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崩落の積み木

 私が作った積み木の家を兄は何度も壊した。
 積み木が気に食わないんじゃない。作った家が気に食わないんじゃない。私が気に食わないのだ。
 私は家を壊されると、また積み木を組み上げて、別の形の家を作った。すると態とらしく兄はその上を歩いて全部台無しにされた。
 遠い昔にバラバラになった積み木セットはいつ何処で処分したのだろう。きっと母のことだから十分に気を使って捨てたのだろう。
 私に気取られないくらいに、そこに含まれた思いが還らないように、自然とそうしたのだ。


 降った雨の匂い、呼び起こされたような土の煙、木の葉に水滴が染みていくときの香り。私は全部覚えていた。
 春先、庭の梅の花が咲く。その木はもう枯れかけていて、罅だらけの木肌と僅か数輪の花弁は老いというものを連想させた。私はその花を見る度、今年が最後かもしれないと思った。
 夏代々の実り、暑くなる頃には落ちた。蝉の抜け殻が見付かり始めると、隣の空き地にあった小さなオリーブの木に虫が集ってしまい、葉っぱを食べ尽くす。夏の間中葉っぱを食べるのだ。
 秋は柿。渋柿だった。すすきがオリーブを覆い隠す。石垣の上から栗の実がたまに落ちてきた。丘の上に栗の木のあった。
 そして冬に凍えるような家だった。石油ストーブのせいで灯油の臭いがしょっちゅう漂った。嫌な臭いなのに、嫌いではなかった。
 あるとき引っ越し、引っ越し後数年で老朽化した家を取り壊すことになり、その土地は更地になった。梅の木は最後まで花を付け、とどめを刺したのは重機だった。​​
 よく言われることだが、家というものには住民の魂が宿る、という話がある。人が住まなくなると虫が集まり、ほろほろと壁も床も屋根も決壊して、綻んだ箇所から鼠や野良猫が侵入し、汚れながら朽ちていく。
 私はその様を見て、友人に馬鹿な冗談を言ったりして、実際に取り壊したときには「この前の台風で倒壊した」などと騙ったりした。友人たちはそれをなんのつかえもなく信じ込み、私はすぐに嘘だよと告げることになった。でも、それは積み木で出来た家みたく、風が吹けば倒れそうなくらいに、魂をなくしていたのだ。
 だからこれで良かったし、他に選択肢なんてなかったと知っていた。全てを壊すことに同意していた。
 そんな家に住んでいた私が、明る過ぎるほどに強い光を放つ蛍光灯の下、今こうして生きているのは、なにか不思議な気もした。


 「白井さん、まだ残るんですか?」
 山木が私に訊く。私は遠慮せずに帰れよと強がるが、本当はもう疲れ果てていたのかもしれない。
 「僕も残りますよ。」
 私は山木の元気さに尊敬の念を抱く。でも彼はここ最近遅くまで残っていることを知っていた。
 「大丈夫。」
 「いえ。僕も大丈夫です。」
 「俺ももう直ぐ帰るから。」
 「いや、でも白井さん忙しいじゃないですか。」
 「なら明日ほんの少し早めに来て、これ手伝ってよ。」
 そう言って資料の山を指差すと、山木は威勢よく返事をし、今からそれを見ようとする。なので私は、俺はもう帰るよ、と言い、それを辞めさせて、本当に帰る準備をする。
 仕事は終わっていなかった。でも放り出して帰ることにした。何とか間に合うところまでは来ていた。
 それに私はなにより、帰りたかった。山木よりもずっと帰りたかった。だから逃げるように、山木を止めオフィスを離れたがった。
 山木は食事に行きましょうと誘ってきた。私はそんな気分ではなかったが、山木がこれから帰って食べるものが、コンビニの弁当やカップ麺だと思うと、少しくらいいいかという気持ちになった。
 「伊月工業の件、山田に決まったそうですね。」と店に向かう途中で山木は同情するみたいに告げた。
 「そうだね。まあこれで少しは楽になるよ。」
 「だと良いんですが。」
 「楽になるさ。」
 そこでは下らない話が続いた。山木は最近はまっているという趣味のダーツについて語っていたが、私は何も知らずについていけなかった。
 「ダーツなんてしばらく見てもいないな。」
 そういうと、今度行きましょうよ、と言われた。でも私が乗り気でないことは顔に出ていたようだった。
 深夜帯に入る時間、ラーメン屋くらいしか空いていなかった。なぜ名古屋の飲食店は店が閉まるのが早いのかと質問があった。
 東京は勿論、彼の地元でもこんなに早くないという。
 「そんなの知らないな。」
 「そうですか。」
 「というか、俺が遅くまでやっている店を知らないだけなのかも。」
 そんな答えが虚しく響いた。


 高瀬は山田に仕事を引き継ぐよう、朝一番私の顔を見た瞬間に言った。相変わらず言い方に棘があるように感じた。
 「ええ。分かっています。」
 私はそう答えて、やり残した作業を仕上げることに集中した。でも高瀬は急かすように引き継ぐ仕事の資料を渡してきた。
 「じゃあ、あとで。」と適当なことを返した。
 山木はいつもより随分早くに出社した。真面目なやつだと私は改めて思った。ついでなので山木が纏めた資料にコメントを出し、山木はアドバイスを受け入れ資料を直し始めた。
 「おはようございます。」
 私は声が聴こえ、珍しい、と思った。同期の倉持がこんなに早く出勤することは最近なかった。だから振り向いて彼女の方をじっと眺めた。なぜか焦点が合わず、どこを見ていいか分からなくなった。
 「白井さん、疲れてます?」そう笑われた。
 いや、と声を出した。咄嗟に出た言葉で意味を内包していないものだった。​疲れてますか、と訊かれれば、疲れてます、と答えていい。そのはずだった。
 その後少し席を立って戻ると、なぜか山木は高瀬に叱られていた。倉持はそれを冷静な様子で耳だけ傾けていた。
 「済みません。」と山木は言うが話を聞くと、昨日なぜ途中の仕事を残して帰ったのか、という理由で怒っているようだった。
 「それはそうするように指示したんですよ。」と私は事実を告げた。
 高瀬は不満そうだったが諦めて口撃を止めた。
 午後、私は山田に仕事を引き継いだ。山田はとりわけ優秀という訳ではないが、なにも問題はなさそうだった。
 その日も仕事は長引いた。私が帰る頃、そこには誰も残っていなかった。


 積み木はもう崩れた。私の組み上げたものはなにも残っていなかった。
 兄はなぜ私の作った積み木の家を壊したがったのか。なぜ私を嫌っていたのか。今でも理由が分からない。
 もう十数年はまともに話していなかった。そしてまともに話さないのは別に私を嫌っているからではなさそうだった。なぜなら父とも兄は話をしないのだから。
 兄は職場では信頼されているという。少し嘘みたいに思えてしょうがなかった。でも思えば、もちろん会う機会が極端に減ってより一層でもあったが、話をしなくなったのは子供の頃だった。
 なにか負い目でもあるのかと思ったが、私も父も兄を責めるようなことはなかった。むしろ向こうに責められるくらいに私は無責任だった。家のことなんて何もしていない。
 たぶん、家族の内の誰かが死んだりしないと、会話なんてしないだろう。
 私が想像するに、兄が壊したものは、私のものだけではなかった、兄のものも一緒に壊してしまっていたのだ。
 私も、自分で意図せず壊してしまったものを想うと、そういうこともあるのだと、そうなのだと、なった。
 細い左手、温度のない指先、悪戯に笑う顔。私はそれを手に入れるどころか、ただ壊すために固く口をつぐみ、手も差し示さなかった。いや、私が想いを彼女に告げても、彼女は私のことを見なかったかもしれない。 
 音を立てる。破裂して崩壊する。その警告の笛に耳を塞ぎ私は逃げてたのだ。その結果が金色の指輪だった。それを指に嵌めた姿だった。
 「聞いてます?」山田は私に冷たく言った。
 私は、聞いていないと思うか、と山田に冗談めかして返した。山田は絶対聞いていなかったと私に返した。
 山田の疑問点を最後に確認していると、自分が作った資料が分かり易いのかどうか考え、改善点があるように思い始めた。でも山田は頷いているようなので、分かる資料ではあるはずだった。
 引き継ぎが終わると私は新規の仕事の打ち合わせをした。それは以前から見た光景の焼き増しのようだった。まるで季節を切り取って貼り付けているようで、毎日がとても単調だった。
 きっと、こんな日々だから、人は狂うのだ。そして何に狂うのかは任意だ。ご自由に踊り狂えばまるで自分が回っているように感じる。そして人にとってその自転がその世界のすべてになる。
 ——だけど俺は狂えなかった。そしてバラバラの積み木の山の中に取り残された。ただそれだけのことだ。
 来月から私は完全に伊月工業から離れ、山田が担当者として業務をこなしていく。高瀬は倉持に心配ないと言い、倉持は私に引き継がせた仕事を詫び、私は黙って首を振った。


 山木と別れ自宅に着くと十二時を回っていた。
 私の部屋は見事に散らかっていて、暗いまま鞄を置くとそこにチラシが放置してあったらしく、勢いよく紙の山が崩れる音がした。
 うんざりしながら明かりを点けると、それは地域情報誌と宅配寿司のチラシで、腹の空き具合から思わず手に取り記載されている写真をしばらく眺めた。
 空腹を満たすためだけの食事は適当に済ませた。栄養の摂取が終わるとシャワーだけ浴び布団に入った。
 その日、よく分からない夢を見た。私は夢の中でなにも出来なかった。
 そこに在るのは仕事だった。場所はもちろんオフィスで皆出社していた。私はいつも通り仕事をしようとするのだが、なぜか書類の作り方もエクセルの使い方も電話番すらできず、窓を開けるように言われても窓さえ開けられなくて、ただただ不能となってしまった。
 私は書類の整理を頼まれ、積まれた書類をフォルダに入れるという作業をさせられた。
 「今日なんかおかしいんだ。」としきりに言い訳を繰り返していた。その言い訳を聞いてくれる人は皆無だった。
 私は書類整理すら上手く行かなかった。書類を束ねたり仕舞い込んだりしようとすると書類の束をバラバラに崩し、床にぶちまけるということを何度も繰り返した。
 やがて私は嫌になり、それでも書類を拾わなければならなくて、拾っていると倉持が現れ、私を手伝おうとするのだ。
 倉持はとても素早く書類を拾い上げ、いとも簡単にフォルダに収めた。私はなぜか劣等感を覚えてしまった。
 彼女が何でも卒なくこなすことが公然の事実だということを、全部忘れていた。
 「ありがとう。」と私が辛うじて言うと、いいえ、という言葉が帰って来た。
 「じゃあ。」そう言い残して去っていく。
 私は倉持が纏めたフォルダを棚に入れよう手元が狂い、はっとして目が覚めた。

 

 私は覚えていた。
 その春、私が見た桜は、それが初めてだった。私の隣には彼女がいて、私は言うべきことを言えずにいた。
 暖かいような、冷たいような、中途半端な気候だった。それでも日光だけは柔らかくゆれ、瞳に差し込む光は色が濃く、眩しかった。
 その日のことはずっと忘れないだろう。
 私が口を開く前に彼女は私の言葉を遮るように、自分は大丈夫だと、そう伝えた。それが怒っていたのか、それとも笑っていたのか、私には読み取れなかった。
 私はそれでも、裏打ちされた冷たさのようなものを、そこに感じた。それはきっと錯覚ではなかったのだろう。
 そして悟った。何も言って欲しくないのだと分かった。



 「今日は早いんですね。」
 地下鉄のホームで記憶を辿っていると倉持が声を掛けて来た。少しびっくりしたが私は返事をした。
 「お疲れ様です。」
 倉持は笑っていた。
 「あと二週間でしたよね?」
 「はい。あと二週間です。」
 「そうか。」
 私は言い、話題を探した。彼女とは途中まで電車の方向が一緒だった。
 「倉持さんはお兄さんがいるんだっけ。」なぜか捻り出した話題はそんなものだった。
 「ええ。でも東京です。」
 「まだ会ってないの?」
 「今週末初めて会います。家族で食事するので。」
 「そうなんだ。」
 なんでそんなことを訊いたのだろうと、私は自分が馬鹿馬鹿しく思えてしまった。
 「白井さん、大丈夫ですか。最近本当に忙しそうですけど。」
 「うーん。大丈夫じゃないかな。」
 分かんないけど、とそう思った。少なくとも今すぐ死んだりはしないだろう。そんな楽観だけはあった。
 電車が着き乗り込むと仕事の話になった。私はその話を発展させ、乗り換えの駅で電車を降りた。
 倉持と面と面とで話したのはそれが最後だった。彼女は退職しすぐに新居に引越しをするのだということだった。


 高瀬は山田を叱った。これで山木も山田も高瀬の犠牲になった。だけど高瀬にまともな対応を期待する方が間違いだった。
 私は伊月工業の業務を見直し、もう一度山田と一緒に一から十まで復習した。
 それは壊された積み木を組み上げていくようなことだ。そんなことにはもう慣れっこだった。
 きっといつまでも完成しないものを、こうやって組み上げ続けるのこと。ただそれだけだ。
 それが嫌なら忘れるしかない。全て忘れてしまえば私も組み上がらない積み木のような生き方をすることになるのだろう。
 私は手を止め、考えた。もう一度だけ、考えた。
 なぜ兄は積み木の家を壊したのだろう。
 なぜ私はすべてを壊したのだろう。
 なぜだ。

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