魂を繋ぐ神秘の糸 #4
第6章 宙亀 そらがめ
九泉の店内では静かな午後が続いていた。
壁一面の格子状の棚にはありとあらゆる言語の夥しい数の本が、それぞれの枠の中で色とりどりの酒瓶と共に並んでいて見るものを圧倒する。
本の前に酒瓶が並んでおり奇妙といえば奇妙ではあるが、ここには黒子のこだわりがある。
一見するとなんの規則性もないように見えるが、並んでいる酒の原産国と棚の本はリンクしており、酒の度数が高くなるに応じて本の内容も高度になっていく。
つまりアードベックが並んでいればスコットランドという国への理解がなければ難解な本が、ジャックダニエルが並んでいればアメリカの本が並んでいる、といった具合だ。
占術という枠組みが最も顕著だが、その国で生まれたものはその国で最も輝くものである。
例えば占星術、これはその国から見える星を基準に考えているので北半球の国と南半球の国とで同じ事象の解釈がまるで違う。
したがって原産国であれば確かな精度を持つ占星術も他国へ行けば参考程度にといった塩梅になる。
何の気なしにカウンターに座り真上を見ると、天井を丸くくり抜いた天窓越しに少し欠けた月がこちらをジッと見つめ黒子の心へまっすぐ駆け込んでくる。
日本の名酒 山崎25年のボトルを端に避け、ボトルの後ろから一冊の本を手に取りパラパラと開き黒子ちゃんに向かって話始める。
「ねえ、黒子ちゃん」
「ここを見てごらん」
黒子ちゃんは手にしていた掃除用のハタキをカタナのように懐に納め、小走りでとっとと駆け寄った。
「美紀の茂みは“味付けのり“を更に細くした形をしていた。『面白い形をしているのだね』田山は茂みをそっと手で撫で、指を割れ目沿いに這わせていった」
「なんなんですか」
「官能小説用語大辞典、味付けのりの用例だよ」
「違います」
「あぁ、白衣の奴隷の一節さ」
「違います」
呆れた表情の黒子ちゃんがカタナの柄に手を掛けたのをよそに黒子がパタンと本を閉じた。
何と言うわけでもなく2人の足は書庫に向いていた。
九泉のバーカウンターの裏には地下へ続く階段があり、2人以外がその空間に入る事は無い。
狭い階段を降りていくと細長い地下通路が続いている。
黒子ちゃんが両の手をポンと叩くと、音の響きが届くと同時に壁沿いにずらっと並ぶ蝋燭に順に火が灯っていった。
さながら命が通ったかのようだ。
しばらく2人で通路を歩くと大きな木戸に突き当たる。
木戸の右側には将棋の盤面が埋め込まれており、その駒は水族館の魚のように縦横無尽に動き回っているが、黒子が覗き込むとぴたっと駒の動きが止まった。
黒子は組んでいた腕を解き右手を顎に当てる。
詰め将棋だ。
数秒の沈黙の後、二つ三つ駒を動かした。
ギィイと言う古い木が擦れるような音とともに裏側から木戸が開錠されたことがわかった。
ここに入るのはいつぶりだろうか?
地上に出ている九泉の面積とは比べ物にならないほど広い空間が広がっている。
そしてそれは呼吸をするように形を変え、今この瞬間も広がったり、縮まったり、生き物のように形を変えている。
ズズズっと地を這うように小さな小さな木彫りの亀がこちらに向かってくる。
亀はぎこちない首の動きで地面からこちらを見つめている。
口が開いたかと思うとパーっと明るい光が溢れだした。
あたり一面をぼんやりと照らすその光は生き物のようにうごめくその空間の全てを可視化させた。
まず初めにこの空間があって、次に九泉が生まれた。
あの世とこの世
天と地と人と
九泉、それは「あの世」
深い九重の地の底
光届かず、色はなく、音の聞こえぬ
深い深い九重の地の底の果て
壁と呼ぶのに相応しいかはわからないが、通常の建物で言う壁面にあたる部分が宇宙全体の始まりから終わり、すべての情報を止めどなく映し出すモニターのようになっている。
まるでインターネット黎明期の動画投稿サイトのように右から左へ。
あらゆる言語が川のように流れている。
そしてまた同時に左から右へと異なる情報が流れている。
そう認識したかと思えば上から下へ下から上へ。
まるで人間の理解を超える情報の量を与えられ、常人であればその脳みそでは何も認知できず
そこには「黒い壁がある」と認知するにとどまる。
九泉が通常人間の目に見えない理屈もこれと同じく
認知できるものがいない。
そう表現するのが正しいかもしれない。
2人の目の前に現れた亀は煌々とあたりを照らしている。
短い手足を少しバタバタさせたかと思うと、力士が四股を踏むようにドンと何かを一区切りさせ大きく息を吐いた。
その瞬間、足元にいたはずの亀が、1つの島かと思うほど大きな姿に変わっていた。