魂を繋ぐ神秘の糸 #3
第5章 葛藤の蕾
早朝の清々しい風が耳とすれ違う音と共に小さな鈴の音が聞こえる。
その音は掴み所がなく不規則だった。
時折、始発電車が走る音に掻き消されたかと思えば
神社の鈴のようにガランガランと大きく鳴ってみせる事もあった。
掃除をしながらしばらく咥えたままだったタバコに火をつける。
2階の窓際に腰掛け何を見るわけでもなくフーッと煙を吐いた。
"魂を繋ぐ神秘の糸"
夕べの事は脳みその皺の一つにまでこびりつくように鮮明に覚えている。
しかしその一方でそれが何なのかは皆目見当もつかなかった。
あれからというもの、ありとあらゆる文献や資料を当たったが、これという情報は見つからなかった。
この世界では「魂」は定義のあるものではないとされていて、誰もみなその実体は掴めない。
まるで友人からよく聞く友人の話のような
いるにはいるのだろうけれど、いなかった所で自分には何の影響もない、いるであろう友人。
魂もまた、恐らくヒトの想像のそれに近しい、あるにはあるだろうけれど、存在自体がなかった所で何の影響もない、あってもなくてもよい存在。
その実体のない「魂」を「繋ぐ」というのもピンとこない。
ないものは何とも繋げはしないのだ。
点と点を繋ぐにも2つ以上の点が必要であって、そのうちの1つすら曖昧なのである。
朝日が差し込んでくると黒子の影が部屋の中に伸びた。
伸びた影の先が一階に続く階段の暗がりへと触れた時
「腹が減っては?」
いかにもまだ眠いという声と共に、影の中からスーッと黒子ちゃんが姿を見せた。
「腹が減っては?と聞いてるのですよ」
少しずつ近づいてきた不規則な鈴の音を背中に感じながら
「…戦はできぬ?」
と答えると
小さな真っ黒い塊がうんうんと頷きポンとお腹を叩いてみせた。
黒子の記憶の奥底まで思いを巡らせるに
この黒い塊は物心がついた時にはすでに隣にいた。
より正確に表現をすれば「自我」を認識した際にはもう隣にいた。
時に自分の合わせ鏡のようであったり
時に反面教師のようであったり
時に天邪鬼であったり
まるで一定でない、掴みどころのない存在だが
“自我“を認識したその日から当たり前のように隣にいるのだ。
短くなったタバコを口の端で咥えながら、朝食は何にしようかと冷蔵庫の中身に思いを馳せていると
黒子から伸びた影の上をトントンとつま先で突つくようにバランスを取りながら黒子ちゃんが近づいてきた。
それと同じタイミングであの鈴の音が随分と近くなったので窓から下を覗くと
世間でいう“女王様”が女王様そのものの格好で
下腹部だけを隠したあられも無い姿の中年男性を四つん這いにさせ散歩をしている。
“ワンちゃん“の首には大きな金色の鈴と犬用の長いリードがついていて
小太りで少し重そうな体を一生懸命に動かすたびに鈴の音が響く。
2、3歩先を行く女王様が立ち止まり15センチはあろうヒールをコツコツと地面に打ち鳴らすと
ワンちゃんは元気よく「ワン!」とお返事をする。
信頼と信用と、愛情と愛欲と、羞恥と破廉恥と
様々な要素が絡み合い、結びつき、1つの形を成している。
それは九泉が居を構える鶯谷の早朝に相応しい光景であったが
2人の朝食のお供には適さないものであった。
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