魂を繋ぐ神秘の糸#2
第3章 緑雨の中に
暫くぶりの雨が奏でる音と、硯に墨を引く音とが小気味よく聞こえてくる。
ドン、っと一つ大きな音が鳴ったかと思えば、ガラガラガラっと雨戸が開く音がする。
手首の細いひょろっとした腕が茶碗と共に窓の外に飛び出してきた。
黒子は雨が降ると必ず水を集める。
雨水は天の機嫌を教えてくれる。
教えてくれるといっても、ただ雨水を溜めただけでは何も分からない。
溜めた雨水を硯に注ぎ、墨を刷る。
黒子は雨水で墨を刷る時、どこまでが雨水で、どこからが墨になるのか、思いを巡らせる。
例えば25メートルプールいっぱいに張られた水にコーヒーを1杯ちゃぽんっと落とす時、これはまだコーヒーではく「コーヒーが1杯混ざった水」だろう。
しかし水とコーヒーの比率が1:1になったと時、これは水だろうか、コーヒーだろうか。
同じように雨水で墨を刷る時、どこまでが雨水で、どこからが墨になるのか考える。
墨が一滴でも落ちるとそれは元の水とは別の物になると言えるが、果たしてそれは「墨になった」と同義なのだろうか。
「ちょうど良い」
そう言って墨を刷る手を止め、硯に筆の先を浸し墨を乗せる。
畳にして2畳分くらいだろうか
壁にかけた大きな和紙に向かってビャッと音が鳴るほど鋭く筆を振り墨で天の機嫌を伺った。
一画、また一画と無心で筆を走らせると
「龍」の文字が浮かび上がった。
墨の色の出方、紙への染み方、余った墨の垂れ方、乾き方、その全てを読み取ると天の機嫌が見えてくる。
今日はいつになく色ムラが激しく、墨がまっすぐ垂れずに荒々しく蛇行し乾く事なく床にポタポタと滴った。
荒れ模様、一目でそれと分かる龍神の姿だった。
「ここまで荒れたのはいつぶりだろうか...」
なんて事はない。
色ムラが無ければ平穏な日々が続き、自然の道理に習って墨が真っ直ぐ下れば天変も無い。墨がすぐに乾けば天は穏やかに人の生活と距離を取る。
なんて事はないのだ。
そう言い聞かせる。
腕を組み窓の外の雨模様と目の前に現れた荒々しい龍神を交互に眺めながら、これから自らの身に押し寄せるであろう荒波の飛沫を感じつつ、黒子は大きなため息を吐いた。
雨音の羅列が作る静寂を破り、一階からカランコロンと九泉のドアが開く音がした。
「う〜ん、ずいぶん降りますね〜」
遠くから聞き馴染みのある声が聞こえた。
階段を半分ほど下り、大きな身体を屈めて入り口を覗き込むと、犬が身体中を震わせ雨水を振り払うように黒子ちゃんの体が波打つのが見えた。
「おかえり。ちょっと2階へ来てくれるかい。見せたいものがある」
お上の“ご機嫌”がよろしくない事をどう伝えようか、これから出す言の葉を反芻したが、ちょうど良い表現が見当たらなかった。
「例の件、実態が見えてきました。黒子さんの想定より厄介そうですよ」
タオルで髪を拭きながらトコトコと階段を登る相棒の他人事のような物言いに頭がきたのか、黒子はぶっきらぼうに部屋の奥を指差した。
「あっら、まぁ〜」
黒子ちゃんは両の掌で左右の頬を包み、窓の外の雨模様と、黒子の指の先で呆れるほど荒ぶった龍神を交互に眺めながら、これから"黒子の身に"押し寄せるであろう荒波の飛沫を遠くに感じつつ、その場凌ぎの言の葉を紡いだ。
「ずいぶん降りますね〜」
第4章 天に問う、天は答う。地の上で人は何を想う。
九泉は建物こそ古めかしいが、どこか神秘的で温かみに満ちた雰囲気が漂っている。
広さにして15畳ほどだろうか。
贅沢を言わなければ決して狭い事はない。
カウンターにはピンヒールのようにすーっと足が伸びた座面の小さな椅子が6つ並んでいる。
よろずやとして軒を構えてこそいるが、裏を返せば何屋でもない。
有っても無くてもよい、いてもいなくてもよいのだ。
鶯谷に夜の活気が溢れる頃、一人の老人が九泉に足を踏み入れた。
彼の姿は月明かりに浮かび上がり、その白髪は光を反射し、まるで星のように輝いて見えた。
端の席に腰掛けた老人の姿を見て興味深げに声をかける。
「ようこそ」
老人は微笑んで頷き、静かな口調で語り始めた。
「我が名は過去の記憶に埋もれし者。今宵、汝に重要な使命を授けん」
グラスを拭いていた黒子の手が止まり、片方の眉がピクッと上がり、恐る恐る問いを投げかける。
「...ご機嫌は、いかがでしょうか」
深く顔に被った白髪の間から、察しがよいと言わんばかりにニヤリと微笑んだのが分かった。
「"魂を繋ぐ神秘の糸"を紡ぎ直すのだ。その糸は失われし心の弦。
然る後、汝の使命が果たされんとする」
老人の声はさながら神のように、仏のように荘厳であり、いでた言葉は金色の型を成し澱みなく空気中を駆け巡った。
九泉、それは「あの世」
深い九重の地の底
光届かず、色はなく、音の聞こえぬ
深い深い九重の地の底の果て
取り止めもない話になるが
通常、九泉は目に見えない。
正確には存在を認知できない。
従ってここに来る"お客様"は須くその一切が
ワケアリ、だ。
老人の座る椅子の影の中からスーッと姿を現した黒子ちゃんは、彼の羽織るローブの裾からポタポタと滴る覚えのある薄灰色のソレをジッと見つめていた。
「突然の
黒子がそこまで口にすると被せるような大きな声で
「突然の、事で、か?」
黒子の脳裏にうっすらと覚えのある、否、ハッキリと覚えのある自らが問うた機嫌の主を感じ取ったと同時に、突然という言い訳を恥じた。
老人は大きな口で微笑むと
「ずいぶん降ったな」
そう呟き足音もなく九泉を去った。
荒々しく蛇行し乾く事なく床にポタポタと滴る墨だけが残った。