きたいもの感じたいこと考えたいことしか、認識したいと思わない。
それが、私がセリフやストーリーに関して危惧していることだ。
つまり、私がセリフやストーリーを書き飛ばしたがるように、その逆もまたあり得るのである。
そう、小説の趣旨を、読み飛ばし書き飛ばすということである。
そして、今の流行りというのは、物語のカリカチュア化にしか思えない。
漂白された小説の方が読まれてしまうということが、はっきり言って怖いと思っている。
それを克服するのは、現在生み出されている手法においてはセリフやストーリーによる暗喩である。
しかし、どれだけの人がそれを読めているのだろうか。
人を殺しまくる主人公に、人を殺す罪を読み取れる人が、どれだけいるのだろうか。
人を殺す正義を唱える人に、人を殺す正義を否定する言葉を持つ人は、どれだけいるのだろうか。
「貴方は私を邪魔だと思っている」という言葉の裏に、「私には貴方が邪魔だから貴方には私を邪魔だと思っていて欲しい」という本心があるかもしれないと考える人は、どれだけいるのだろうか。
そこに対する疑念は、年々深まっていく。
そんなことを思いながら、最近少しきちんとした小説を書き始めた。
私はしばらく潜ろうとしている。